妹紅が目覚めなくなったのは、もう随分前――二万年ほど前の話だ。

 蓬莱人は不老不死。肉体的な死とは無縁の存在だ。
 魂も不滅。なのに目覚めないのは、精神が限界を迎えたのだろう。

 そう推測したのは、蓬莱の薬の製作者である永琳さんだ。






 最初の違和感は、妹紅と輝夜の殺し合いがなくなったことだった。

 妹紅は自分から永遠亭に近づかない。そのため、二人の殺し合いが起きるのは、輝夜が散策に出かけて妹紅と遭遇したときだ。それがなくなった。

 そのときは深く気に留めなかった。
 別に申し合わせているわけでもないため、たまたまかち合わなかっただけだろうと、軽く考えていた。

 しかし、それが何年、何十年と続き(何十万年も生きているとそれぐらいの年月などあっという間に過ぎてしまうのだ)、さすがにおかしいと思って、彼女の家に様子を見に行った。

 彼女の家は元々状態の良いものではなかったが、このとき見た光景は、もはやそんな形容ですまされるものではなくなっていた。以前訪れたときには確かにあった生活の気配がすっかりなくなり、朽ち果て、今にも崩れそうになっていた。

 妹紅が死ぬはずはないので、もしかしてどこかに旅立ったのかと考えながらも、念のため、立て付けの悪くなった戸を無理やりこじ開けて中に入る。

「うわっぷ。ごほっ、げほっ」

 外観から予想して然るべきだったのだが、中は蜘蛛と埃の天国になっていた。入った途端、蜘蛛の巣に顔を突っ込み、さらにはもうもうと立ち上った埃にむせてしまう。

 巣を払いのけ、埃がおさまるのをじっと目を閉じて待つ。
 そうして次に目を開いたとき視界に入ったのは、奇跡的にも壊れていないテーブルにうつ伏せになって眠っている妹紅の姿だった。

 どのくらい長い時間そんな姿勢でいたのか判別できないくらい、彼女の体の上には埃がうずたかく振り積もっている。その光景に、僕は言いようのない怖れを感じていた。






 どれだけ声を上げても体を揺すっても一切反応しない妹紅をおぶって、僕は永遠亭に戻った。
 その間も妹紅は一度も目を覚ますことはなかった。ただスゥスゥと規則的な寝息だけを僕の耳元でたてていた。

 妹紅と一緒に戻ってきた僕を見た輝夜は、背中の彼女の様子から異常を感じ取ったのだろう、何も文句を言わずに走って永琳さんを呼びに行った。

 永琳さんはすぐ診察に取り掛かった。

「まったくの健康体ね」

 長い診察を終え、僕と輝夜を迎え入れた永琳さんの最初の言葉がそれだった。
 拍子抜けする僕たちを尻目に、しかし永琳さんは深刻な表情を崩さなかった。

「体に異常は何もないわ。念のため魂も調べてみたのだけれど、それも異常なし。でもね。これは異常がないことが異常なのよ」

 夢を見ている様子はない。
 外部からの刺激にまったく反応しない。薬も試したが効果はなかったのだと言う。荒療治だが一度殺してみた。それでもただ通常通り体が再生しただけでそれ以外何も変化がなかった。

「推測で良ければ一つ言えるわ。彼女はおそらく――」

 肉体や魂より先に精神が死んだのでしょうね。永琳さんは、そう言葉を紡いだ。







 次に眠りについたのは永琳さんだ。
 最初の兆候は、寝坊が多くなったことだった。
 もう年なのかしらと冗談のように言う彼女だったが、そのうち起きていてもふとした拍子に眠ることが多くなった。
 それから起きている時間の方が短くなり、そうして永遠に目が覚めなくなった。






 僕と輝夜は毎日のように二人の様子を伺ったが、結局二人が目覚めることはなかった。
 変化のない日常が、一万年近く続く。

 そうして迎えた今日。

「宴会をしましょう」

 目を覚ました僕への輝夜の第一声がそれだった。
 もうツマミもできているのだという。

 彼女の料理もだいぶ上達した。
 永琳さんが永遠の眠りについてから、輝夜は自分でも家事をするようになったのだ。
 お姫様暮らしが長かったせいで最初は失敗だらけだったが、今では僕よりも上手に作ることができる。掃除や洗濯、酒造や家庭菜園なんかもかなりの年季だ。

 用意されたツマミはまだ湯気が立ち昇っていた。輝夜が起床した時刻は僕とあまり大差がなかったらしい。
 僕たちはツマミと酒を縁側に運び、並んで座った。

 月が中天に差し掛かっている。
 折りしも満月。怖いくらいに大きな月が、辺りを白く染めていた。

 僕たちはそっと杯を合わせて乾杯した。
 輝夜は朱塗りの杯をついと上げ、酒を口に含む。
 そんな所作は思わず見とれるほどで、彼女がお姫様だと実感させられる。

 僕も杯に口をつけ、手作りの酒を呑んだ。
 これも彼女が作ったものを引っ張り出してきたのだろう。すっきりと呑みやすく、僅かに甘い。

 僕は一気にあおらず、酒自体の味を楽しむ。
 見れば、輝夜の杯もそれほど中身が減ってはいなかった。

「呑まないのか?」
「今日はあまり酔いたくないから」
「そうだな。僕もそういう気分かも」

 僕は杯を箸に持ち替え、煮物を口に放り込む。
 僕好みに味付けされた里芋は、煮崩れる直前の適度な柔らかさで口の中でほどけていった。

「うん。うまい」
「ふふっ、ありがと」

 僕の賛辞に輝夜は嬉しそうに口元を綻ばせ、自分も箸を伸ばす。

「我ながらうまく出来ているわね」
「最初は焦がしたり煮崩したりしてたのになあ」
「いつの話をしているのよ。そんなの、ずっと昔の話よ」

 僕たちは他愛無い話を続けながら、二人きりの宴会を楽しむ。

「ねえ、一ついい?」
「ん? なんだよ改まって」
「私たちを恨まなかった?」

 短く曖昧な質問だったが、何を指しているのかはすぐ検討がついた。
 さりげなさを装っていたが、そこにどれだけの感情が篭められていたのだろう。
 それが分かったから、僕も嘘偽りなく誠実に応えることにした。

「恨んだことは……無いとは言えないかな」
「何よ。はっきりしないわね」
「長生きして良かったこともあるし悪かったこともある。感謝もしたし恨みに思うこともあった。そういうことだよ。ただ、付け加えるなら、収支は圧倒的にプラス側だな」

 輝夜と一緒に居られたし。そう言うと彼女は顔を真っ赤にした。

「輝夜はどうだった?」
「私は……うん、そうね、貴方と同じ。昔の隠れ住んでいた時代は楽しいことも悲しいことも無くて後悔ばかりだったけど、その後は楽しいことも悲しいことも沢山あって、でも後悔だけはしなかった」

 たった一つを除いてね、と輝夜は付け足す。そのたった一つの憂いが取り除かれ、輝夜は甘えるようにしな垂れかかってきた。

「何だか安心したら眠くなってきちゃった」
「じゃあ、もう寝るか?」
「やだ。もう少し起きていたい」
「そっか。じゃあもう少し」

 僕も少し眠くなっていたのだが、これで終わるのが名残惜しく、首肯した。

「ねえ。何かお話ししてよ」
「何を話す? リクエストがあれば応えるぞ」
「じゃあ貴方のことを。私の知ってること、知らないこと、全部話して」
「何十万年分あると思ってるんだ。でも、ま、いいか」

 口を滑らかにするために酒を呑む。

 出だしは白玉楼に流れ着いた生霊時代のことだ。そして、生き返って幻想郷にやって来たときのこと、輝夜たちと初めて出会った永夜異変のこと、霊夢が生きていた時代に起きた様々な異変のこと。その合間の貴重な日常。思いつくまま次々とこれまでの人生を語る。

 記憶はだいぶおぼろげになっていたけれど、それでも決して忘れないこともある。

 輝夜と初めて情を交わしたときのこと。
 互いに酒に酔ったうえでの過ちだったが、あれでお互い意識するようになった。
 泥酔していたために二人して記憶が曖昧で、付き合うようになってから、おまえから誘った、いえ貴方からよ、と良く論争になった。

 輝夜に告白したときのこと。
 僕たちはあれから初々しい高校生カップルのように逢引を繰り返すようになったが、互いに気持ちをはっきりと相手に伝えてはいなかった。
 そのときは知らなかったが、輝夜は何も言わない僕に不安感を抱いていたらしい。僕は僕で、自分が輝夜にふさわしい男であるかが疑問だったので、今の関係が壊れることを恐れて何も言い出せなかった。
 そんなときだ。人里で何故か僕と霊夢が交際していると噂になったのは。そして、普段は外出などしないくせに運悪く輝夜が里に出向き、噂を聞きつけ、本気で切れた。
 何も知らずに幻想郷にやって来た僕を、怒り狂った輝夜が出迎えた。
 怒気と殺気で満々の弾幕を向けられたことは、今でも圧倒的な恐怖と共に思い出せる。
 十回ほど死んで生き返って、もう顔も見たくないと泣き喚かれ、そんな彼女を強く抱きしめて大声で告白した。
 騒ぎを聞きつけたのかいつの間にか集まっていたみんなが、そんな僕たちを笑っていた。
 その後はもちろん宴会になって、揶揄の言葉と共に僕たちを祝福してくれた。

 永遠亭でのこと。輝夜がいて、永琳さんがいて、鈴仙がいて、てゐがいて、たくさんの妖怪兎たちがいて、毎日を騒々しく生きていた。てゐが僕と鈴仙にいたずらをして、妖怪兎たちがそれに便乗し、鈴仙が何故か僕を叱り、それを見て輝夜と永琳さんがおかしそうに笑っていた。

 鈴仙とのこと。
 妖怪としては異例なほど長生きして(あの隙間妖怪よりもだ)、永琳さんを除いて一番最後まで輝夜に仕えた少女。
 事あるごとに僕と喧嘩をしていた彼女は、最期に、本当は僕のことを好きだったと告白してきた。
 不意打ちの、僅かに触れるようなキスをして、泣き笑いのような表情でさよならを告げ、消滅した。

 外の世界が滅びたこと。
 あれは僕がもう外の世界で老齢に差し掛かった頃。外の世界に住みづらくなり、殆どを幻想郷で過ごすようになっていた頃のことだった。唐突に世界規模の大戦争が勃発し、核が各地に発射された。その報復としての核が放たれ、更にその報復の核が、と泥沼の応酬が続き、数日で人類は滅亡した。酷くあっけなかった。
 スキマが幻想郷を完全に閉ざしたためにこちらまでその影響は及ばなかったが、僕も東風谷もそれを知って茫然とした。

 月の民が消えたこと。
 彼らは、戦争が起きる前、人類が本格的に宇宙に進出したときに、宇宙の果てに旅立った。彼らがどうなったのか、もはや知る由はない。

 幻想郷のこと。
 妖怪たちや人里の者たちは、戦争後、外から流れつく者がいなくなってから徐々に数を減らし、いつしかいなくなった。信仰心がなくなれば神も死ぬ。裁かれる者がいなくなれば、死神も閻魔も消える。幽霊も妖精も何もかもがいなくなり――

 そうして世界は僕たちだけとなった。






 時系列も滅茶苦茶に思いつくまま過去語りをしていた僕だったが、相槌の声がいつの間にか聞こえなくなったことに気づいた。

 輝夜は瞼を閉ざし、僕の肩にもたれかかって寝息を立てていた。

「眠ったのか」

 僕は輝夜を膝に乗せ、そっと髪を梳く。その最上級の絹のような手触りは昔と何ら変わりがなかった。その穏やかな寝顔は、体を揺すれば今にも寝ぼけまなこで起き出してきそうだった。

 でも、もう目覚めない。
 僕も輝夜も既に限界を迎えていた。

 活動時間が合わず、二人分の食事を用意して、相手の寝顔を見つけるだけの毎日。
 徐々に増えていく睡眠時間。
 最期に会話することすらできないまま死ぬことを、僕たちは恐怖していた。
 今日この日、こうやって語り合えたのはどれだけ僥倖だっただろう。

「おやすみ、輝夜」

 輝夜の寝顔はどこか微笑んでいるようで、それが僕を安堵させた。

「かぐや姫は長い長い眠りにつきました、か」

 安心した途端、これ以上無いほどの睡魔が僕を襲う。
 これに身を委ねれば、もう二度と目覚めないだろう。
 でも、もう恐怖はない。



 瞼を閉じる。
 それだけで、意識がすうっと暗闇へと引き込まれる。





 意識が完全に途切れる直前。
 最期にもう一度。






 僕はこの長年連れ添った妻の笑顔を思い浮かべた。












 〜あとがき〜

 初めまして。
 つい一月ほど前に東方奇縁譚のことを知り、何度も読み返すほどはまりました。
 そして良也を主人公に何か書きたいという欲求が高まり、思い立ってこうして文章を起こしました。
 つたない文ですが、お楽しみいただければ幸いです。

 本SSのイメージは、立羽氏の輝夜の絵です。興味のある方は、グーグルの画像検索で「立羽 輝夜」でお探しください。東方雅華乱舞の、輝夜が軒下で月を浴びている画像です。

 あともう一つ、本SSでの鈴仙を彼女視点で書きたいなと思っているのですが、予定は未定ということで。興味のある方は気長にお待ちください。



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