「フォルトゥーナ様! クレスくんは、大丈夫ですか!?」

「心配するな、神父。掠り傷と軽い打撲が少しだけだ。最後に首を絞められて落ちたが、首にも異常はない。目が覚めれば、すぐに動くことも出来る」

「しかし!」

「くどい。静かにしていろ」

 暗闇の中で、聞いた事のある声が話しているのを、クレスは胡乱な意識で聞いていた。

 自分はどうなったのか……と意識を巡らせるが、どうにも思い出せない。

 なにか、トンデモナイ、悪夢じみた、もう二度と出会いたくない、しかし最後は少しだけ爽快な、そんな夢を見ていた気がする。

「あ……」

 喘ぐ声を出すだけで、首に痛みが走った。漏れ出る音は、どうしようもなく枯れていて、まるで風邪にでもかかったかのようだ。

「クレスくん!?」

「しん……ぷ?」

「起きたか」

「ふぃ、ず?」

「ああ。どこか痛むところはあるか? あるなら言え」

「特に……。でも、水が飲みたい、かな」

 言うと、枕元に置いてあった水差しが差し出された。どうやら、ベッドに寝かされているクレスに対する気遣いのようだ。

 フィズの、意外に優しい行動にびっくりしつつ、クレスは水差しの先端を口に含む。ゆっくりと水差しが傾けられ、コク、コクと喉を震わせて口に滑り込んでくる液体を嚥下していった。

……だが、やはり首を動かすたびにヒリヒリした痛みが走る。

 なんだろう、これは。

 フィズの怒りを買って、絞め技でも喰らったのかな? などと、非常に失礼な想像をするクレス。さて、寝る前はなにをしていたかなっと、などと思い出そうとして、一気に血の気が引いた。

 黒い影。魔法。フィズ。エレメンティア。逃げ。立ち向かう。衝撃。傷。魔物。首を絞められ……

 アトランダムにフラッシュバックする光景。

 お陰で、飲み下すのを失敗したクレスは、食道から水を逆流させ、鼻から『ぷぴっ!』と噴射する。

「うわっ! き、汚いですよ、クレスくん」

「ふぃじゅ! ま、魔物は!?」

 それにかかってしまったラス神父の抗議を無視して、クレスはフィズに詰め寄った。まだ口に水が残っていたせいで、名前を呼ぶ時ベッドに水を零してしまったが、それより聞かなければならないことがある。

「こら、行儀が悪いぞ」

「そんなことはどうでもいいから!」

「ふむ……。奴は、死んだ」

「死?」

「ああ。わたしが止めを刺した。もっとも、わたしが駆けつけた時にはほぼ瀕死だったがな。初めてにしてはやるじゃないか、クレス」

 素直な賞賛の言葉に、照れかけるクレスだが、すぐにそんな事をしている場合じゃないと慌てる。

「な、なんで魔物がこの国に来るの!?」

 侵食地域に根を張る魔物は、逆に侵食地域からあまり離れて行動は出来ない。侵食地域に隣接しているファルヴァント、神霊オレアナ両国以外では殆ど見ることはない。

 このサナリス王国でも、もっと南の方ならたまに来るらしいが、侵食地域から随分離れているこんな村に出現することは、十分過ぎるほどの異常事態であった。

「いや?」

 と、そこでクレスは違和感を感じる。

 ……『来る』?

 確かに、魔物は基本的に、侵食地域からやってくる存在だ。それは、彼らが“発生”するのが侵食地域でのみだからであり、それ以外で発生することはない、はずだ。

 しかし、クレスが戦った『アレ』は、どう見てもあそこで“発生”していなかったか?

 その意味に思い当たろうとしたクレスは、たちまち顔を青くする。

「どうしたのです、クレスくん?」

「神父……。魔物が」

「ええ。聞いていますよ。魔物がこの村に来たそうですね。しかし、君が撃退してくれた。君という魔法士をこの村に産み落としてくださったレヴァ神に感謝しないと」

「違う!」

 法印を切り、祈りを捧げるラス神父に頭を振る。

「あれは……あの、魔物は、“発生”したんだよ。なにもない空間から、染み出すように、こう“産まれた”んだ」

 考えを纏めながら、なんとか自分の考えを口にする。

言い終わると、沈黙が、部屋の中に落ちた。

『魔物が発生した』

 その意味については、教会関係者の二人のほうがよく知っているはずだ。なにせレヴァ教は、魔物、そして侵食については専門家なのだから。恐らく、事態を重く受け止めて、近隣の教会に助けを求めるだろう、とクレスは予想していた。

だが、

「なんだ。意外と見ているのだな、クレス。あの状況で、そこまで観察し、なおかつその結論に達するとは。あの規模の魔物を、ほぼ一人で撃退したことといい……助手としては申し分ない能力だな」

 まるで、出来の良い生徒を褒めるように、フィズは驚きもせずにクレスを撫でた。

「フィズ、なにを言って……」

「もう少し寝ていろ。先ほど鎮痛剤を飲ませたからな。まだ眠いはずだ」

「え?」

 そういえば、起きたばかりだと言うのに、確かに眠気はある。

 しかし、そんな場合じゃあない。呑気に寝こけている暇などあるわけが

「心配するな」

 ないはずなのだが、フィズは一言でクレスの懸念を切って捨てた。

「だ、だけどっ」

「大丈夫だ。本来の“侵食”は、まだ一週はかかる。あれは、かなり特殊なイレギュラーだ。穴が開くまで、ああいうことは普通ない」

「なん、だって?」

「しばらくは、魔物は出ないということだ。わかったらとっとと寝ろ」

 布団をかけられて、無理矢理上半身を押さえ込まれる。

「だって、“侵食”だぞ? “外側”からの。そんなに落ち着いていて、いいの?」

「いい。そのための、わたしだ」

 よくわからない。

 言うほど、クレスも“侵食”について知っているわけではない。“世界の外側”が、この世界を滅ぼそうとしている前兆であり、その“外側”の住人が魔物である。その程度だ。そして、この世界の人間の殆どが知っていることでもある。そして、それ以上の事を知っている人はあまりにも少ない。

「フィズは……」

「ああいうのの相手をするためにわたしがいる。起きたら、詳しく話してやろう」

 そして、その数少ない一人が、フィズらしい。レヴァ教は、確かに“侵食”に対抗する事を至上の使命としている。侵食や魔物に対処するための役職もあると聞き及んでいる。

 でも、

「フィズが?」

「いい加減、しつこい奴だな。寝ないと治りも遅い。これ以上ぶつくさ言うつもりなら、強制的に眠らせるぞ」

 何気に怖い事を言って、フィズは立ち上がる。

「養生しろよ」

 それだけ言い残し、退室していった。

 残ったラス神父に物言いたげな視線を向けるクレスだが、当の神父も肩をすくめて、部屋を出て行く。ただ、最後に、

「自分で、決めなさい」

 と、一言だけ残して。

 なにを、と聞く前に神父の姿は消えてしまっている。

「なんだよ……」

 なにか、自分の近くでとんでもないことが起こりつつある事を肌で実感して、クレスは一つため息をつく。

 とりあえず、このまま追いかけて問い質しても答えは得られそうにもない。することもないので目を瞑ると、すぐに睡魔はやって来た。

(ああ、もう。どうなってんだ、これ)

 そう思うと同時に、クレスの意識は落ちていった。