「ふ、わぁ〜」
スターニング村を出立し、北へ。村は国境にかなり近いところにあるので、出立したその日の内に二人はレナン共和国への関所を越えた。
そして今日、二人はレナンの南方、スターニング村の北方に聳え立つブリオ山脈を構成する山々を越え、最後の山の頂上に立っていた。
山を登っているときは、後ろを気にしている余裕などなかったが、こうして頂上を越えてみると、とてつもなく雄大な風景が眼前に広がっていた。その景色に、思わずクレスは感嘆の声を上げる。
下に見えるのは、広い草原と点在する森、それらを越えた先に、大きな都。
「あれはラティア……レナンで、二番目の都市だな」
手元の地図を見ながらフィズが頷いている。
地図というものは、なかなか高価なもので、しかもフィズの手にあるような世界地図ともなると、一般人にはまず手に入れることはできない。当然のようにその信頼性は低く、大まかな地形などはともかく、街の位置など外れていることが多々あった。
どうやら、今回はそういった誤差はなかったらしい。
「ラティア、かぁ」
「スターニング村からは、せいぜいニ日三日程度の道のりだ。来たことはなかったのか?」
「国境越えるのは、また面倒な手続きが要るし」
レナン共和国と、クレスが住んでいたサナリス王国は一応同盟国なのだが、それでも国境を越えるにはなにかと煩瑣な手続きを必要とする。王都か、それに準ずる都市で出国許可を貰い、関所で十を越える書類にサインをしなければならない。四六時中国境を見張っているほど警備隊も暇ではないので、無許可で越えるのは難しくはないが、万が一ばれたら重罪だ。
ちなみに今回は、フィズが印籠のように首から下げた銀のペンダントを見せると、あっさり通過できた。それは、聖女の証でもあるそうだが、本来はレヴァ教の高位神官ということを示すものであるそうだ。聖女仕様のペンダントは、裏に書いてある図形が違うらしいが、それは教会の、ある程度の地位にある人間しか知らない。
「大体、山越えがしんどいしね……今も、足がぱんぱんだ」
ブリオ山脈は東西に長く連なっており、迂回しようとすればかなり時間がかかる。ならば山を越えなければならないのだが、険しい山々が揃っているので、簡単なことではない。正直、二日でここまで辿り着けたのが不思議なくらいだ。普通に行けば、四日五日かかる。
スターニング村は、レナン共和国からは最も近い人里の一つであるのだが、まったくと言っていいほど発展していないのはこのせいだったりする。サナリス王国とレナン共和国の交流は、もっぱら船で行われているのだ。
本来なら港町まで行って、そこから船に乗ってレナンに向かうのが最も安全かつ楽なルートなのだが、フィズの『そんな面倒なことしていられるか』の一言で山を越えることと相成った。
国境は一応、山脈を越えた向こう側にあるのだが、レナン共和国の町等はそちら側にはない。向こうにあるレナンの施設は、国境警備隊の要塞くらいだ。
「あの程度で軟弱だな。わたしについて来るからには、もっと鍛えろ」
「いや、あのペースで山登りなんてすれば、誰だってこうなる」
彼女的には普通に歩いているつもりなのだろうが、幼い頃から虐待とも言える修行をこなしてきたフィズと、肉体労働者とは言え時々魔法に頼っていたクレスでは、体力に天と地の差がある。この険しい山々を二日で踏破することになったのは、殆どフィズのせいだ。
「わたしはなっていない」
「……だから、そのちっこい体のどこにそんな体力があるのさ」
「ち、ちっこいとはなんだっ! 訂正しろ、クレス!」
ガーッ! と怒りの気炎を上げるフィズだが、大体にしておかしい。荷物の大部分はクレスが持っているのだが、フィズはその荷物全部合わせたのよりずっと重そうな大剣エレメンティアを背負っているのだ。これはもう、なにかドーピングでもしているとしか思えない。
「あ、そうか。エレメンティア持っていると、身体能力が上がるんだっけ?」
「……だから、さっきの言葉を訂正しろ」
ジト目で見てくるフィズに、クレスはゴメンゴメンとあまり誠意の篭っていない返事をする。
「まったく」
それでもなんとかフィズは納得したようだ。ふんっ、とそっぽを向きながらも、それ以上は責めない。『これから成長するのだからな』と、負け惜しみのようなことを呟いている。
「で、どうなのさ」
「答えはノーだ。そも、エレメンティアの力は、浸食の封印以外では、自己を守るためにしか使用を許されていない」
つまり、今までの行軍の成果は全部フィズの自前の力らしい。なんともいやはや、恐ろしい少女である。
「そっかー。それ使えば、もっと早く移動できるんだけど」
「物欲しそうに見るな。大体、お前が使うことは本来イレギュラーなんだぞ? 自重しろ。魔法で山を崩されても敵わない」
そんな馬鹿な、と笑い飛ばせないところが恐ろしい。
確かに、エレメンティアを握ったクレスの魔法は、その気になれば山一つ壊しかねないほどのものだった。実際に使ったクレスだからわかるが、あれだけの魔物を掃討したこととて、力のほんの一端にしか過ぎない。
「まぁ、そう急がなくても平気だ。北の侵食の気配は、まだまだ薄い。この感触だと、あと三ヶ月前後は余裕がある」
「よくわかるね。やっぱり、それもエレメンティアの力なの?」
「うむ。エレメンティアは侵食を封印するためにレヴァ神から下されたもの。持ち主は、次の侵食の位置や発動までの時間も感覚的にわかる」
『まぁ訓練は必要だったがな』と、フィズは肩をすくめる。
「訓練? ってどんな」
「次の侵食まで時間ができた聖女が、セレナ島に来てエレメンティアの繰り方の指導を……っと、待て。早く山を下らないと、街に着くのが日が落ちてからになるぞ」
「……へ? 今日中に、ラティアに着くつもり?」
「そうだ。もう、街は見えているからな。お前の疑問には、道すがら答えてやろう」
「ちょっ!? 街が見えてるって、こんな高いところから見えてても! ていうか、山は登りより下りに気をつけるべきだって聞いたことがあるけど、これいかに!?」
「? なにを言っている。下りの方が楽に決まっているだろう?」
「うわー! 登りのときも思ったけど、やっぱり登山素人だーーー!」
「やかましい。そんなに叫ぶことが出来る元気があるなら大丈夫だ」
いやこれは叫んでいるんじゃなくて突っ込みを入れているんですけどーー、と言い訳をするクレスを、仕方ないなとばかりにぐいぐい引っ張って、フィズは意気揚々と山を下り始める。
「前任の聖女は、それは美しい方でな。わたしの指導の為、帰ってくる度、セレナ島のみんなは大騒ぎだったんだぞ。まぁ、訓練は過酷極まりないものではあったが……その内容はというとだな」
「待って! 律儀に話してくれるのは嬉しいけど、スピード落として! こけるこけるこけるこけるこける!!」
半ば、崖から落ちるようにして、二人は山を下っていくのだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……着い、ちゃった」
夕刻。日が傾き、街門が閉まる直前、クレスとフィズはぎりぎりでラティアに辿り着いた。
山を駆け下りる――すでに駆け落ちると表現した方が正しいが――と、すぐさまマラソンを敢行。ほとんど休むこともなく走り続けて、なんとかこの時間に到着することが出来た。
クレスは筋肉痛と疲労で倒れそうになる体に鞭打って、ついでにフィズから言葉による精神的な鞭も食らって、ようやくここまで来ることができたのだが、フィズの方は息は上がっているものの、まだまだ余力たっぷりの様子だ。ほとほと、基礎体力が違うらしい。
流石に、男として情けないものを感じながらも、クレスは門番に手続きを取る。
これだけ大きな街となると、さすがに出入りを厳しくチェックして要るようだ。もちろん、国境を超える時ほど厳格なものではないが。
「すみません、お嬢さん。その、街中でそんな武器を持ち歩かれると、困るんですが」
クレスの方は簡単な荷物チェックと署名のみで済んだが、エレメンティアを担いでいるフィズはそうはいかない。護身用のナイフや棍棒程度ならともかく、このような大剣は流石に危険すぎる。
案の定、呼び止められ、問答する羽目になる。
「これを」
「は? はぁ、レヴァ教の、お偉いさんで?」
「うむ。なんなら、この街の教会に確認を取ってもらっても良い。この剣は、祭器の一種でな。持ち込みを許可してもらいたいのだが」
手馴れた風に、フィズが交渉を進めていく。今回も、身分証明の銀細工は活躍しているようだ。
クレスは、なんとなく手持ち無沙汰に、その様子を眺めていた。
国境を超えたときも思ったが、フィズは意外とこの手のやり取りは慣れているらしい。考えてみれば、彼女はセレナ島からここまで来たのだ。その間、あのような大仰な剣を持ち歩くのに、今回のようなことは何度もあったのだろう。
門番達は、どうする、と顔を見合わせるが、すぐに困った顔で頷いた。
「仕方ありませんね。許可しますので、こちらにサインを。あと、出来れば布かなんか巻いて隠してくれませんかね。街の住人が、怖がるんで」
「承知した」
門番が差し出した布を受け取り、フィズはくるくるとエレメンティアに巻いていく。シルエットで、剣だということはわかるだろうが、とりあえず威圧的な雰囲気はいくらか和らいだ。
「では、ようこそラティアに。貴方達が、この街で良き日々が送れますように」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
丁寧な対応をしてくれた門番たちに礼を言って、二人はラティアの中に入った。
まず、クレスが驚いたのは、その喧騒。
街の入り口だと言うこともあるのかもしれないが、目の前の大通りにはクレスが今までみたこと無い人数の人々がひしめき合っている。道の左右には商店がいくつも立ち並び、路上では露店商が様々な商品を売り叩いている。
そろそろ日も落ち始めているというのに、家には帰らないのだろうか、などという田舎っぽい感想をクレスは抱いた。
「こら、クレス。なにをぼーっとしている」
「あ、いや。こんなにたくさん人がいるのを見たのは初めてだから」
「そういえば、スターニング村は随分な田舎だったな。そう感じるのも仕方ないか」
「む……。田舎だけど、いい村だよ」
「それは否定しない。わたしの故郷もたいがい田舎だったが、良いところだったしな。それより、とっとと今日の宿を探しに行くぞ。せっかく街に到着したのに、野宿になったら笑えない」
「あ、うん」
腕をしっかり振って、フィズはのしのしと歩き始める。道の真ん中を堂々と闊歩するその姿の後ろについて、クレスはこそこそと歩き始めた。どこかおどおどした仕草は、少々情けない。ただ、これだけ騒がしい通りを歩くことなど初めてなので、仕方ないと言えば仕方がなかった。
気を付けないと、肩をぶつけてしまいそうな人の波。商品を売る、威勢のいい掛け声。仕事が終わった人達でにぎわう酒場の賑わい。どれもこれも、初体験のものだ。たまにお使いに行っていた街も、ここまで騒がしくはなかった。
そんな中、食品を扱っている店の一つから、肉を炙る香ばしい匂いが漂ってきた。
「いい匂いだね。そういえば、お腹空いたなあ」
「それはわたしも同じだ。宿をとったら、適当に食事に出ることにしよう」
「……それはいいけど、あまり食べ過ぎないようにね。野営と違って、街の中で食べ物を食べたら、お金がかかるんだから」
「心配するな。わたしの仕事は教会から完全なバックアップがある。お前の村のようなところでは無理だが、この程度の規模の街の教会であれば、路銀を受け取ることも可能だ。今も、二人分の宿代と晩飯代程度なら、余裕で賄える金額を持っている。」
「へぇ」
クレスは頷いて、感心してみせる。スターニング村では、お金を使うことなどまずないので、それは知らなかった。
そんなクレスの態度に気を良くしたのか、フィズはどことなく誇らしげに胸を張った。
「進捗を報告する必要もあるし、明日にでも教会に行くとしよう」
「進捗?」
「首尾よく……とは言えないが、スターニング村での“侵食”は無事封印できたからな。そのことを伝えなければならない。それと、これからの行き先も一緒に、教会の本部へ伝達してもらう。……無論、お前のことは伏せておく必要があるが」
「ごめん」
居心地が悪くなって、クレスは反射的に頭を下げた。
「謝る必要は無い。お前がいることで、助かることもある。飯とかな」
「そ、それだけ?」
「繕い物も上手だし」
「ちょっと」
「洗濯も上手い」
「……むしろ、フィズが下手なんじゃないかと」
もうちょっと自分を頼りにして欲しかったクレスは、ちょっと意地悪をしてみる。
「な、なんだと!?」
クレスの思惑通り、フィズが顔を真っ赤にしてクレスに反論してきた。
曰く、やったことがないから仕方がない。できないんじゃない、やらないだけだ。大体、お前が男のクセに家事が上手すぎるだけだ。そんなことは、聖女の任務とは関係が無い、等等。
言い訳にしか聞こえない反論を、クレスは適当に聞き流す。教会で一緒に暮らしていた限りにおいて、彼女の家事に対する能力が底辺にあることは、充分承知していた。
と、
「あっれ〜? クレスちんじゃない」
変な声が聞こえた。
思わず、二人は顔を見合わせる。
「どこから聞こえた?」
「さぁ。でも、クレスなんてけっこうありがちな名前だし、別人ってことも……」
「おーい、クレスちーん。クレス・ノートぉ〜。こらー、無視すんなー」
だれだ、公衆の往来で僕のことを呼ぶのは、とクレスがきょろきょろと発信源を探す。
果たして、すぐに見つかった。
路上に布を敷き、様々な商品を並べている露店の主。頭に大きめの帽子を乗せ、やたらハイテンションな笑みを浮かべている、推定年齢十二、三歳の少女。後ろに置いてあるでかいハンマーがやたら存在感を放っていた。
「え、Mさん」
「? 知り合いなのか、クレス」
「あ、ああ、うん。まあね」
二人はそろって、その人物の元に向かう。クレスには、どことなく諦めの表情だ。
クレスを呼びとめたその人物は、胡散臭い笑顔で二人を迎えた。
「やーやー。なんで、クレスちんがここにいんのー? は、もしやお隣の彼女と恋の逃避行? ぃやー、若いネー、青春だネー。あや、でもラス神父は結婚に反対するような人じゃないと思うんだけどにゃー。むむむ……実はその娘がどっかの貴族の娘とか? うお、クレスちんやるねぇ。貴族なんかに手ぇ出したらアレですよほら、首ちょんぱ」
いきなり自分で話を進める商人。これだから嫌だったんだと、クレスは頭を抱える。
「違います。僕とフィズは、そんなんじゃなくて」
「じゃあ、どんなんにゃ?」
「えーと、それはその」
フィズが侵食を封印するため旅をしているというのは、秘密なのである。それに触れずに、二人旅をしている理由を説明しようとしても、うまい説明が思いつかない。しかし、うまく誤魔化さないと本当に駆け落ち扱いされかねない。なにせ、年頃の男女の二人旅だ。このハイテンションな商人で無くても、あらぬことを勘ぐってしまうのは仕方がない。
「わたしとクレスは、今各地の巡礼をしている最中なんだ」
「は? 巡礼ぃ?」
「うむ。信者としての徳を積むために、レヴァ神の痕跡の残る地を巡っている。主に、遺跡だが」
「はぁ……ねぇ、クレスちんってそんなに信仰に篤かったっけ? 確か、魔法士だとか言ってた気がすっけど? 魔法はレヴァ教じゃご法度っしょ」
怪訝そうに眉をひそめる商人に、クレスは慌てて首を縦に振った。
「い、いやだな、Mさん。僕だって、教会に住んでんですよ? 熱心な信者でもおかしくはないでしょう?」
「そーだけどさぁ」
必死に誤魔化そうとするクレスに、首を捻る商人。
そこで、フィズがくいくい、とクレスの袖を引っ張った。
「ときにクレス。この少女はどういう知り合いだ?」
「え? あ、ああ。この人は、Mさん。いろんな国を巡ってる商人で……ときどき、スターニング村に来てたんだよ」
「船賃がもったいないから、いっつも陸路でレナンとサナリスの国境超えてんだけど、補給にちょうどいい位置にあるからね〜」
Mはきゃっきゃと笑う。
「んでー、クレスちん。わたしにも、こっちのお嬢さんを紹介してくれないかにゃー」
「え、えーっと」
「いや、わたしが自己紹介をしよう」
どういう紹介をしていいのかわからないでいると、フィズが一歩前に出た。やはり、身分を誤魔化すのは得意のようだ。
「わたしはフォルトゥーナ・ルヴィズス。クレスの養父であるラス神父の遠縁の者だ。今回、クレスが巡礼に出るということで、同行させてもらった。前々から興味はあったのだが、やはり女の一人旅は危険だからな」
どの口が言うんだろう、とクレスは思ったが、賢明にも口を噤んだ。下手に口出しして、嘘がバレでもしたら、フィズにものすごく冷たい目で見られそうだ。
「へぇ。で、渾名がフィズちゃんか。よろしくね」
「よろしく、M。……しかし、変わった名前だな」
「フィズちゃんも人のこと言えないと思うけどねぇ。まぁ、あたしのは偽名だし」
「偽名?」
フィズが問うと、Mはフフフと不敵に笑う。
「こんなナリだと、実際ナメられたりするわけよ。そこで、こう本名を隠してミステリアスな雰囲気を演出するわけね。まぁ、女はヒミツが多いほど魅力的だってどっかのエライ人も言ってたしね。フフフ……惚れんなよ?」
そんなこと言われても、反応に困る二人だった。
「なぁ、クレス。本当にこいつはそう思っているのか?」
「放っておいてあげなよ。彼女、これがカッコイイって思ってんだから。なんか、正体隠すのは基本とか言ってた」
諦めた表情で、クレスはそんなフォローにもならないフォローをした。Mという名前は、正直ダサいと思うのだが。
「ふむ……それにしても、ギルドの人間だったのか?」
「うい。あんま付き合いは無いけど、ギルドに所属してないと国越え面倒だしね」
商人ギルドとは、複数の国に跨って活動する行商の集まりである。特定の店舗を構える商人とは違って、様々な土地を移動するMのような商人にはリスクが大きい。しかし、例えば海に近い土地で海産物を安く仕入れ、山間部に売る、というように、物流を担う商人は必須の存在である。そこで、商人達の相互互助を基本とした組織……商人ギルドが生まれた。
創設してから数百年を数えるこの組織は、毎年一定の寄付金を上納しないと入ることが出来ないので、所属しているというだけで一人前の商人の証となる。そして、その見返りに、メンバーは国境を超えるための手続き簡略化や、客からの信頼、報酬の大きいギルドからの依頼などを得られるわけである。
「どういう国を回っているんだ?」
「え〜? メインはノーザンティアの各国かな。大体一年くらいかけて、北方五カ国をローテしてるけど?」
「それは好都合」
フィズは、懐から財布を取り出し、銀貨を一枚Mに渡した。Mの目がキラリと光り、商売人の顔になる。
「なぁに?」
「わたしは、サウスガイア出身でな。こちらの大陸の事情には明るくないのだ。聞けば、この大陸全体で行商をしているという。各国の状況を聞かせて欲しい」
「にゃる。情報を買うってわけね。了解」
銀貨を大事そうにバックに入れ、Mはふと首をかしげた。
「ん? でも、この大陸のことなら、クレスちんに聞けばいいんじゃね?」
「こいつは役に立たん。大陸北東部がグラストールによって統一されたことすら知らなかったんだぞ」
「ありゃ。田舎の農夫とは言え、そこまで世間に疎いとは」
「悪かったな」
クレスは憮然となって、顔を逸らす。
「んじゃま、クレスちんのためにも、基本的なことから説明しますか」
Mは、嬉しげに指を立てた。
「あー、フィズちゃん地図持ってんの? 丁度いい、貸して貸して」
フィズから地図を受け取って、Mはここ、と北の大陸を指差す。
「あたしたちがいるのは、ここ。北の大陸、ノーザンティア。クレスちんも、こんくらいは知ってるよね?」
馬鹿にするなとクレスが睨み返してきたのを確認して、Mは説明を続けた。
「んで、南西にあるちょっと小さめのこの国が、クレスちんの村があるサナリス王国。領土は狭いけど、土地は豊かで、政治もまぁまぁ安定してっし、いい国だよ。特産品は、農産物と魔法士。なんでか、魔法士が多く生まれる土地柄で、優秀な魔法士はお隣のファルヴァントに送ってんだよね」
「それは聞いた事がある。魔物と戦いを繰り広げているファルヴァントでは、魔法士の戦闘集団“精霊騎士団”がいるのだったな」
「そそ。でぇ、そのファルヴァント王国だけど」
つつ、とMの指が、サナリス王国から右のほうに移っていった。
「大陸の南東部にあんのが、ファルヴァント王国。南には、海峡一つ挟んで大陸丸ごと侵食地域っていう“黒の大地”に隣接。北は、グラストール帝国っていう軍事国家。争いの絶えない国やね」
くるくるとまるで教師のように講釈を垂れるM。
「最近、疲弊気味で、前行った時は、結構国全体が寂れてたなぁ」
「ふむ……近年は、魔物の侵攻も激しいらしいしな」
「うん。魔物は、魔法か法術でないと対処できねっからね。精霊騎士団はもうフル回転よ。クレスちん、魔法使えるんなら援護に行ったげたら?」
「僕はいいよ。戦えるとも思えないし」
つい最近、魔物と戦ったことがあるが、あの時はたった一匹の魔物に殺されかけた。苦い思い出に、クレスは顔を顰める。
「そーお? あたしの勘だけど、クレスちんはいいとこまでいくと思うけどなー」
「M。それより続きを」
「あー、はいはい。フィズちゃんはせっかちだねぃ。で、ファルヴァント王国は、サナリスより領土は広いけど荒地と山が多くてねー。耕作地が少ないもんだから、食料はサナリスからの輸入に頼ってる部分が大きいんだよ。反面、良質な金属資源が豊富で、それで貿易してる」
「ふむ。腕のいい鍛冶屋が多いことは聞いたことがある」
「そそ。ファルヴァントは軍事大国だけど、それはこの金属資源に寄るところがけっこう大きいんだよね。金属の加工技術とか武器の生産量は、世界でもナンバーワンじゃないかなぁ。ま、魔物には意味ないけどさ。そっちは魔法士頼み」
Mの指が、さらに地図上を滑る。
「それで、今あたしたちがいるのがここ。大陸北西部のレナン共和国。人口、領土共に北方五カ国の中では最大。歴史も最長。まぁ、サウスガイアの神聖オレアナ国には負けるけど」
「当然だ。レヴァ神がいらっしゃったとされる土地だぞ」
「ん〜、そこら辺、神学者の中でも結構異論があるんだけど、知ってる?」
「知っている。だが、レヴァ神の教えの正統を受け継いでいるのは、間違いなく神聖オレアナ国だ」
「ありゃ、フィズちゃん、オレアナ出身?」
「……一応、だがな」
フィズが、少し苦い顔になる。なにか悪い思い出でもあるのだろうか。
それを察したのか、Mはそれ以上突っ込むことなく、話を続けた。
「この国は、共和制っつって、他の国とはちょっと違う政治体制をとってることが特徴かなぁ。でも、見た目あんまり変わらんね。ほとんど役職を上の連中が牛耳ってるから。そういう、利権を貪る連中がいるから、広い土地なのに産業は振興しないんだよねぇ」
「無能ということだな」
「にゃはは、フィズちゃん、キビシーね。で、この国は軍隊が脆弱だから、今は北東部のグラストール帝国から侵攻されてるみたい。まだ、小競り合いの段階だけどね」
その言葉に、クレスは慌てた。
「え? レナンが戦争してるの?」
「戦争、じゃないかなぁ。緊張状態って感じ。ぶっちゃけ、グラストールの方がずっと強いから、多分戦争になったら負けるよ」
「そ、そんな」
クレスにとっては、訪れたことはなくても、すぐ近くに存在し昔から馴染み深い国である。
「ま、そういうときのために三国同盟があるわけよ。今まで言った三つの国は、昔から同盟結んでるからね。今は、どこも余裕ないからあれだけど、本格的に戦争って事になったら、サナリスとファルヴァントも黙っちゃいないって。そこらは、グラストールもわかってると思うけどね」
『あたし的には、戦争になったら儲かっていいんだけど』と小声で問題発言をするMは、続けて地図上の東の地域に大きく指で丸を描いた。
「そんで、ここらへんがそのグラストール帝国ね。ここは、十年位前にのし上がってきた国家。その前は、ノーザンティア北東に乱立する小国の一つでしかなかったんだけど、現国王……皇帝って名乗ってるけど、その皇帝レオが即位してから、周りの国に侵攻を始めて、三年足らずで全部の国纏めちゃったの。やり方はともかく、戦の仕方やら、敗戦国の統治の仕方やら、一角の人物であることは間違いないっぽいよ」
「M。質問だ。レオという人物は、レヴァ教を敵視していると聞くが、本当か?」
「それは本当。支配した国の教会、全部ぶっ壊してるもん。教会が一つもない国なんて、あたし今まで生きてきて初めてだし」
フィズが怖い顔になる。熱心な――というより、生粋のレヴァ教信者であるフィズからすれば、そんな国は言語道断なのであろう。いつの間にか、手に持ったエレメンティアを、来るんだ布の上から握り締めていた。
「話には聞いていたが、そこまでとは」
「フィズ、フィズ! 街中で剣握ったりしたらやばいって。落ち着いて!」
「……クレス、なにを言う。わたしは冷静だ。ああ、冷静だとも。国にはそれぞれ事情というものがあるのだろう。決して、その暴君を今すぐ斬り捨てたいなどと考えてはいないぞ」
とりあえずエレメンティアを取り上げた方がいいんじゃないか、とクレスが悩んでいると、Mはそのやりとりをまったく気にせずに次の話に進んでいた。
「ラスト。ノーザンティア最北端のミナトス王国。寒冷地で、農作物は殆ど取れなくて、主な産業は漁業。もともと貧しい国だったけど、今はグラストール王国の属国扱いで、さらにひどいことになってるよ」
「属国、だと?」
「うん。けっこう最近の話だけど、軍事力を背景に一方的に不利な条約を押し付けたんだよ。そのお陰で、ほとんどグラストールの奴隷状態。実は、ここ来る前はそっちにいたんだけど、そりゃもうひどかったよ」
「……わたしたちは、これからそのミナトスに向かうつもりなんだが」
「あ〜。遺跡が多いもんね、あの国。でも、やめといたほうが良いと思うけどな〜。治安悪いよ」
忠告してくるMに、フィズは首を振った。
本当に、遺跡だけが目当てなら、他の国にもあるが、クレスたちの目的はそれではないのだ。
「あっそう。じゃあ、なんも言わんけど――って、これで全部説明終わったかなあ〜、久々に長く喋ったから喉渇いたー」
「ミナトスの事を、もう少し詳しく聞きたいんだが」
「そお? じゃ、一緒にご飯でも食べながらにしますか。そろそろ、店じまいするつもりだったし」
Mは、そう言って立ち上がると、並べていた商品を纏めると、真後ろの路地に置いてあったカートに入れ、ハンマーを背負った。
「前から聞きたかったんですけど、Mさん、そのハンマーは?」
クレスが知る限り、Mはそのハンマーをいつも携行している。フィズのエレメンティアほどではないが、大きなハンマーだ。正直、さっきの話の最中も気になって仕方がなかった。
「これ? 護身用&あたしのとれ〜どま〜く」
「と、トレードマーク?」
「うん」
あっさり頷くMに、クレスはなにかを言おうとして、結局何も言えず押し黙った。
「M。食事を共にするのは構わないが、わたしたちは先に宿を取りに行きたい」
「あ、そっか。んじゃ、そこの食堂で待ってることにする」
「了解。行くぞ、クレス」
「宿屋なら、向こうの方に確かあったよー」
そう教えてくれるMに見送られながら、二人は大通りを歩く。人通りが益々多くなってきているが、二人並んで歩くのに支障があるほどではない。
空を見るとそろそろ暗くなってきているが、通りに面した店から、沢山の照明が漏れ出ているので、暗いとは思わなかった。こういうところは、クレスの住んでいた村とは随分違う。
「しかし、都合良く情報を聞ける商人に出会えてよかった。全ての国の事情に通じているとは、あの商人、見た目に寄らずなかなかのやり手だな」
「そうだね」
見た目に寄らないのはMだけではない、とクレスは思ったが、適当に相槌を打つだけにした。言っても、どうせ無視されるか、文句を言われるに決まっている。
「しかし、随分幼い感じだった。よくあれで旅が出来る」
「まあ、そこらへんは、他の商人仲間と組むこともあるんじゃない? ……いやでも、昔から一人でしか村には来たことなかったな」
「昔から?」
その言葉に違和感を覚えて、フィズが首をかしげる。どう見ても、Mはフィズより年下だ。しかし、クレスが昔というと、随分幼い頃から商人をしていたことになる。
「ああ。ああ見えて、Mさん、僕より年上だよ。初めて会ったのが僕が十歳くらいのころで、その頃から見た目変わってない」
「なんと……」
驚愕の事実に、さすがのフィズも目を見開く。
「世の中には、変わった人間もいるものだ」
「そうだねー」
お前も人のこと言えねぇヨ、とクレスは思ったが――以下略。
「……ちょっと待った」
クレスは頭を抱えながら、宿帳に記入をしているフィズの腕を捕まえた。
「なんだクレス。腕を放せ。記入が出来ないではないか」
文句を言われようが、離す訳にはいかない。
ツインの部屋一部屋での宿泊など、クレス的に認めるわけにはいかないのだ。
「な・ん・で、わざわざツインなわけ!? 普通に二部屋とればいいじゃないかっ!」
「なにを言うかと思えば……あのな、クレス。スターニング村に住んでいたお前にはピンと来ないだろうが、お金というものは非常に大切なものだ。確かに、教会からの援助は受けられるが、節約するに越したことはない」
この上ない正論である。
しかし、お金も大切だが、ある程度余裕があるならばそれ以上に大切にすべきものはもっとあるとクレスは思うのだ。それは、例えば倫理とか貞操観念とか呼ばれたりする。
「まぁまぁ、お客さん。恋人さんを一人寝させるこたぁ、ないでしょう?」
「……黙っていてもらえます?」
「おや、もしや初めてでいらっしゃる? なに、気にすることはございません。私にも、そんな時代がありました」
揉み手をせんばかりにニコニコそんなことを言ってくる宿の親父を、視線だけで封殺しようとするが、まるで堪えていない。そもそも、なにが初めてだと言うのか。
親父は、これ以上クレスを押しても無駄と思ったか、フィズに矛先を変えて話し始める。
「いやぁ、お連れさん、ご機嫌斜めでいらっしゃる」
「気にするな。こいつはたまに、わけのわからないことで怒ったりするのだ」
「ははは。この年頃は、色々照れたりするもんですからねぇ」
親父のそんな台詞を真に受けて、フィズがなるほどと頷く。
余計な知識を植えつけられては敵わないと、クレスが慌てて間に入ろうとすると、
「よござんす。ここは、お二人の仲のためにも、ダブルのお部屋を勉強させてもらいましょう。こんな値段でどうです?」
「ほう、太っ腹だな」
「いえいえ。私は、お二人のような初々しい方を応援するのが楽しいので」
「意味はわからないが、ありがたくダブルを取らせてもらおう」
とんでもない話し合いが着々と進んでいた。
「だぁっ! フィズ、駄目でしょう!?」
「なにがだ? クレス、先ほどもいったがお金というものはとても大切なものでな……」
「ダブルってことは、一つのベッドで二人寝るんだよ!?」
クレスの血の叫びを聞いたフィズはきょとんとなって、心底不思議そうに、
「それがどうかしたか?」
「どうか……って」
わざわざそれを一から説明するのも非常に間抜けで。しかも、自分だけが意識しているのが、またなんとも馬鹿らしく。そして、この女の子は一度決めた決定は絶対に曲げないことを知っていたクレスは、もういいとばかりに項垂れた。
「まぁまぁ。それで、どうするんですか?」
「契約する。今夜一晩、よろしく頼む」
その間に、フィズがさっさと宿帳にサインしてしまった。
「どうも、ありがとうございます。お二人様ごあんなーい!」
言うと、宿の従業員がやって来て、二人の荷物を持って部屋に案内してくる。
クレスは、もはや抵抗する気力もないのか、半ば脱力したままそれについていった。
「それじゃあ、ごゆっくりー」
鍵を受け取って、部屋に入る。
「さて、荷物だけ置いたら、早くさっきの食堂に行かないとな。Mを待たせるのも悪い」
「そうだね……」
今晩は、間違いなく眠れないな、という確信に近い予感を感じつつ、クレスは返事をした。
追伸:やっぱり眠れなかった。でも、ちょっとだけドキドキワクワクしていたのは、クレスだけの秘密である。