ひりひりと痛む頭を押さえながら、クレスは身を起こした。

 どうも、記憶が曖昧だ。なぜ自分が畑のど真ん中で倒れているのか、どうして頭部にでかいたんこぶが出来ているのか、まったくもって意味不明である。倒れる前に、なにかすんごい衝撃があった気がするのだが、夢の中の出来事のように曖昧で、確信がもてない。

 既に、日は暮れようとしている。

 あ〜、アカン。と、クレスは思った。

 頭がなんか痛いことだとか、耕したばかりの畑に一人倒れていることだとか、やけに記憶が曖昧なことだとかは“さておいて”。

 夕飯が遅れると怖い。主に、フィズが。ご飯に関してのこだわりは並々ならぬものを持つ彼女は、もしご飯の時間が遅れたりすると、なかなか機嫌を直してくれないのだ。この前だって――

 の辺りで、やっとクレスは全部思い出した。

「殴ったの、フィズ、だよね」

 彼女が殴りかかってくる様を目にしたわけではないが、状況的に犯人がフィズであることに間違いはないだおる。直前、『この馬鹿』だとかなんとか叫んでいたことだし。

 思い出すと、たんこぶの痛みが更に倍加したような気がした。

 ずずーん、となにやら重たいものが肩に乗っかってくる。

「なんで怒ったんだろ……」

 まさか、魔法の事を隠していたのが気に食わなかったのか?

 いや、そんなことで怒るような娘ではない。驚きはしたかもしれないが、あの冷静な少女がいきなり殴りかかってくるなんて、考え難い。

「……帰って聞いてみるか」

 殴られたことに疑問を抱きはすれ、別に腹は立たない。我ながら人がいいなぁとクレスは思うが、こっちに何の非もないのにいきなり拳を向けるような娘じゃないとわかっているからこそだろう。

 とぼとぼと、力なく家路を辿る。

 来る時は、隣にフィズがいて、柄にもなくうきうきしていたのが夢みたいだった。暮れなずむ夕日が、さらに気分を沈ませる。いつもなら、綺麗だなぁなどと呑気な感想を抱くのだが、今日に限ってやけに夕日の色が暗い。

 いや、クレスとてわかっている。これは、自分の気分が落ち込んでいるせいだということくらい。

 はぁ、と重いため息を吐く。

 クレスは、とてもとてもとても憂鬱だった。

 だから、後ろから来る影にも気が付かない。そろり、そろりとクレスに近付いてきたその影は、射程距離に入るやいなや思いっきり踏み切り、

「えーいっ!」

 可愛らしい掛け声と共に、クレスの背中に飛び蹴りをかました。

 思わずたたらを踏むクレス。何事か、と振り向こうとするが、突然の襲撃者は蹴りだけで済ませる気は毛頭ないらしく、そのまま背中に乗っかるような体当たりを敢行。

 クレスは、数秒踏ん張るが、最初のけりのお陰で体勢が崩れていたので、いくらももたず、地面に倒れこんでしまった。

「勝ちぃ!」

 勝ち鬨を上げるのは、やたら小さな影。こんな身長と声をしているのは、クレスの知る限りこの村に一人しかいない。

「ホリィ、いきなりなにすんだよ!」

 立ち上がり、砂を払いつつ文句を言う。しかし、ホリィは逆にクレスを非難するような目で見て、

「クレスお兄ちゃんこそ、フィズお姉ちゃんになにしたの。お姉ちゃん、なんかスゴク不機嫌そうだったよ」

「ふ、不機嫌……?」

「うん。話を聞いてみたら、『クレスのヤツが……』って、すごく怖い顔になってた。なにか、怒らせるようなことしたんでしょ!」

 どうやら、クレスを殴っただけでは気が晴れなかったらしい。

 クレスは、本当にわけがわからなかった。どうして、フィズはそこまで怒ったのだろう?

「もしかして、クレスお兄ちゃん。フィズお姉ちゃんに、えっちなことを……」

「ちぇい!」

 マセガキにデコピンを見舞った。

「痛いよ〜」

「そんなことするか馬鹿モノ」

「わかってるよ〜。言ってみただけだよ。だって、クレスお兄ちゃんは度胸がないもんね」

 チョップ。

「うみぃ〜」

「お前に言われる筋合いはない」

 苦い顔になりながら、クレスはパンパン! と頬を叩く。

 ホリィの登場によって、気分は無理矢理持ち上げられた。なんの解決にもなってはいないが、とりあえず何故怒っているのか、フィズに理由を聞きにいこう、と決心する。

 後ろで、ホリィが親指を立てて激励してくる。とりあえず、手を上げてそれに答えつつ、クレスは既に視界に入っている教会を眺めるのだった。

 

 

 

「ただいま」

 教会の扉を押し開ける。

 いつもなら、直接母屋に入るのだが……神父に先に会って、フィズを宥めるのを手伝ってもらおうと思ったのだ。微妙に情けない。

「神父?」

「ああ、クレスくん。おかえりなさい」

 いつもどおりの胡散臭い笑みを浮かべて、神父が出迎えてくれる。昨日のお酒は、もう大分抜けたらしい。

「神父、実は……」

「ああ、言わなくてもわかっていますよ。フォルトゥーナ様とのことでしょう?」

「知ってるの?」

「そりゃあ、もう。私、思いっきり説教されましたからねぇ。監督不行届きだと。そう言われると、なにも言えませんでしたが」

 苦笑を浮かべる神父。どうやら、すでにフィズとひと悶着あったらしい。

「どういうこと? フィズがなにを怒っているのか、神父は知ってるの?」

「おや。クレスくんは気付いてない?」

「わかりっこないよ。畑を作り終えたら、いきなり問答無用で殴られてさ。今まで、ずっと気絶してたんだ」

「それはそれは。お怒りになるのは仕方ないことですが、フォルトゥーナ様もなかなか手厳しいですねぇ。いや、バッサリ斬られなかっただけ、マシなのかもしれませんが」

 やたら物騒な物言いである。

 なぜそこまでされなくてはならないのか、全然わからないクレスに、ラス神父は困ったように傍らの本を掲げてみせる。

「クレスくん。君も一応、名目上だけとは言え信徒の端くれなんですから、基本的な禁戒くらいは覚えておくように」

 ラス神父が掲げたのは、レヴァ教の正典だ。レヴァ教の教義が書かれた、神聖な本。クレスも、幼い頃はよく読み聞かせられていた。

「……あ、そうか。魔法」

「魔法士は、神の御名を汚すもの。彼女はレヴァ教の聖地に住んでいたのです。魔法士を毛嫌いしても、なんら不思議はありませんね」

 レヴァ教にとって、『魔法』は飲酒などとは比べ物にならないほど厳しい禁戒となっている。レヴァ神が世界を運行するために遣わした精霊を、無理矢理従わせる邪悪な術。そういう扱いになっているのだ。

「でも、法術は? レヴァ教の人も、法術は普通に使っているじゃないですか」

「そういうことは、私以外の信者の前では言わないほうがいいですよ。魔法と法術は完全に別物。本質がどうなのかは、専門家でない私にはわかりかねますが、少なくともレヴァ教の公式見解ではそうなっているんですから」

 レヴァ教徒が魔物に対抗するために使う“法術”と呼ばれる術体系。これも、基本的に世界に在る精霊たちを操ることに変わりはない。

 しかし、これは神の力を横取りする魔法とは違い、神の力を借りている、ということになっている。クレスからすれば、どちらも大差はないのだが、信心深い教徒からすれば、魔法士は唾棄すべき背信者なのである。

「いやはや、しかしフォルトゥーナ様の剣幕ときたら、凄まじいものでしたよ。食われるかと思いましたね」

「く、食われるって」

「クレスくん。フォルトゥーナ様を宥めるには、私では力不足です。君が原因でもあることですし、自分で解決してください。それまで、私はここに隠れていますから」

「神父、僕を見捨てるの?」

 ラス神父は、それには答えず、鎮魂の聖句を唱える。縁起が悪いことこの上ない。

 顔面が引きつるクレスだが、ここで引き下がるのもよくはない。幸い、フィズの嗜好はこの一週間で大体把握している。さしあたっては、うまい夕飯で釣ることにしよう。

 そう決心して、クレスは母屋に突入した。

 入った途端、押しつぶされるような圧迫感にさらされる。

「た、ただいま」

 見るとリビングの椅子に、なにをするでもなく座っていたフィズが、こちらを敵意の篭った目で見ていた。朝までは、無表情ながらも友好的だったのだが、見る影もない。

 ふん、と鼻息も荒く、フィズは立ち上がる。部屋に引き返すつもりなのだろう。

「あ、フィズ。今晩、なにか食べたいものとかあるかな? リクエストがあると、僕も作りやすいんだけど」

 慌ててまくし立てるクレスを、フィズは冷たい目で一瞥して、

「貴様の作るものなんぞ、食べたくない」

 そう一方的に宣言し、リビングから姿を消す。

 固まっているクレスのことなどまるで無視だ。完全に、敵と認識しているらしい。

 対峙から、僅か一分足らず。第一戦は、完全にクレスの敗北だった。

「は、あぁ」

 倒れこむように、椅子に座る。

 うなだれて、床を睨む。“食”は、クレスがフィズに対して持っている唯一と言っていい攻撃ポイントだ。そこがダメなら、クレスが彼女を説得する方法はない。

 どう仲直りしようか、と悩んでいると、床にぽつぽつと水滴が落ちた。

「……あ」

 涙だった。

 慌てて、目元を拭う。

 こんなことで泣くなんて、自分の女々しさが情けなくなってくる。つい最近会った女の子に、嫌われてしまっただけなのに。

「くっそ」

 クレスは、慌てて立ち上がり、台所に向かう。

 なんの解決にもならないが、とりあえず食わなきゃ人間生きていけない。もしかしたら、非常に低い確率だが、匂いに引かれてフィズがやって来るかもしれないし。

 自分の気持ちを誤魔化すように、クレスは料理に没頭していく。

 それを、物陰から覗いていたラス神父は、困りましたねぇ、と頬をかいた。そして、さも今来たばかりという風を装って台所のクレスに声をかける。

「あ〜、クレスくん。私、少し眠りますから、夕食が出来たら起こしてください」

「……うん」

 意気消沈した返事。それでも、一応声は耳に入っているらしい。

 いつもとは比べ物にならないほど精彩に欠いた動きで食事の準備を進めるクレスに、そっと頑張りなさい、と呟いて、神父は家の奥に入る。向かうは、自分の部屋ではなく、フィズの部屋だ。

 この家の一番奥に位置する客室。コンコン、とノックをすると、中で身じろぎする気配を感じた。

「私、ラスですが。フォルトゥーナ様。少々、よろしいでしょうか」

「……なんだ」

「いえ、クレスくんのことで」

「あいつの話なら、聞くつもりはない」

 拒絶の言葉。しかし、その声には、常の力強い響きはない。

 神父は、この少女の葛藤を正確に測っていた。伊達に、少女の四倍以上の年月を重ねてきたわけではない。いくら“聖女”とはいえ、フィズはまだまだ情緒面では子供だ。もしかしたら、他の同年代の者よりも。

 レヴァ教の教義という、極めて狭い常識に自分を押し込め、そこから逸脱しているクレスを認めることが出来ないのだろう。

……しかし、完全に排除することも出来ていない。

「いやいや。しかし、クレスくんが魔法を覚えてしまったのは、私のせいでもあるわけですし」

「……そうだ。貴様、一教会を預かる身でありながら、自分の息子を導くことも出来んのか」

「それは先程も聞きましたが、返す言葉もありませんな」

 しれっと言い放つ。

「〜〜〜! 本当に責任を感じているのか、ラス神父」

「いえ、確かにクレスくんが魔法士になるのを止めなかった事実です。ですが」

「ですが、なんだ」

 虚偽の発言でもしようものなら叩き斬ってくれる、と言わんばかりの迫力を込めて、フィズが次の言葉を促した。ドアの向こうで、チャキ、と金属音がしたのは、気のせいではないだろう。

「それは、そんなに悪いことでしょうか?」

「なんだと?」

「私は、レヴァ教は人を幸せにするためにあるものだと理解しています。魔法は、確かに悪用すれば極めて危険なものですが、有効に使えばとても便利なものです。事実、クレスくんの魔法は今やこの村になくてはならないものになっていますし」

「な、なにを言い出すかと思えば。悪用する云々の問題ではない。魔法、そのものが悪なのだ。その程度、神父ともあろうものが承知していないはずがないだろう」

 フィズの言う事は正論だ。ラス神父とて、それがレヴァ教にとって正しいことであることくらい知っている。

 だが、世の中はレヴァ教だけで回っているわけではない。若い頃、色々やってきたラス神父は、それを痛いほどよく知っている。レヴァ教とて、人間の組織。その上層部にとって都合の良いように教義が操作されていることなど、容易に推測できた。

 だからこそ、このような辺境の村で、自分が信じているレヴァ教を教え広めているのだが……

 そんな話を聞かせたところで、反感を買うだけだろう。生粋の信者であるフィズには。

「まあ、私の個人的な考えであることは否定しません。フォルトゥーナ様に、その考えを押し付ける気もありませんが……出来れば、クレスくんをあまり嫌わないでやってください。彼が魔法士であることは、彼の責任ではないのですから」

「私は、別に」

「あと、食事にはきちんと出てくださいね。“侵食”のとき、空腹で倒れられたら、この村はおしまいですし。……それに、クレスくんは、ご飯を美味しそうに食べるフォルトゥーナ様が好きだそうですから」

 ガタタ、と部屋の中で音がする。

 その反応に満足し、言いたいことだけを言ったラス神父は、その場から立ち去るのだった。