「……んにゅ?」
いつの間にかウトウトしていたホリィが目を覚ます。
影の位置を見てみると、すでに外に出てから三時間近くは経っているようだった。いくら気持ちがよかったとはいえ、貴重な遊びの時間を浪費してしまったことを後悔する。
ふと、自分と一緒に遊んでいたフィズの方を見る。
ホリィが今まで見てきた人の中で、多分一番綺麗な人は、草原のベッドですやすやと眠っていた。
「んふふふふ」
この辺りは危険だ、とかなんとか言っておきながら、この体たらく。ちょっと鼻でもつまんで驚かせてやろう、とホリィは思った。ここで、アドバンテージを握ることにより、今後、もっと遊んでもらえる、という恐ろしい企みだ。
ゆっくり、ゆっくりと起き上がり、数歩分離れて寝ているフィズに、そろりそろりと近付いていく。なるべく、音をたてないように、すり足気味に。自然と一体化するような、それは幼い頃から狩りをする大人達を見てきたからこそ出来る、この年齢にしては見事な隠行だった。
……すぐ近くまで来た。
(にゅふふ、フィズお姉ちゃん、覚悟なのだ……)
ここからは、例え蚊の泣くような声でも危険だと、まるで国の要人を狙う暗殺者のような慎重さで――しかし、顔には隠しきれない喜悦の色がある――ホリィは右手をフィズの鼻へと伸ばした。
動く手が空気を動かすことすら考え、あくまでゆっくりと。しかし、確実に。
さぁ、そのぱっちりした蒼い目に涙を浮かべるがいい――
ぐわし。
「あれ?」
いつの間にか目を覚ましていたフィズに、伸ばした右手を掴まれた。
悪戯がばれた子供のような(いや、そのままだが)顔で、ホリィは誤魔化すような笑みを浮かべる。
「あはは、ばれちゃった」
「甘いな、ホリィ」
特に気を悪くするわけでもなく、フィズは淡々と評価を下した。
「ざんねーん。でも、いつ気が付いたの? 絶対ばれないと思ったのに」
「お前が立ち上がる直前あたりだ。なにか不穏な気配を感じたからな」
それは、ホリィが悪戯を決行しようと決意した瞬間の話だった。
「すごーい。そんなの、わかるんだ」
「当然だ。一ヶ月も野宿生活をしていれば、嫌でも敵意には敏感になる。まぁ、ホリィのは、敵意と言うほどのものでもなかったが」
例えば、猛獣、賊、さらにはあまりこの国では見かけないが“魔物”。そういった危険を察知するために、どれだけ熟睡していても、脳の一部は常に周囲を警戒している。フィズは、そういう特技を持っていた。
「しかし、別に睡眠時間をコントロールできるわけではない。思いのほか、寝入ってしまったようだ」
ぱんぱん、とズボンについた砂を払いながら、フィズが置きあがる。その動作は、寝起きとは思えないほどきびきびしたものだ。
「じゃあ、村の東側に行かない? クレスお兄ちゃん、今日はそこで仕事しているはずだから」
「ああ、わかった」
「じゃあ、早く早く!」
鳥の真似をするように両手を広げて踊るように走っていくホリィを、フィズは追いかけた。
家が立ち並んでいる辺りまで戻ってくると、何人かの村人ともすれ違った。大体、ホリィから伝わった噂は村中に広まっているらしく、ホリィと一緒に走っているフィズのことを、誰もが好意的な目で見ている。
別に、それらの視線を気にする事もなく、フィズは真っ直ぐ走って行く。
あっという間にホリィに並ぶ。いきなり横に現れたフィズに、ホリィは負けまいと頭を前に突き出してスピードを上げるが、到底フィズに敵うものではない。
「ううー、やっぱり早いー」
「訓練しているからな」
しれっと言い放つ。
やがて、家が途切れ、畑のある区画にやって来た。見ると、幾人かの人たちが、畑仕事をしている。この時期多くなる雑草を引き抜いたり、種を蒔いたり。
ホリィは立ち止まって、それらの人々一人一人に挨拶をしていく。やはり、村の人たちには好かれているようで、泥まみれになった男臭い顔の面々が、ホリィを見ると途端に格好を崩す。
「よぉ、ホリィ。そっちのお嬢さんが、教会のお客さんかい?」
「そうですよー」
「こりゃあ、えらい別嬪さんだな。ちぃ、っと年は足りねぇが、これじゃクレス坊も気が気じゃねぇだろ」
からからと笑う農夫の言っていることは、フィズには理解できなかったが、突然現れたよそ者に気を悪くするでもない村民に、この村――いや、このサナリス王国の平和な空気を感じた。
これが、自分の母国である神聖オレアナ国を始めとする、世界の他の国々ではこうはいかない。この時代、多くの国は戦争続きで、そうでないところも内情は不安定。どこの国民も、自分たち以外に気をかける余裕は、あまりないのだ。
このサナリス王国が“世界で最も平和な国”と讃えられ(あるいは揶揄され)るのもわかる。
(このような国では、魔法も必要ないのだろうな)
と、フィズは魔物との戦争に明け暮れている自国のことを思った。
いくら戦力が足りないとは言え、レヴァ教の総本山が魔法使いを戦陣に加えているのだ。魔法を必要としていない国に、憧れる気持ちもある。
それも考えても詮無いこと。すぐさま、その思考を撤回したフィズは、いつの間にか離れてしまったホリィを、少し駆け足で追いかける。
ホリィの横には、クレスがへたり込んでいた。まだ仕事を始めて半日も経っていないのに、見事なまでにバテている。
内心、情けないな……と思いながら、近付いたフィズは、クレスの“仕事成果”を見て、目を剥いた。
「……これは、君が?」
「ん、ああ。かなり疲れたけどね」
「まさか、一人でか」
周りに誰も休憩していないので、まさかとは思いつつ尋ねる。
「一応」
クレスは、コクリと頷いた。今度こそ、フィズは言葉を失う。
フィズが驚くのも無理はない。
クレスの前には、しっかりと耕された畑。それも一人でやるとなると数日がかりになりそうな広さだ。クレスの横には、小さな山を作っている大量の小石と、信じがたいことに、この場に生えていただろう木が、十本ほど置かれていた。
まさか、引っこ抜いたのか。朝食から高々この数時間の間に。
「……クレス、君は凄腕の農夫なのだな」
「褒められているかどうか、イマイチわからないんだけど」
クレスは肩をすくめた。
「じゃあじゃあ。仕事は終わりだね。クレスお兄ちゃん、遊ぼう!」
「ええい、ちょっと離れてくれ。暑い」
纏わりついてくるホリィをうっとおしそうに払う。しかし、ホリィは意地でも離れようとせず、新しい玩具を見つけたようにはしゃぐ。
「あ〜、フィズ? コイツが、なにか迷惑かけなかったかな」
「いや」
首を振る動作だけでは、どうにも安心できない。できない、が、なんとなくフィズは嫌なら嫌と言ってくれそうなので、クレスは深く突っ込みはいれないことにした。
「ま、確かに午前中の仕事は終ったから、家に帰ろうかな。お茶でも飲むことにするよ。フィズはどうする?」
「えぇ〜、遊ばないの? 遊ぼうよ、遊ぼうよ!」
ぶらーん、と立ち上がったクレスの腕にぶら下がったホリィが、懸垂運動をしながら請求してくる。もう、いい加減諦めたのか、クレスはそれを徹底的に無視することにした。多分、新しい遊び友達が出来てハイテンションになっているだけだろう。
「クレスの入れるお茶は好きだ。煎れるというのならば、私も飲みたいのだが」
「あ、ああ。うん。いいよ」
こう、ストレートに『好き』とか言われると、そのつもりなんて一切ないとわかっていてもいささか照れる。頬をかきながら、クレスは心持ち足早に歩き出した。
「ええ〜! お茶なんていいから、遊ぼうってば、ねえ〜〜」
「……そういえば、さっきグレースさんからクッキーを貰ったんだけど。これをお茶菓子にしようか」
グレースさんは、お菓子作りの達人だ。この村では砂糖などという高価なものは殆ど手に入らないが、グレースさんは蜂蜜や果物を使って、見事な菓子を作り上げる。その味に魅了される者は多く、特に子供の頃からファンだったクレスには、結構頻繁に差し入れをしてくれる。なんでも、本当に嬉しそうに食べてくれるから、腕の振るいがいがあるとか。
そして、当然のごとくグレースさんのお菓子は大好きなホリィは、それを聞いてまさに手のひらを返したように、今度はクレスの腕を引っ張り、家に一秒でも早く連れて行こうとし始めた。
「わかりやすっ」
「なにがだ?」
「いや、フィズには言って……」
ない、と言おうとして、クレスは思わず口を噤んだ。
喜んでいる。付き合いは浅いけど、全然表情変えていないけど、これは喜んでいるとわかる。なんか背景にハートマークが飛んでいるし。いかん、幻覚まで見えてきた。
「甘いもの好きなの?」
「あれはいいものだ。元気が出る」
何気なく聞いてみると、即答された。そして、さらにフィズはこう付け加える。
「猪の丸焼きには敵わんが」
「……あっそう」
これだけ手の込んだお菓子が、フィズの中ではただ焼いただけの肉と同レベルなことに、食卓を預かるものとしてのプライドを揺さぶられるが、クレスはさも気にしていませんよー、といわんばかりの返答をした。
とりあえず、今晩のご飯は、昨日の五割増しで力を入れようと決意していたが。
「なにを、拳を握っているのだ?」
「これは決意の表れだよ」
決然とそう宣言するクレスに、フィズは首を捻るばかりだった。