あれから、どれ程の月日が流れたのだろう………

―――いや、何年経ったかなんてのは、すぐに分かる。このご時世、カレンダーを使わない人間なんて存在しない。俺もその内の一人だ。

あれから、何度桜を見た事だろう………

―――桜その物はよく見ていた。ただし、最近じゃ桜並木を歩いた記憶は無い。

あれから、どれだけの時間共に居続けたのだろう………

―――あの夜から…どれだけ………




   ≪妖夢が現代に落ちてきた≫


       『―――追憶…星霜―――』




「…修平さん」
目を閉じて窓から吹き込む風を感じていると部屋の戸が開かれ、一人の少女が俺を呼ぶのが聞こえた。
彼女の名は魂魄妖夢。そして俺の名は、神田修平だ。
「御加減はどうですか?」
「…よくなった気はしないな…まぁ、これも予測してた事だ。所詮、血は争えんって事さ」
目を開け、妖夢の顔を視界の端に捉えながら答える。暫く寝たままの事が多かったからか、右側だけ残った目にコンタクトを入れるという事も日常的な事じゃなくなった。第一関節部までしか残ってない左手薬指の代わりに婚約指輪をはめた右手もあまり動かす事が無くなり、自慢だった手先の器用さも、今では怪しい。

俺は今、複数の病と闘っていた。

心臓病、糖尿病、そして癌。全て俺の親達が継いできた病で、俺はその全てをこの身に受けているという訳だ。一番最初に発病したのは心臓病。そこから芋蔓式に糖尿病と癌が発病した。齢二十七で今生の別れという物をする訳だ。だがあの家系では、意外と遅かった様にも思う。
「桜が咲いてます。今年の桜は、もう満開ですね」
「ああ…」
病室の窓の外に咲いている桜の樹から花弁が舞い、何枚かが俺の元に落ちる。その内の一枚を妖夢が手に取り、左手薬指にはめられた婚約指輪が陽に照らされて一度だけ光を放った。
「―――ほとけには、桜の花を、たてまつれ。我が後の世を、人とぶらはば―――」
西行法師の詠んだ一句だ。もし、私の事を弔ってくれる人が居るならば、どうか桜の花を供えて欲しいと言った意味だ。
「修平さん?」
「…俺は誰にも弔ってくれないものだと思ってた。誰も俺が死ぬ事に関心を持たず、すぐに忘れ去られる物だと…だが今は違う」
左手を伸ばして妖夢の右手を取る。未だに幼さの抜けない柔らかな手。航空工学産業に関わる俺の骨で角ばった手とは正反対な手。俺がこの世で最も愛した手………

「もし、俺の事を弔ってくれるなら、お前が最高だと思う桜の花を添えてくれないか?」

「修平さん、それは…」
妖夢の目に困惑の色が浮かぶ。それもそうだ、今俺はもうすぐ死ぬと宣言した様なものだからな。
「どうせもう時間が無い。だから、せめて俺の代わりにお前が最高だと思う桜の花を俺に見せてくれ」
有無は言わせなかった。ここでまた今度、なんて言った日にはもう二度と俺達は生きて会う事が出来なくなるという謎の確信があった。それが妖夢にも伝わったのか、浮かんでいた困惑の色をすぐに消し、一度だけ力強く頷いた。
「…分かりました。ここで待っていて下さい」
そう言って妖夢は俺に背を向け、いつもの緑のベストを着込む代わりに俺の黒いコートを着込み、病室の外へと出て行った。
「…付いて行ってやらなくていいのか?母さん」
「あら?何時から気付いてたの?」
突然病室の中にスキマが形成され、中から俺が母と敬う妖怪、八雲紫が現れた。その服装は昔と変わらず四十八卦の萃が描かれ、髪は降ろしている。
「あんたは大抵俺の事見てるからな。姿を現さない時点でスキマの中に居る可能性が高くなる」
「あら、読まれてるわね。流石私の息子」
鈴を転がす様な声で上品に笑う。しかしいつもは何を考えてるのかよく分からない目に哀れみの様な色が浮かんでいる事に俺は気付いた。
「…あんたでも、哀しく思う事はあるのか?」
一瞬だけ虚を突かれた顔をしてから母さんが答える。
「そうね…私には二人の息子が居る。一人は幻想郷、そしてもう一人は…貴方よ。二人の内の一人を亡くすのだから、哀しくない訳が無いわ」
「そうか…あんたにとっては、≪二人しか居ない息子≫なんだよな…良かった…」
≪二人しか居ない息子≫と≪二人も居る息子≫この考え方の差は大きい。つまり母さんにとって、俺は亡くしたくない存在の一人として考えられている訳だ。昔に比べれば、これほど嬉しい事は無い。
「…あの娘と私。貴方を弔うのはこの二人だけ。それでもいいの?」
「ゼロから二人になったんだ。それでいいさ」
昔は誰一人として居なかったであろう、俺の死を哀しんでくれる人々。それがあればそれでいいのさ。そう思い俺は何気なく窓の外の桜を見つめ、そういえば妖夢と初めて出逢った日も桜の季節だったなと今更ながらに思い出した。



   ***



走る。ただひたすらに走る。
修平さんの家の周りには多数の桜が植えられている。そしてこの町にも、数えるのも億劫な程の数の桜が植えられている。私はその中から最高だと思う桜の花を見つけ、修平さんに届けなくてはならないのだ。しかし―――
「あれも駄目…これも駄目…!」
走りながら見ていく桜。そのどれもが規格統一されたかの様にそれなりの桜でしか無く、私が思う『最高の桜』には遠い代物ばかりだ。
早く、見つけないと………明確に時間が定められている訳では無いが、少なくとも夕方までには探し出して送り届けなくては………!
「っ!はぁっ!はぁっ!」
桜を求めてとにかく走り続け、『最高の桜』を見つける前に息が上がる。ここが幻想郷でないからなのか、普段よりも身体が付いて行かない。でも、弱音を吐いてる暇なんて無い。早く『最高の桜』を見つけないと…!
「どうしたの妖夢?もう諦めるの?」
突然目の前から声が降りかかる。それに驚きながらも私は膝に付けた手を放し、顔を上げて声の主を確認した。そこには―――
「紫…様?」
―――八雲紫。彼女が立っていた。
「…私は、まだ諦めた訳じゃありません。何としても『最高の桜』を見つけ出して、修平さんの元へ送り届けるんです!」
「その意気や良し。でも何か勘違いしてるんじゃないかしら?」
「え?」
勘違い?どういう事なのだろう…?
「確かに修平君は最高の桜を持ってきてくれと言ったわ。でも、探し出してくれとは言わなかったでしょう?それはつまり、貴女の知っている桜の中からでもいいのよ。そして、決してこの世界の桜でなくとも良いという事」
「私の知っている…桜…」
そう言われてようやく気付く。恐らく、私が最高だと思っている桜が、私の身近なところにあるという事に。
「紫様!」
「ええ。いってらっしゃい」
そう言ってほほ笑みながら紫様がスキマを開く。その中に私は迷う事無く飛び込み、私が思う『最高の桜』の元へと向かった。

向かうは冥界。目的は白玉楼にある桜、西行妖。

一瞬の後に冥界の地へと足を付ける。そして冥界に残していた半霊も合流し、私は桜並木の道を西行妖目指して走り抜けていた。
そしてその間に蘇る、修平さんとの思い出。

初めて会ったのは、今から八年前の三月の事だった。
紫様の悪戯によって現代に落とされ、それが切っ掛けで修平さんと出逢った。

初めて口付けをしたのも三月の事だった。その後しばらくは会う事が出来ず、四月を目前にしてようやく再会する事が出来た。

初めて身体を重ねたのは四月の事だった。どちらも夜伽は未経験で、とても初々しかった事、とても痛かった事、そして痛みと一緒に修平さんの優しさも伝わってきた事をよく覚えている。

初めて愛していると言われたのが四年前の五月だった。修平さんの誕生日を迎えた後に、結婚しようと言われ、あまりの嬉しさで本気で泣き叫んだ覚えがある。その時の言葉もよく覚えている。

―――愛してるなんて言葉は、一生に二回で十分なんだ。一度目はプロポーズの時、もう一度は…死ぬ時。妖夢、愛してる。結婚しよう―――

以来ずっと私達は夫婦として生きてきた。苗字こそ変えなかったが、私達は確かに夫婦として生きてきた。そこには紫様が修平さんの母親として存在し、時には幽々子様が私の母親代わりとして存在してくれた。生き急いだ訳では無いが、とても短く、幸せな毎日だった。

もうすぐ、それが終わる。

でもそれは理解出来ているし、覚悟も出来ていた。
そもそも私は半人半霊で、修平さんは人間。どうあがいても修平さんの方が先に逝くのだ。ここまで早いとは思わなかったが、少なくとも死者に引き摺られながら生きる事は無い。修平さんも、自身に引き摺られて新しい幸せを見つけられない私を望む筈が無い。

私は、先逝く人の為に、強く生きる。修平さんはそれをも教えてくれた。

だから私は、修平さんの望みを叶える事でせめてもの恩返しとする。

「―――あった!」
ようやく見つけた。私が『最高の桜』と思える桜―――

―――西行妖が。



   ***



思えば、色々な事があった。
しかしその殆どが取るに足らない出来事で、特筆すべき出来事は妖夢と出逢った事から始まる毎日だけだろう。その他の出来事はそこまでのものでは無いし、記憶のいくつかは封印して、思い出そうとする事すらなくなった。
そうやって記憶を篩にかけて、残った物がその人間の人生の感想と言ったところだろう。どうでもいい記憶や、封印した記憶に意味も興味も無い。そして、俺の人生は―――

―――妖夢と結婚して、良かった。

たった、それだけだ。彼女だけが、俺の伴侶として共に居続けてくれた。

それが、もうすぐ終わる。

だが後悔する事は無いだろう。
後悔しながら死んでいく事を、妖夢は望みはしない。母さんもそうだろう。それに、死んでも冥界でもう一度会う羽目になるんだ。俺は本来この世の人間で、彼女はあの世の半人半霊。逆に、よく今まで一緒に居られたものだと感心する。

俺は、後に遺す者達の為に後悔せず先に逝く。妖夢がそれを教えてくれた。

だからこそ、俺は妖夢に最期の願いを叶えて欲しかった。

「―――来たか」
ようやく戻ってきた。『最高の桜』を携えた―――

―――魂魄妖夢が。



   ***



―――修平さん。どうぞ…


「こいつは…淡墨桜の類か…」


―――はい。冥界で最も立派な桜、西行妖の花です。本来なら咲く事は無く、次に咲くのが何時になるのかも分かりません。


「…ありがとう、妖夢。『最高の桜』確かに受け取った。それじゃ、今日はもう寝る…そんな顔すんな。まだ、死にはしねぇよ…」


―――わかりました。では、おやすみなさい…



そして、修平さんは五月の誕生日に、息を引き取った。

最期の言葉は勿論―――



               愛してる




                                       Fin.



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