幻想郷という場所がある。
 結界に仕切られた箱庭は、しかしあらゆるもので満ちている。
 何故なら幻想郷は忘れられたものどもの最果てであるが故に。
 幻想郷はいかなるものも受け入れる。
 それは悲し過ぎるほどに。



 障子が陽光で影絵を作る。
 木枠は逆光に陰るが、障子紙は光を透かして淡く灯っている。だが、影を浮かすのは障子だけではない。取り込まれた光に、室内もまた明暗を刻んでいるのだ。
 敷かれている六枚の畳はいずれも新品で、波模様に似た編み目は蛍光色に近い黄緑を保っている。四隅には柱が立ち、障子の右手には押入を、残りの二辺には白い土壁を埋めている。天井は長方形の木板が、レンガ壁のように互い違いで縫い付けられていた。
 そんな内装とは別に、畳には三つの影がある。置物の類だ。
 一つは縦長の箱、火のない置き行灯だ。油の固まった受け皿は、部屋よりも古い年季がある。
 一つは平たい丸みの立方体、畳んだ衣服の重なりだ。上にはリボンを乗せ、側には祓え串が添えてある。
 最後は大きなかまぼこ型の塊、何者かを上下で挟む布団だ。
 頭まで覆った掛け布団は山なりに膨らんでいて、
「ん」
 ぞろり、とした身じろぎと共に声が漏れる。
 掛け布団の蠢きは幾度か続き、新たな動きが生まれたのは、指折りを三周は数えられる間の後だ。
 白い細腕。
 相応に細い五指を伸ばす一対は、布団の縁を掴んで内側から捲る。うとうととした気怠い動きが掛け布団を二つ折りにして、敷き布団の上にあった体が起き上がる。
 それは、
「ふぁ」
 舌はより赤く。
 髪はより黒く。
 そう見せる程度には白い肌をした少女だった。


 ―― 東の果ての巫女さん 博麗霊夢 Hakurei Reimu ――


 齢は十半ば程、性の境を見せ始めた体は水色の寝間着を帯で結んでいる。寝返りで乱れた合わせから鎖骨やさらしが覗き、しかし少女は気にした風もなく、少女は顔を渋くすぼめている。
 少女、霊夢が気にするのは障子の光だ。
「……もう少し寝かせて欲しいもんだわ」
 性分に合わないのよ、と眉間を詰める。幻想郷の最東端に住んだのが運の尽きか、と思いながら。
 博麗神社。
 幻想郷の最も東に建つ、故に最も早く陽光を授かる神社だ。
(おかげ様で、お天道さんと一緒に寝起きする羽目に……)
 まぁいいけどさ、と後ろ頭を掻く。面倒事は口にしないでおこう、何故なら面倒だからだ。それよりも優先したい事を口にしよう。
 否、口にしたいもの、か。
「みず」
 霊夢は布団の上で立ち上がる。
 傷も毛もない両足は畳を踏みして行き、木製の引戸を目前にすれば、後は両手の仕事だ。
 右手が右側を右へ動かし。
 左手が左側を左へ動かす。
 骨子に彫られた取っ手に指をかけて引き摺れば、障子は仕込まれた溝を滑って異音もなく開いていく。そして障子の向こう側にあるものが、室内と繋げられた。
 屋外だ。
(まぶし)
 ひさしの下だったが、薄明かりに馴染んだ両目は痛みを訴える。
 空は夜中の名残を僅かに残していたが、遠からず燦々とした青空になるだろう。眼下には縁側があり、更に下には砂の張った境内と、外履きの赤い靴がある。眼前には境内の縁として森林が奥へと続く。
 霊夢は縁側へ踏み出し、外壁に添って伸びる左側へと進む。角を曲がった先には、幻想郷の風景を一望する裏庭が広がっている。神社の西側だけに影も大きく、眉をしかめた眩しさもここにはない。
 だが、
「……?」
 すん、と霊夢は鼻を鳴らした。光のないこの場所に、しかし日頃無いものを感じたからだ。
「花の薫り?」
 花園に満ちるような、甘みのある植物性の薫りだ。香にも似た臭気は、昨日までの博麗神社にはないものだ。覚えのないものに霊夢は首を傾げて、
「ま、いっか」
 どっかから飛んできたんでしょ、と霊夢は縁側を再び歩き出す。踵で幾度となく板を打てば、一際大きな障子の前に着く。四枚を前後にして分ける引戸の群は、居間に通じるものだ。
 霊夢は中央の二枚を観音開きに開け、卓袱台を置いた大部屋へと入る。“他力本願”と書かれた掛け軸を横切り、箪笥と食器棚で左右を挟んだ出入り口の先にある部屋が、霊夢の目的地だ。
 台所である。
 左手に竃と流し場、左手に漬け物桶や野菜類を乗せたござが敷かれ、壁には脱衣場の扉がある。小さな縁側の下は石造りの床で、台所用の下駄が揃えられている。向かいの壁には勝手口が埋まっている。
 そして、台所にもまた見えないものがあった。
「ここも薫りが……」
 縁側にもあった薫りに、何なのかしら、と首を傾げるが、しかし今は寝起きの渇きが上回る。
 霊夢は下駄に素足を収め、からんころんと聞こえの良い足音をたてる。目指すのは流し場の中へと口を伸ばす、井戸パイプだ。
 錆び止めに鈍く照る鉄製の支柱は、天辺から耳たぶの輪郭に似たハンドルを生やしている。それを上下させて水をくみ上げ、喉を潤し顔を洗うのが毎朝行っている日課だった。
 井戸パイプと流し場の合間に差していたたらいを持ち出し、流し場に伸びる放水口の下に備える。そうしてから霊夢の掌は、曲線を描いたハンドルを握り締める。
 鉄らしい堅さと冷たさを感じつつ慣れた手つきで、
「よいしょ」
 き、とも、こ、とも聞こえる金属音をたてて、ハンドルは引き下げられる。
 一度では駄目だ。
 何度かが必要だ。
 霊夢は何度もハンドルを上下させ、次第に手応えが増すのを感じる。地下の水が引き上げられつつあるのだ。日頃の習慣で覚えた感覚が、放水も近いと霊夢に悟らせる。
 僅かに額が汗ばむが、まもなくだ、という思いで霊夢は両腕を力ませ、
「ん」
 遂に井戸パイプは水を放った。
 透明な水が備えられていたたらいを満たしていき、
「……!!!?」
 直後、ハンドルを握っていた両手が霊夢の鼻と口を塞いだ。
 じゃり、と下駄を擦りつけて霊夢は井戸パイプから後ずさる。両目は丸々と見開かれ、額の汗は脂汗に変わる。背筋をとろろが伝うような嫌気が走り、残っていた眠気はあっという間に吹き飛ばされる。
(な、に、これ……っ!?)
 痛い、と表現できる体感だ。苛烈な刺激に五感が粟立ち、
「――――っ!」
 耐えられない、と思う頃には勝手口を走り抜けていた。
 が、という酷い音はもはや背後だ。境内の南側に出た霊夢は砂を散らし、気がついた時には境内の際で木の幹に手をついていた。ぜひ、と急な運動に咳き込むような呼吸をする。
 そして気がついた時には、
「臭ぁ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!!」
 流し場で得た感想を叫んでいた。
「は、ぁ」
 激しい呼吸に肩は乱高下し、喉も鼻も全開になり、
「!」
 流し場の薫りを再び嗅ぎ付ける。ここまで漂ってきたのか、と霊夢は再び鼻を塞ごうとする。だが、吸い込んだ薫りは、流し場の薫りと差異がある。霊夢は鼻を塞ごうとしていた手を止めた。
「……薄い」
 流し場のそれよりもずっと薄い、むしろ裏庭で嗅いだ薫りと同じものだ。
 まさか、と霊夢は面を上げた。
 見やるのは左手、遠くに鳥居を見せる境内のある側だ。真っ赤な支柱の囲いの先に青い空を見て、風に揺らぐ木々の枝葉を見て、そして更に向こうにある山々を見て、霊夢は自分の予想が正しい事を悟る。
「――幻想郷全体が薫ってる」
 鼻腔を満たす薫りは悪臭ではない、むしろ花が零すような良い匂いと言えるだろう。
 だがそれにも限度がある。
(鼻がもげるかと思った)
 鼻だけではない。流し場での体感は、目が滲みて喉が咽せかえるほどの、口の中が香炉になったのかと勘違いするほどの濃度だ。最初は流し場が変なのかと思ったが、どうやら違うようだ。
 流し場が薫りのもとなのではなく、幻想郷が薫っているという事。
 ならばこれは、
「異変という訳ね」
 博麗の巫女が生業として解決しなければならない事変、思うと共に霊夢は踵を返す。
 寝室に戻る為だ。
 台所を通らずに納屋と神社の間を抜けて裏庭へ、風呂場のある角を曲がる勢いに砂利を蹴散らし、勢いのままに縁側へ跳び乗る。最中に両足の下駄を放り捨て、着地の衝撃は走り出す力に流した。
 再び居間の障子を横切りつつ霊夢は思う。今回の異変はどんなものなのか、と。
(赤い霧、終わらない冬、満開の花、満ちない月、余所者の神、温泉と怨霊、連発する宴、同時進行する天気。ろくでもないのばっかりだったけど)
 角を曲がり厠を過ぎ、寝室に戻ると同時に抜刀するような勢いで腰帯を引き抜く。
(ま、分かり易い話だけどね)
 寝間着を放って下着姿になり、霊夢は別の衣服を手に取る。
 枕元に畳んで置いた、赤と白の服だ。
(幻想郷全体に行き渡るだけの“何か”、それは薫りだけで広がったんじゃない。何故なら私は、現れると共に薫りを放ったものを知っている)
 袖のない服に腕を通し、襟に黄のネッカチーフを通す。両足は袴に似た赤いロングスカートで包まれ、腰の辺りで締めくくられる。着込んだいずれもが、縁に白いフリルを縫い付けていた。
(井戸パイプの水)
 靴下を履き、袂の長い袖を腕に通し、大きなリボンで髪を結う。
(つまり今回の異変は)
 最後に祓え串を手に取ると同時、考えの結論を口にした。
「――水が強く薫る異変」
 外のは川とか池から薫ったんでしょうね、と霊夢は思う。風に乗って、薄まりながらも蔓延したのだ、と。
 そこまで考えて、霊夢は額に手を当てた。眉を平行に、瞼を力無く閉じた表情で、
「全く、……つまらない事になったわねぇ」
 いつもいつも面倒事を、と頭を振って、霊夢は歩み寄って押入の襖を開く。仕舞い込んでいてた暗がりに手を突っ込み、がらごろとしばらくは何かを引っ掻き回す音を籠らせる。
「うん」
 そして、箱詰めになった針と符を持ち出した。
 どちらも掌に若干余る長さ、針は研ぎ澄ませた先端を光らせ、符は染み込んだ紋様から霊力を滲ませている。一抱えはある量を、しかし霊夢の袖は何の問題もなく収納していく。
 箱の中身を全て仕舞うと再び押入に手を入れ、今度は小箱を取り出した。中身は先ほどと異なる模様をした符、否、堅く厚めの紙質をしたカードが入っている。数は箱に比例し、針や符よりもずっと少ない。
(スペルカードだからね)
 切り札は少ないものだ、と霊夢は思う。制限の中で力をやりくりして、幻想郷のスペルカード戦は成立しているのだから。
 妖怪が異変を起こし易くする為に。
 人間が異変を解決し易くする為に。
 全ては幻想郷を平和で豊かにする為に。
「ま、ありったけ持ってくけどね」
 スペルカードの束も揃えた今の霊夢は、完全武装の状態だ。
 そんな霊夢の口角が、ふと、吊り上げられてた。
「よりにもよって水に手を出すなんてね」
 それがどういう意味なのか、犯人は理解しているのだろうか。
 水が薫るという事は、水を使うと薫りが移っていくという事だ。野菜を洗えば野菜が薫り、味噌汁に使えば味噌汁が薫り、顔を洗えば顔が薫ってくる。
 そして、
「お茶をいれればお茶が薫る、と」
 あら、と霊夢は疑問を思う。
(どうして私、笑ってるのかしら)
 おかしいな。
 笑っているつもりはないのに。
 笑っている。
 うん、
「笑う気なんて、さらさらないのにねぇ……?」
 ふふふ、と煮え立つような笑い声が漏れてくる。或は、笑うしかなかったのかも知れないが。
 ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。
「――私からお茶を取ろうなんて、良い度胸じゃない」
 我知らずと込めていた握力に、祓え串が軋みをあげる。串の腹には指の形に添ったへこみが刻まれていた。しかし霊夢は気に求めず、据わった目つきで、一言。
「シメる」
 ずん。
 一歩目が効果音を伴う。二歩目も同様だ。
 速さに違いはない、違うのは込められた感情の度合いだ。胸中の激情は足跡を刻んで、右手の祓え串は髪の帯を歩調に合わせて揺らしている。畳を過ぎた霊夢は縁側に踏み出し、後ろ手に障子を閉じる。
 霊夢は縁側の縁に腰を下ろし、揃えておいた赤い靴を履いた。爪先で地面を突いて合わせをとる。
(準備よし、と)
 そして霊夢は空を見た。
 もはや青い空は、白雲が風のままに流れている。霊夢は力みのない姿勢で立ち、そんな空を見つめる。
 そんな時、ふと霊夢の袖や裾が浮かび始めた。魚が泳ぐように、あるいは水中から太陽を見上げるようにして、布の縁はゆらゆらと揺らぐ。次第に浮遊は増し、うなじを隠す黒髪も持ち上がり始める。
 何時しか、靴までもが浮遊して地面から離れている。
 跳んでいるのではない、飛んでいるのだ。翼もない霊夢の体は、しかし空中を昇っていく。
「ん」
 二つの瞳は、気怠いまでに力の無いものだ。しかし浮遊する力はそれに応える。
 浮遊は次第に速度を得て、神社の屋根を超える高度で、遂に飛行と呼べる速度と化した。
 法螺貝の笛にも似た風を切る音が耳の奥を圧迫する。先の天人騒ぎで建て直した博麗神社を横目にして、表境内に影を走らせて、くすんだ朱色の鳥居を眼下にして霊夢は飛んでいく。鳥居の先は斜面だ。更に地面が遠のいて、影はごま粒並みになって木々の上に落ちる。
 山林の上を霊夢は一直線に行く。
「取り合えず、水源地かしら」
 唇に指を当て、呟いた霊夢の根拠は二つある。
(水が薫るってんなら、大元に何かあったんでしょうしね)
 だがどちらかというと、霊夢にとってはもう一つの根拠の方が頼りになる。
 それは一言。
(勘だけど)
 行ってみれば分かるわ、と霊夢は首肯する。
「目指すは水源地。川を辿れば、そのうち着けるでしょ」
 霊夢は飛行する。
 まだ見ぬ異変の犯人を殴るために。



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