安いなぁ、と我ながら思うが、しかしクレスは緩みまくる頬を押さえる術を持たず、ニコニコと不気味なまでに微笑みまくりながら、朝食を作っているのだった。
「……クレスくん。なにがあったんですか?」
すわとうとう壊れたか、などとぶっとい字で顔に書きつつ、その様子を見ていたラス神父が尋ねる。
いつもよりやや乱暴な手つきで卵をかき回していたクレスが、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに振り返って、満面の笑みを浮かべる。
「いやぁ、なんか知らないけど、フィズが仲直りしてくれたんだよ」
「フォルトゥーナ様が?」
ラス神父は首をかしげる。
神父の経験から言って、ああいう風に信仰に凝り固まった人間が、そうそう態度を軟化させるということは考えにくかった。
もし、クレスが手練手管でフィズをやり込めたというのならば、神父の中のクレス像は大幅な修正を余儀なくされる。一応、クレスを幼少の頃から育て上げてきた者が彼の人物像を計り損ねていたとなれば沽券に関わるので、ラス神父は恐る恐る問うた。
「その、どうしてですか? クレスくんに限って、口先で言いくるめた、というのは考えにくいですけれど」
「悪かったね」
憮然としつつも、やはり笑いを堪えることが出来ないらしい。はっきり言って、ここまで笑われると気持ちが悪い。
「まぁ、実のところ僕にもなんで許してもらえたのかはわからないんだけどね。なんか、エレメンティアのことを尋ねたら、いきなり『実戦経験はあるか?』なんて聞かれて」
クレスは、神父にその経緯を語る。話を進めるごとに、神父の顔は固いものへと変わっていくことに、クレスは気が付かない。
「来たぞ」
そうこうしているうちに、汗を流して着替えてきたフィズが戻ってくる。
頭から水を被っていたので、まだ髪は少し濡れている。水滴が滴る栗色の髪の毛に、クレスはわけもわからず恥ずかしくなって、台所へ慌てて顔を戻した。
「あ、あ〜。フィズ。今朝はオムレツを作ったから、沢山食べてね」
「ほぅ。朝から豪華だな」
「いやぁ。ちょっとはりきっちゃったよ。仕事行くまで、少し時間あるしね!」
やたらテンションの高い様子にも、フィズは動じない。ついさっきまで険悪な関係だったにも関わらず、完全に元に戻っている。
変なヤツだな、と思いつつ、フィズは席についた。
「……フォルトゥーナ様」
「なんだ、神父」
そこへ、ラス神父が神妙な声で話しかけてきた。台所にいるクレスに聞こえないよう声を潜めているが、いつになくその声には焦燥が混じっている。
「クレスくんから、話は聞きました。まさか、貴方様は……」
「もう聞いたのか。口が軽いな、クレスは」
「フォルトゥーナ様……」
咎めるような神父の言葉を、フィズは手で制す。
「多分、貴方が想像している通りだ。だが、決して危険な目には合わせないと誓う。クレスに頼みたいのは、あくまでフォローだ。命の危険は、絶対にない」
「しかし、万が一にも失敗するという可能性も……」
「その時は、この村が地図から消えている」
これ以上なにか言う事はあるか、と神父を睨みつけるフィズ。
ラス神父は、なにか反論しようとするが、結局なにも言う事は出来ず、うなだれた。
「はーい、出来たよ。クレス特製オムレツー……って、どうしたの、二人とも?」
「いや、なんでもない。うまそうだな」
二人の妙な空気にクレスは気が付いたが、フィズが料理の事を素直に褒めてくれたのは久しぶりなので、すぐそのことは頭の中から消えた。単純極まりない。
浮かれ気分のまま、テーブルにオムレツを並べていく。
フィズの分だけ、妙に大きいのはいつものこと。……いつもより、かなり量的に優遇されている気がするが、そのくらいはご愛嬌である。
「……とりあえず、クレスにはしばらく隠しておく。まだ、先の話でもあるしな。折を見て、わたしから話そう」
並べられる皿を横目に、フィズは神父にそう耳打ちした。
「あれぇ? クレスお兄ちゃんとフィズお姉ちゃん、仲直りしたの?」
洗濯のため、川に向かっていたクレスは、途中でホリィに出くわした。どうも、教会に行く途中だったらしい。そして少女は、クレスとフィズの間に流れる空気の変化を敏感に感じ取ったのか、不思議そうに尋ねてきた。
「それは違う、ホリィ。元々、わたしはクレスと喧嘩などしていなかった」
「だけど、無視したりしていたじゃない」
「それはそうだが、喧嘩ではない。ただ、取るべき態度を計りかねていたのだ」
これは事実である。魔法士は、基本的にレヴァ教の人間からすると、嫌悪の対象でしかない。現在ではないが、魔法狩りと称して、魔法士を片っ端から処刑していた時代もある。今では、そういったこともなく、少なくとも一般人には黙認されている魔法士だが、やはり生粋のレヴァ教徒にとっては、殺しても飽き足らない存在であることに変わりはない。
そう考えると、フィズの態度は、甘いといえるものだった。
「う〜ん、よくわかんないけど、仲直りしたなら、よかったね!」
「だから……いや、いい」
説明するのも面倒くさくなったのか、それとも似たようなものだと思ったのか。フィズはそれ以上反論することはなかった。
「仲直りしたんだったら、三人で遊ぼうよ!」
「あのなぁ、ホリィ。見ての通り、今から僕たちは洗濯に行くんだよ。その後は、種まきに草むしりに収穫だ。今日はお前と遊んでる暇はない」
大量の洗濯物が入った籠を突きつける。フィズも、それに倣ったのか、クレスのそれに比べると幾分小さな籠を両手を目一杯伸ばして頭上に掲げて見せた。
「むぅ〜〜」
不満そうに口を尖らせるホリィだが、幼いとは言え彼女も村の一員。仕事をしなければ、食べていけないということくらいは、身に染みて理解している。
ただ、わかっていることと、それを実行できることはまた別だ。その辺はまだまだ子供である。遊びたい遊びたい、という本能を抑えられない。
「じゃ、じゃああたしも手伝う! 早く終わらせて遊ぼう!」
「あ、こらっ! 洗濯物を勝手に持っていくなっ」
「あ〜、これクレスお兄ちゃんの下着〜?」
「やめんかーー!」
子供らしい好奇心というか、悪戯というか、とにかく洗濯物の中から下着を摘み上げて見せるホリィ。将来が非常に不安になる図だ。
追いかけっこを開始した二人を、フィズは苦笑して見送る。洗濯物が落ちて、道に散らばってしまっている。どうやら、追うのに必死になっているクレスは気がついていないらしい。
それらを一つずつ拾っていき、二人の後を追う。なんだかんだで、目的地の川に向かってはいるらしい。蛇行していて、どうも無駄なエネルギーを使っているようにしか見えないが。
「ん〜、いっちばーーん」
「何が一番だよ。全く」
そんな会話が聞こえる。フィズも駆け足で追いかけたので、川まではすぐだ。
「……ん?」
ちり、と首筋が焼けるような感覚がした。かすかな違和感が、フィズの意識を掠める。
クレスとホリィがいる光景。なにか、決定的におかしなところがある。それがなにか、焼け付くような焦燥感とともに、自らの知識とその違和感を照らし合わせる。
「あれ?」
「どうしたの、クレスお兄ちゃん」
「いや、なんだろ。あそこ、なんか、変なものがないか?」
フィズは駆け出していた。もう、答えは出ている。
川の少し下流、流れの真上の空間に、なにか黒い球体がある。大きさは両手で抱えられる程度。まるで、そこだけ黒い絵の具で塗りつぶしたかのうように、周囲の景色とまるで整合性が取れていない不細工な闇。
“それ”は不吉なものだ。例え、知識がなくとも、人間の本能はすぐさまそのことを理解する。それを認識したクレスたちの表情が固くなっていることからも、それは明らかだ。
そして、本能だけでなく、フィズは知識としてそれの正体を知っている。知り尽くしている。そして、嫌悪している。憎悪している。それを悉く撃滅するのが、彼女の使命故に。
黒い球体から更に黒い霧が染み出てくる。それは、周囲の空気を取り込むかのように徐々に密度を増し、不恰好な人型を形作る。球体は、一定量の霧を放出すると、まるで上から絵の具を塗りつぶされたように唐突に消えた。
残されたのは黒い人型。
「クレス!」
二人の下にたどり着いたフィズは、ホリィを脇に抱える。子供とは言え、人間一人を悠々と抱える彼女の腕力以上に、クレスはその顔に驚く。
今までに見たことがないほどの焦り。ここまで感情を露にしたフィズは、クレスは初めてだった。
「ふぃ、フィズ。あれ、なに?」
「あれは魔物だ。名前くらい聞いたことはあるだろう」
魔物。人類――否、世界の天敵。
“侵食地域”に『発生』するという、形を持った災厄。それが通った跡は、動物だろうと植物だろうと、全て死滅する。
「あ、あれが……」
「あれに物理攻撃は効かない。わたしはホリィを連れてひとまず教会に逃げる」
「え? ぼ、僕は?」
「決まっている」
厳しい表情で、フィズはクレスを真正面から見据える。そこには、決意があった。
なにも知らされていない人間に場を託す罪悪感。しなければならないときに、なにもできない自分の無力感。そういった一切を斬り捨てて、フィズは宣言する。まるで、開戦を告げる国王のように。あるいは、思い人に告白するように。
「わたしが戻るまで、ここでヤツの足止めをしろ。今、この場で“魔物”にダメージを与えられるのは、お前の魔法だけだ」