叫び声。人々の焼けていく様。ただ一人の笑い声………

誰かが泣いている?
――違う…泣いているのは自分だ。

誰かがやめてと叫んでいる?
――違う…叫んでいるのは自分だ。

では何故?
――目の前で人が苦しんでいるから。

何故苦しんでいる?
――家を焼かれ、家族を焼かれ、自分を焼かれているから。

では誰が?
――それは………



「…っ!?」
目を開ける。そこには見慣れた天井があり、彼女…東風谷早苗は今のが夢であるという事を確認するとゆっくりと上体を起こした。
荒い息遣い、収まらない動悸、夢の中の惨状…それら全てが昨日の朝と同じであり、早苗は小さく呟いた。
「また…同じ夢…」
寒さが身に染みる。既に春に入りかけているというのにと早苗は思ったが、その原因が汗にまみれた寝間着であるという事に気付くのにそう時間は掛からなかった。
「何故…誰が…?」
夢の中で聞いた言葉を復唱してみる。すると早苗の顔は自然と隣の布団へと向き、その中でまだ夢の中にいる一人の少女を視界に捉えた。
「霊夢さん…」
規則正しい寝息。少女の無防備な寝顔。黒く長い髪。それら全ての要素が、あの惨劇を引き起こした張本人であるとは思えない程に可愛らしいものだった。
霊夢と呼ばれた少女の頬に手を乗せる早苗。くすぐったさに霊夢が少し体を捩じらせる。
「ごめんなさい…霊夢さん…」
思わず零れる一言。本当は、もっと早くに止めていれば…もっと早くに、気付いてあげればよかった…そうすれば誰も死なず、誰も霊夢さんを嫌う必要も無かった。誰が一番悪いとも言えない、だが早苗はその真面目な性格故に自分に責任を感じずにはいられなかった。
「ん…さなえ…?」
霊夢が目を開ける。まだ寝ぼけ眼の黒曜石の瞳が早苗を視界に入れた。
「おはようございます。そろそろ朝ご飯の準備をしましょうね」
「うん…んんっ…」
体を起こして大きく伸びる霊夢。その姿を眺めていた早苗は、ずれた寝間着が霊夢の胸を晒す前に素早く整えた。
「あ、ありがと」
無邪気な笑顔を浮かべて礼を言う。そんな霊夢の姿を見て早苗は酷く罪悪感の様なものを感じたが、それを押し殺して無理矢理笑顔を取り繕った。
「いいえ。それじゃ、行きましょうか?」



        『ワレタガラス』



守矢神社には二柱の神が祀られている。土着神である洩矢諏訪子、中央神話の神である八坂神奈子。かつて争い合ったその二柱の神は、今ではまるで家族の様に暮らし、人々からの信仰を得て、かつての在りし姿を見せ付けていた。
ただ一つ、無類の酒好きという事を除いて………
「あー、早苗に霊夢おはよー!」
前日から酒を飲み続けていた神奈子が二人を出迎える。こうして酒で一晩を明かせる程にまで神奈子は酒好きであり、それが早苗の悩みの種の一つでもあった。
「神奈子様!昨日からずっと飲んでいらしたのですか!?」
「そうよー。だって霊夢の教えてくれた方法で造ると美味しいんだもの」
と言って更に酒を煽る神奈子。一方、造酒の仕方を霊夢は子供の様な笑顔を浮かべていたが、早苗は複雑な表情を浮かべていた。

そう、新しく酒が造れる程である。

あまりの信仰の薄さに本気で堪忍袋の尾が切れた霊夢は、怒りに身を任せてあらゆる人と妖を襲った。湖付近の妖精達、吸血鬼の館、迷いの竹林の妖怪兎達、そして人里の人間…その姿はまるで鬼の様であり、その異常さはあの吸血鬼、フランドール・スカーレットをも上回る程であった。
やがて騒ぎを聞きつけた早苗達が魔理沙を含めた四人掛かりで霊夢を止めたが時既に遅く、沢山の人が殺されてしまった後であった。
正気に戻り、必至に謝罪する霊夢。その言葉に共感する者も少なからず居たが、やはり家族を殺された者達は彼女を許す事が出来ず、彼等は必要以上に霊夢を迫害し続けた。心を直に傷つける苦しい日々。やがてその迫害も悪質化し、ついに霊夢の心は限界を迎えて…彼女の心は跡形も無く崩壊した。

その時の霊夢と人里の惨状を思い出してにわかに吐き気を催す早苗。一方の加奈子はその早苗の姿を視界の端に捉えると再び煽ろうとしていた酒をちゃぶ台に置いた。
「でも、朝御飯作ってくれるみたいだからいい加減止めにするか。ちょっと諏訪子起こしてくるわ」
いってらっしゃーいと霊夢に見送られる神奈子。しかし早苗は未だに複雑な表情を浮かべて沈んでいた。が、これではいけない、今の霊夢さんに暗い顔は見せられないと思うとすぐにいつもの調子を取り繕い、台所へと向かった。



「ごちそうさま!」
「お粗末さまでした」
朝食が終わり、霊夢の言葉を合図に全員ちゃぶ台を離れる。出した食器を片付ける為に机を離れた早苗は、数日前に魔理沙が此処に訪ねてきた時の事を思い出していた。
『もしここが駄目になった時は、私のところで預かるよ』
魔理沙の優しさから出た言葉。お世辞にも楽とは言えない、霊夢を抱えた生活から離れられる言葉だったが、既に霊夢の事を家族として受け入れていた早苗はすぐには決心が出来ず、あれからずっと言い出せずにいた。
「…はぁ…」
幻想郷に移住した際に方式が変わり、少々使いづらくなった台所の流しで洗い物をしながら溜息を吐いた早苗。そこに神妙な顔つきをした諏訪子が姿を現した。
「早苗」
「はい」
いつになく小声で話しかける。この口調から例の話であるという事に気付くのはそう難しい話ではない。
「河付近にも来る様になった。守人は仕方なく護衛についてるだけみたいだけど、此処に探りを入れて来るのはそう遠くないよ」
「やっぱり、魔理沙さんに頼るしかないのでしょうか…?」
泡と共に食器に付いていた汚れが流れ落ちる。
「うん。辛いけど、それが私達の選んだ道だから…あそこなら、里の人間は容易には入ってこれないし、人形師と店主には話を通してある。前は霊夢の様子を見て止めておいたけど、移動させるなら今しか無いよ?」
そこで言葉を切ると諏訪子はすぐにその場を離れ、境内で地面に潜ったかと思えば帽子だけを出して森の中へと消えていった。
神奈子もいつの間にか居なくなり、守矢神社に霊夢と早苗だけが残される。もう、此処にはあまり長く居させられない。はやく、里の人間が此処に来る前に魔法の森に向かわせないと………そんな思いが早苗の心を後押しし、霊夢の前で林檎の皮を剥いていた早苗は唐突に口を開いた。
「霊夢さん」
「何?早苗」
林檎の皮が綺麗に剥けていく様を凝視していた霊夢が早苗の言葉に反応する。
曇り一つ無い黒曜石の瞳。その眩しすぎる輝きに決意が崩れそうになる早苗だったが、今の状況がそれどころではないという事を思い出し、自らの決心をもう一度確かめてから話を始めた。
「単刀直入に言います。霊夢さん、明日ここを出て、魔法の森へと向かってください」
「え?」
イマイチ状況が理解出来ていない霊夢に詳しい話をする為、早苗は林檎と包丁を置いた。
「もう河の近くまで里の者が迫ってきています、直にここも見つかるでしょう。だから、手遅れになる前に貴女には魔理沙さんのところへ向かって欲しいのです」
「そんな…」
早苗の見捨てるとも取れなくは無い言葉に絶句する霊夢。実際には魔法の森は霊夢からの被害を免れ、更に知り合いも居て里の人間が入って来れないという条件が重なっていた為、最初は魔理沙のところに引き取られる筈だったのだが当時の霊夢の精神状況が最悪だった為、先に守矢神社で預かる事になったのだった。
更に早苗は話を続ける。
「諏訪子様がいつもご飯の時にしか姿を現さなかったのは、神社の周りを監視する為。神奈子様がいつもお酒を片手に夜を明かすのは、境内を休まずに監視する為。私がいつも霊夢さんの傍に居たのは、貴女を危険から直接護る為………でも、それももう限界を迎えています。だから…」
早苗の口が止まる。それは、彼女の視線の先に今にも泣き出しそうな霊夢の姿があったからだった。
「……だ…」
「え?」
「…そだ…ぅそだ…!…嘘だぁ!」
喚きながら頭を抱える霊夢。早苗が半ば発狂状態に陥った霊夢をなだめようと肩に手を置いて呼びかけたが、まるで効果は無かった。
「霊夢さん!落ち着いてください!」
「なんで!?なんで皆私を嫌いになるの!?なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!?なんで私だけがこんなにも嫌われるの!?嫌!一人は嫌!独りは嫌なの!誰も私を嫌いにならないで!誰も私の事を置いてかないで!誰も私の事を否定しないで!なんで!?なんでそんなに嫌いなの!?なんでそんなに私の事が嫌いなの!?嫌!こんなのは嫌!皆に嫌われるのは嫌なの!嫌!嫌嫌嫌!嫌!!!いやあああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」
頭を抱えて泣き崩れ、突然動きが止まる。その挙動に疑問を抱く早苗だったが、この時に気付くべきだった。
「…皆私の事が嫌い…私は皆に嫌われるのが嫌い…そんなのはもう嫌…」
「霊夢…さん…?」
「だから…」
力無く顔を上げる霊夢。涙の流れ続けるその瞳には光が灯っておらず、明らかに正気を失っているという事が見て取れた。
「…私が消えればいいんだ…」
その言葉を聞いて天啓の様に全てを悟る早苗。それと同時に霊夢が置かれていた包丁に手を伸ばし、一瞬の差で早苗の手が遅れ、包丁を置いたままにしていた事を後悔した。
しかし早苗もそのままにしておく気は無く、目の前で繰り広げられようとしている自殺の瞬間、早苗は思い切り霊夢に抱きつき、掲げられた包丁が霊夢の胸を貫く前に抱き締めた。
「うっ!」
左腕に鋭い痛みが走る。更にとんでもない力で突き刺しているらしく、骨に刃物が食い込んでくる様な痛みも走った。
「くっ…霊夢っ…さんっ…!」
「…え…?早苗…?」
霊夢が気付く。その手にある包丁が自身の胸を貫く前に、早苗の腕によって遮られている事を知ると、脱力する様に腕に込めていた力を抜き、更にそこから流れ出る赤い血を見てあの時の人里の惨状を思い出したのか、急激に表情を変えて早苗から離れて手を突いて頭を下げた。
「ごめんなさいごめんなさいそんなつもりじゃなかったんですごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」
壊れた様に謝罪を続ける霊夢。一方の早苗は奇妙に冷めた頭で傷の程度を感覚で測り、霊夢を一人にする訳にもいかない為、過去に得た知識から腕の動脈静脈を押さえて止血をしながら霊夢の後頭部を見つめていた。



「心の準備はいいですか?」
「…うん…」
霧雨魔法店前。昼の高い日差しが僅かに差し込む中に、左腕を首から下げた早苗と未だに早苗の傷の事に責任を感じている霊夢の姿があった。
「魔理沙さんの事は覚えてますか?」
「うん…ごめんなさい…」
心が崩壊するのと同時に散り散りになった記憶。その中で霧雨魔理沙という存在も、霊夢にとっては未知の存在になっていたのだろうと早苗は思った。
「やっぱり、覚えてませんか?」
早苗の問いに首を振る。その動作が記憶の事ではなく、自分の傷の事を指しているという事に気付くと早苗はすぐに笑顔を浮かべた。
「大丈夫です。体の傷は、必ず癒えますから」
「でも!…早苗、私の事…嫌いになっちゃっ…」
霊夢の言葉が途切れる。なぜなら片手しか自由の利かない早苗が、霊夢を抱き締めたからだった。
「早苗…?」
「だったら…誰にも嫌われたくなかったら…もう二度と、あんな事はしないでください!あんな事しなければ、誰も霊夢さんの事を嫌いにはなりません…!」
更に強く抱き締める。まるで、二度と会えなくなる家族と離れたくない少女の様に………
「ほんと…?嫌いにならない…?」
「はい。私も、霊夢さんの事、嫌いになってませんから…」
「…うん…ありがとう…早苗…」
しばらく抱き締め合う。やがてどちらともなく体を放し、早苗はインターホンの付いていない霧雨魔法店の玄関をノックした。



「久しぶりだな、霊夢。私の事、覚えてるか…?」



………うん…魔理沙………



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