「う」
一言のうめき声を上げて、のそりとフィズは起き上がった。
いつになくはっきりしない頭をゆっくりと回し、周囲の状況確認に務める。
まるで、前衛芸術のごとくひっくり返った机。中身を全部床にぶちまけて、なにをしたいのか角のところで絶妙に床に雄雄しく突き立っている本棚。窓は当然のように開け放たれ、風にそよぐはずのカーテンはなぜかみつあみに巻かれている。言うまでもないことだが、衣服の類はしわくちゃになってこれまた床に放置されていた。
いや“そんなこと”はどうでも良い。何の変哲もない、ここ一週間世話になっているノート教会の客室だ。
何の変哲もない〜あたりの下りで、クレスから盛大な突っ込みといつもの『頼むから整理してくれよ〜』という泣き言(フィズ主観)が来そうだったが、眠気と原因不明の頭痛で混濁している頭はそこまで想像力を働かせてくれない。
それにしても、さっきからガンガンと頭が痛む。
風邪か? いや、風邪にしては熱はないようだし、喉も痛くない。だが、頭痛と一緒に覚えるこの吐き気と言うか気分の悪さは……
と、そこまで考えたところで、フィズは昨日の出来事を思い出した。
「……そうか。あれか」
昨日の集会。宴もたけなわになったところで、クレスに酒を勧められた。
少しくらい大丈夫じゃない? とか、フィズの歓迎会も兼ねているんだから、とかいいように言い包められて、気が付いたらぶどう酒を一杯呑まされてしまった。
まぁ、ここまでは良い。酒はあまり好きではないが、無理に酒を辞して場の空気を白けさせるのもなんだったし。
しかし、その酒がやけに口当たりがよく、ぐいぐいいけてしまって『じゃあもう一杯』と次々と入れ替わり立ち代り村の人々がフィズに酌をして、
「こう、か」
途中から記憶はない。うっすらと、クレスの首を極めて、教会直伝の投げ技を披露した記憶が残っているが、それ以外は完全に忘却の彼方だ。
思い出せないのは仕方がない、とフィズは割り切って、とりあえずリビングに向かった。
二日酔いのときは……とりあえず、水分を取るんだったな、とまだ抜けきっていない酒のせいで怪しい足取りながらも、家の外にある井戸に向かう。
ピタリ。
「……なにを死んでいるのだ、ラス神父」
そして、廊下の途中で倒れこんでいるラス神父を発見した。正確には時折痙攣しているから、きっと生きているだろう。しかし、完全に白目をむいて、口から涎をだらしなくたらして、顔を真っ青にした人間を見たら、普通ビビる。
「あ〜、集会の次の日はいつもそうだから、気にしなくていいよー」
こういう時の応急処置はなんだっけ……と、神父のあまりの姿に動揺しているフィズに、台所からクレスの声が届く。
とりあえず、倒れこんでいる神父を嫌そうにまたいで、フィズは声の主のほうに向かった。
とんとんとん、と包丁を繰る音。ここ一週間で、すっかり耳に馴染んだその音を奏でつつ、あまりにもいつもどおりに台所に立つクレス。
「おはよう、フィズ。昨日はずいぶん呑んでいたけど、大丈夫?」
「……いや、頭痛がする。これが二日酔いというやつなんだろうな」
「そ。とりあえず、水でも飲んできなよ。あ、井戸ん中に落ちないように気をつけて」
大丈夫だ、と返して、フィズは玄関に向かう。
庭に出て、井戸桶を引っ張り上げ、水を腹がたぷたぷになるほど飲んだら、一応マシになった。多分、午前中にはこの痛みも引くことだろう。
リビングに戻り、どうしようもない疲労感でどっかと椅子に座る。
「はは、フィズがそんなにダウンしているの初めて見たな。やっぱり、あれだけのお酒はキツかった?」
「ああ。やはり、わたしはアルコールは好かん。そのときの気分は良いが、次の日のこれで帳消しだ。まったく、何故あのようなものを好き好んで……」
珍しく感情を露わにして喋るフィズを、クレスは笑って眺める。
「はい、二日酔いによく効くスープ。集会の次の日は、仕事は午後からだから、ゆっくり養生すればいいよ」
「む、すまない」
まだまだ文句を言い足りない様子だったが、目の前に出されたスープの芳香に誘われたのか、フィズは口を止める。やけに強いハーブの香りが鼻につくが、今はそれがむしろ頭をすっきりさせるようで心地がいい。
「これは、いいな」
「なんせ、毎回地獄の淵を垣間見る神父を、いつも帰還させる特製だからね。……と、今日は一人分でよかったっけ」
クレスも同じスープと、パンと木の実という質素な朝食をテーブルに並べ、フィズの向かいに座る。
「……あ、フィズも食べる?」
「いや、わたしはいい。とてもじゃないが、今は食欲がない」
食欲がない、などとはこの少女から放たれる言葉とも思えなかったが、つまりそのくらいアルコールが苦手なんだろう。ちなみに、昨夜彼女が飲んだお酒は、ぶどう酒が五杯。確かに少々多いが、記憶が飛ぶほど酔うのは、よっぽど弱いに違いない。
「ふーん」
「って、待て。お前は、わたしの十倍以上は軽く呑んでいるくせに、なぜそんなにピンピンしている」
昨日、クレスが呑んだ酒量は馬鹿だった。樽ごといったことがある、という与太話もまんざら嘘じゃないと思ったほどだ。いや、あれは一気に呑んだから苦しかっただけで、ちびちび行けば余裕だったのではないだろうか。事実、昨日は樽二つ分くらい呑んでいた気がする。
しかし、この肌の色艶のよさ。まるで昨日は夕食をバッチリとって、しっかり風呂に入って、八時間睡眠したあとですよーと言わんばかりの快活さ。逆恨みだとはわかっているが、少々言いようのない不満を感じるのは確かだ。
「ああ、僕二日酔いってなんだかいまいちわかんないんだ。酒呑んだ次の日って、普通気分良くなるでしょ?」
「……………」
想像以上の馬鹿だったらしい。もしや、こいつは人間に良く似た魔物かなんかじゃないだろうか。
少女の中でクレス・ノート魔物説が急速に現実味を帯びていく中、そんな嫌疑をかけられているとも知らず、うわばみ少年はいやに美味しそうに自ら作った朝食を平らげるのだった。
午後。今日は、新しい畑を開墾する、ということで、クレスはフィズを伴って開墾予定地に向かった。
「別に、手伝いは要らないんだけど、まぁ顔見せってことでね」
「いや、手伝いは必要だろう? 確かに、君は凄腕の農夫かもしれないが……」
「その言い方やめてよ。なんか、自分が畑仕事で伝説になっている気分になってくる」
「あれだけの土地を、高々数時間で耕した者が、謙遜するな。だが、ああいう力仕事は人数が多いほうが効率は良いだろう」
「数時間、って……。まあいいや。すぐわかるし」
道行く人(半分くらいは顔色が少し悪い)と挨拶を交わしつつ、二人は歩いていく。
ふと、クレスは近いな、と思った。
隣にいるフィズを見る。つい一週前、初めて彼女がこの村に訪れた時。クレスは教会に案内するため、今と同じようにフィズと並んで歩いていたが……あの時は、もっと離れて歩いていた。
そして、物理的な距離もそうだが、精神的な距離。ギクシャクしていて、すぐに途切れていた会話が、今はすんなり繋がる。途中で途切れても、居心地の悪い沈黙にはならない。別に、クレスのフィズに対する思い――外の世界から来た者に対する好奇心だとか、初めて出会う年頃の異性に対する憧憬だとか――は殆ど変わっていないのに、もう前のように緊張はしない。
一つ屋根の下で寝食を共にしていれば当然かもしれないが……なんだか、クレスは嬉しくなるのだった。
「なんだ、妙に機嫌がよさそうだな」
「そ、そうかな?」
それを、フィズに目敏く指摘され、少々狼狽する羽目になるのだが。
……さて。
開墾予定地の荒野まで、到着した。
範囲内には、雑草は生え放題、石はごろごろ転がり、切り株が三つ、生木が二本。
「こいつを……耕すのか?」
フィズは絶望的な気分になる。エレメンティアという大剣を悠々ぶん回す彼女ではあるが、その力をどう使えばここを他と同じような見事な畑に出来るかが皆目見当もつかない。農作業のノウハウが決定的に足りていないのだ。
だが、しかし。そういう時のためにクレスがいるのだ。ここは、自分は手足として使ってもらうことにしよう、とそこまで考えて、致命的なことに気が付く。
「……クレス。一つ聞くが、君は手ぶらだな」
「そう? こうやって、水筒とタオルは持ってるけど」
「道具は?」
「ん?」
要領を得ないクレスに、フィズは少し眉をひそめながら再度問う。
「だから。斧とか鍬とか。土地を開墾するのなら、そういったものは必須だろう」
「斧? 鍬?」
ますますわからない様子でクレスは首を捻っていく。
わからん。惚けているという風でもないし、もしやこの村では素手で農作業をこなす伝統でもあるのか? いや、だがここまで来るまでに会った人は道具使っていたし。ああ、もしやクレスだけがその奥義を習得しているとか?
「……ああ!」
ぽん、とクレスが手を叩いた。
「ごめんごめん、フィズ。そんなに悩まないでって。道具を持ってこなかったのは別に忘れてきたわけじゃないよ」
「それじゃあ、まさか本当に素手で土地を開墾する農作業の奥義を身に着けているのか?」
「な、なにそれ。そうじゃなくてさ。ま、ちょっと待って」
クレスは枝を手に取り、地面に線を引いていく。その線で長方形の区画――今日耕す予定の畑の場所だ――を区切り、ぽいっと枝を放り投げた。
「なにをしている?」
「そういえば、フィズには話してなかったなぁ」
「む? なにをだ」
聞かれると、ちょっと誇らしげに胸を張り、クレスは言った。
「僕が、魔法士だってこと」
「な……!」
その驚きを、背に受けて、クレスは地面に手を付く。精神を集中。集中。集中していき、世界に遍く存在している精霊の姿を“視る”。地面に宿るもの。地の精霊。
「“地の精よ”」
一ワード。
「“集え”“集え”“集え”」
二、三、四。同種の命令文(コマンド)を三つ重ね、三乗の数の精霊を集め、意志力で強固に縛る。
魔法の威力は、純然たる魔法士の意志力で決定される。彼らの意志が強ければ強いほど、多くの精霊を支配でき、その力を発揮させることが出来る。支配力、と呼ばれる魔法士の力量のパラメータの一つだ。
そして、その意志をある作業の方向に向けるための精緻かつ洗練された命令文(コマンド)。これが伴っていないと、どれだけの支配力を持とうが、たいしたことは出来ない。命令文(コマンド)は、どんなことを精霊にさせるか、を制御するためのものだ。よって、この命令文(コマンド)を構成する力量は俗に制御力と呼ばれる。
同種の命令文(コマンド)を三つも一つの魔法に組み込める制御力も、三乗に集められた精霊を御する支配力も、なかなかに得がたいものだ。
トランス状態になったクレスは、それらを束ね、最後の命令文(コマンド)を放つ。
「“耕せ”!」
途端、大地が蠢き、木の類は全て引っこ抜かれる。小石の類も全て取り除かれ、雑草は大地の栄養分に還元されるべく、地中に飲み込まれていく。土は空気を勝手に取り入れ、まるで人が耕したように柔らかく、また整理されていく。
見る見るうちに、クレスが線で区切った場所は、見事な畑となった。
「ふ、う」
滴る汗を拭う。全身を、言いようのない疲労感が包んだ。
……ちなみに、魔法士の力量を決定する要素はもう一つある。魔力、と呼ばれる、どれだけの魔法を使えるかと言う、要するにタフさだ。
どうも、クレスは他の二つに比べ、この要素の才に恵まれていないらしい。自分の限界である五ワーズの魔法は、日に二、三回しか使えない。
まぁ、しかし、今日の仕事はこれだけだ。心配する必要はない。
終ったよ、そうフィズに告げようと振り向き、
「この、馬鹿者があぁぁぁぁっっ!!」
そして、殴り倒された。首が引っこ抜けるかと思うような衝撃が側頭部に走り、体ごと吹き飛ばされる。
最後は、自らが作った畑の中に着地し、クレスは意識を失った。