「ふ、う……」

 熱めの湯に浸かったフィズは、自然とため息を漏らしていた。

 彼女の生活圏では、汗や汚れを流す方法は主に水浴びだったから、こうした形式の入浴というものは話には聞いていたものの始めての経験だ。

 最初、わざわざ湯を用意するのは薪の無駄遣いだと思っていたが……自分の中に凝り固まっていた疲れがほぐれていくのを感じ、これはこれでなかなか悪くない、と思うようになった。

 美味しい食事を用意してもらったことだし、後で礼を言っておかなければな……と、人好きのする笑顔を浮かべる少年を思い返す。

「そう、いえば」

 疲れと気持ちのよさで、朦朧とし始めた頭で考える。

 クレスは、殆ど時間らしい時間もかからずにこの風呂を用意したが、一体どんな手段を使ったのだろう?

 考えようにも、全く思考が纏らない。その疑問も、すぐに湯に溶けてしまった。

 口まで浸かって、ぷくぷくと息を吐く。

 ああ――それにしても、この風呂は、本当に気持ちがいい。

 

 

 

 カチャカチャ、と食器を洗う音が静かなリビングに響いていた。

 予め汲んでおいた水を使って、皿の汚れを拭いていく。慣れているので、少量の水でも十分に綺麗になった。

 水洗いの済んだそれらを乾いた布で拭い、棚に仕舞っていく。

 クレスは、そんな一連の作業を終らせると、手を拭いて火にかけてあった薬缶を取った。

 沸騰する熱湯の中に、乾燥した葉っぱを投入する。これでしばらく蒸らすと、お茶の出来上がりだ。

 まず、渋い色合いの陶器のカップに注ぎ、お盆に置く。これはラス神父の分だ。すでに、神父は部屋に引っ込んでいる。本の続きでも読んでいるのだろう。夕飯を抜いてしまった負い目もあるし、お茶の一杯も……と思っての行動だった。

 で。

 お茶を神父に届けた帰り道。

 クレスは、風呂上りのフィズにばったりと出くわした。

「あ、上がったんだ」

 どうにかそれだけを口に出す。

 こくり、と頷いたフィズは、ぽけーっとした様子でリビングに向かった。その顔は風邪でも引いているかのように赤くなっており、どことなくふらふらしているように見える。

 のぼせたのだろうか?

 と、普段のクレスなら心配するところだが、今の彼にそんな余裕はない。

 風呂上りの濡れた髪の毛。首筋を流れる汗。ロクに拭いていないせいで、身体にぴったりと密着してしまっているシャツ。

 ドキドキしてしまって、なにも言えなくなっていた。

「あ――っと。お茶、飲む?」

 ゆったりとした仕草で、フィズが振り向いてくる。

 半眼になった瞳に吸い込まれそうになり、

「水」

 そんな、簡潔な要求を突きつけられた。

「み、水なら、家の裏手に井戸がある」

 今度は頷きもせず、フィズは玄関に向かっていった。

 ドクドクと煩いほどがなりたてる心臓をどうにかなだめすかし、クレスは頭をかく。

「一体、どうしたってんだ」

 いくらなんでも、これは反応しすぎだ、とクレスは自分を叱咤する。この村にだって、女性くらいいる。クレスと同年代、というのはいないのだが、お姉さんと言える年代の人は、何人かいるのだ。

 そういった人たちと正対した時は、ここまでドギマギしない。

 初対面の人だから緊張している、というのも少し違う気がする。

「……風呂、入ろうかな」

 本当はお茶をゆっくり飲んでから入ろうかと思っていたのだけど、とっとと汗を流してさっぱりしたくなった。

 部屋に戻って、替えの下着と寝巻きを取ってきて、脱衣所に入る。

 着替えを入れるためのカゴを覗き込み……クレスは、見事に固まった。

 フィズが着ていたものと思しき衣服が、そのまま置いてある。脱ぎっぱなしにしているようで、多分、下着も服の間に隠れて存在しているだろう。

 ふらふらと伸びそうになる右手を、左手で咄嗟に押さえる。

「な、なにを考えているんだ!」

 意識して口に出す。

 そうでもしないと、思春期の若い衝動にそのまま身を任せてしまいそうだった。

 目を瞑ってカゴの縁を握り、明日洗濯するものを入れる大き目のカゴに放り込む。自分の服をぱぱっと脱いで、フィズの服が見えないように突っ込んだ。隠蔽完了である。

「ふう」

 一仕事終えた男の顔で、クレスは冷や汗を拭う。

 まったく、フィズが来てからこっち、調子を狂わされっぱなしだ。クレスは、胸の中のもやもやしたものを一緒に洗い流そうと、浴室に入ろうとして、

「クレス。わたしはもう寝るが、明日の朝食は何時ごろだ?」

 ガラッ、と無造作に脱衣所を仕切る扉が開いた。

 時が止まった気がした。

(え、と。裸? ご飯? 朝六つ……風呂。なんで。見られた。ちょ、待って)

 全てのモノが色をなくし、意識が因果地平の彼方にぶっ飛んでいく。ぐるぐるとシチューのごとく混沌となった思考は、意味のない言葉を羅列するばかりだ。

 しかし、そんな異次元めいた感覚はクレスだけのものだったらしく、フィズは動きを止めてしまったクレスを不思議そうに見る。

「どうした? 明日の朝食の時間を尋ねているのだが」

「あ、朝六つくらい」

 殆ど無意識のうちに答える。

「そうか。それは、日の時間か? それとも、鐘の時間か?」

 日の時間、とは、影の方向でおおよその時間を算出する方法で、当たり前だが太陽の出ている時間に左右されるし、昼間しか使えない。これに対し、鐘の時間とは、都市などで使われている、一日を二十四時間に厳密に区切ってある方法だ。時間を鐘で知らせるので、俗に鐘の時間と呼ばれる。

「この村に、鐘があるように見えるの!? いいから出てってよ!」

 今更気が付いたように股間を隠すクレスを、『なにやっているんだこいつ』みたいな目で見つめて、フィズは脱衣所の扉を閉めた。

 クレスは、それを見て床に座り込む。

 数分ほどぽかーんとし、やがてのろのろと起き上がり、勢いよく風呂に浸かる。

 そこから更にのぼせるほどの時間を過ごし、湯に溶けそうになったあたりで、ふと思い立ったように思いっきり顔をお湯の中に入れた。

 ぶくぶくと湧き上がる泡。あわや入水自殺となろうかというところで顔を上げ、荒く息をつく。

「う、うわああああああああああああああああ!!!?」

 そして、裸を見られた男の子の怒りとか焦りとか驚きとかそういうものを全て込めて、思いっきり叫んだ。