陽の光がだんだんと落ちてきて、時間も夕方に差し掛かった頃。甲斐の隣に座っていた荒見が「あっ」と小さく声を漏らした。

「大変、もうこんな時間。門倉くん、私そろそろ家に帰らないと。これからお買い物して晩ご飯の支度もあるから……ごめんなさいね、妹さん、あんなに楽しそうにしてるのに」
「いや、気にしないでください。こんなに長い時間カイくんと遊ばせてもらって、むしろこっちが悪いくらいですから」
「ふふ、それこそ気にしなくていいのよ? 私も、それにきっとカイちゃんも楽しかったから。今日はありがとうね、門倉くん」
「こちらこそ。それじゃあ……み〜こと! 遊んでる所悪いけど、そろそろ行くぞ。荒見さんももう帰るらしいからな」
「あ……」

 甲斐の呼びかけに振り向いて、ピタリと動きを止めるとみ〜ことはカイくんを撫でていた手を離す。そこで荒見が「カイちゃん、行きましょう?」と言うと『わん』と一鳴きしてカイくんは荒見の元へと駆けていった。

「妹さんも、ごめんなさいね。あまり遅くなっちゃうと困るからそろそろ帰るけど……私たちはよくここに来てるから、また遊んであげて。それじゃあまたね、門倉くん、妹さん」

 そしてそう言って二人に笑いかけると、荒見とカイくんは去っていった。

「ああ、行っちゃった……」

 その背中を見つめながら、み〜ことは名残惜しそうにやり場を失った手を彷徨わせながら呟く。まるで悲しみを全身で表しているかのようなそのみ〜ことの姿を見て甲斐がポンとその頭を軽く撫でると、そこでようやくみ〜ことははっと我に返って甲斐に視線を向けた。

「今日はもう無理だけど……この公園はそんな遠くないし、元々俺も時々ここには来てたからな。今度からはみ〜ことも、また一緒に来ればいいさ」
「……はい。ありがとうございます」

 み〜ことは甲斐の手を頭に載せたまま小さく頷くと、そのまま沈黙して甲斐の撫でる手を受け入れていた。

「――よしっ、それじゃあまた移動するか! 次が最後の目的地だから、早めに済ませて俺たちも飯にしよう」

 そしてしばらくしてから甲斐がそう言って手を離すと、み〜ことはいつものように恭しく、

「畏まりました」

 と頭を下げて、静かに歩き始めた甲斐の背中を追い始めた。






 甲斐たちが公園を出て最後に向かったのは、家の近所にある花屋だった。甲斐はそこに着くと店先でみ〜ことの訝しげな視線を受けながら、おもむろに口を開いた。

「さ、今日の用事はここで最後だ。……み〜こと」
「はい、何でしょうか?」

 甲斐は未だに首を傾げているみ〜ことから視線を外して栽培用の鉢植えに淹れられている花が置かれている一角に目を向けると、そのままみ〜ことには顔を向けないで、

「お前、今日から一つ花を育ててみないか? もちろん嫌だっていうんなら無理強いはしないけど、よかったらどれか一つ好きなのを選んでくれ」
「花を……育てる、ですか? もしかしてそれが、今日こちらまで赴いた用事だったのでしょうか?」
「ああ、そうだな。ここが終わったらもう用事はないから、後は帰るだけだ」
「……そうですか。それが甲斐様のご意向でしたら、わたくしに否はございません。ですが……好きなものを選べと仰られても、わたくしにはそういったものが存在しないのですが……」
「あー、そうだな……。好きな花が思いつかないんだったら、他に何か……好きな色とか形とか、それで決めてみたらどうだ?」
「色や形、でございますか……」

 そういわれてもう一度そこに視線を向けると、なんとなく目が止まったものがあった。そこに書かれていた花の名は、ハイビスカス。どこかみ〜ことの髪の色を連想させる鮮やかなオレンジ色の、綺麗な花だった。

「お、それが気に入ったのか?」
「……それでは、それでお願いします。他に気になったものはございませんので」
「オッケー、それじゃあレジ行ってくるからちょっと待っててくれ」

 甲斐はそう言ってその鉢を持って行くと、レジでお金を払い戻ってくる。そしてその花の入った袋をひょいと掲げると、

「ほら、これはお前が持っとけ。きちんと責任持って育てるんだぞ?」
「はあ……」

 み〜ことの気のない返事を気にもとめず、甲斐は一度軽い笑顔を見せるとそのまま花屋から出ていく。そしてすぐにその姿を追ってみ〜ことも店から出ていった。
 一度家へと帰る途中で信号を渡る直前、信号無視をした黒いスモーク窓の車が突っ込んできて危うく事故にあいそうになったこともあったが、それはみ〜ことが未然に気づいてくれて事無きを得た。その後は特に何も起こらず、二人は家に帰るといつも通りに過ごししていた。一つ違いがあるとすれば、ほとんど寝るためにしか使っていないみ〜ことの部屋に花が一つ増えたくらいだ。




 それから、一月程の時がたった頃のことだった。甲斐とみ〜ことにとって、一つの大きな転機となった出来事が起こったのは。
 み〜ことの行動優先順位は、まず第一に甲斐に関わることである。食事の準備や、家の掃除、洗濯などの家事。その他すべての『優先してすべきこと』は甲斐を基準に決められている。
 そのため、なのだろう。以前に買ったあの花。ハイビスカスは所有権が甲斐からみ〜ことに移され、それが『己のもの』になってしまった瞬間に、その優先順位は酷く下がってしまったのだ。
 自分のことは後回し。それがこの頃のみ〜ことには当たり前だった。例えばみ〜ことの部屋の中にはほとんどの家具が存在せず、岡崎教授から譲られた休眠兼メンテナンス用ベッドとタンス以外は何も無い。さらにはそろそろ秋も終わりが近く気温が下がってきたというのに、その部屋の中は暖房がつけられていないどころかその電源が落とされていた。

 しかしある日偶然に、その時み〜ことがやらなければならなかったことが全て終わってしまった、完全に隙間となってしまった時間が出来た時があった。
 そしてようやくみ〜ことは己の部屋の隅に置いてあったハイビスカスのことを思い出して、足早に己の部屋へと足を向けた。何故かその時み〜ことの胸のうちには小さな震えのような『悪い予感』が立ち込めていて、その足取りはいつもより重いものだった。

 ガチャリと扉を開けて、部屋の中を見る。そして鉢に植えられているハイビスカスへゆっくりと近づくと、み〜ことはその前で立ち尽くした。何故ならそれは――

 あの鮮やかだった花弁は全てくすんだ色になって地面に落ち、茎も完全に萎れて枯れ果てていたからだ。

「あ……」

 み〜ことは初め、マスターに任されたのに枯らしてしまうとはと、それしか考えてはいなかった。しかし同時に、何か予感がした気がしたのだ。
 そして彼女は恐る恐る、その手を枯れ草色になってしまった茎へと伸ばす。直後、それに触った瞬間に、み〜ことは胸に震えを覚えて手を引っ込めた。しかしみ〜ことはそれでももう一度それに触れ、今度は軽くそれをひとさし指と親指でつまんでみる。するとかつてハイビスカスであったその花は、カサリと"中身のない"音と感触を返してその身を小さく揺らした。

 ――その瞬間、み〜ことは言い様のない冷たい感情を心の深い所に覚えて、思わずその手を胸にかき抱いた。

 その手に残る感触は、決定的な死の影。それは生物の終わった後の姿。なにをしたとしても取り返しの付かない、全ての存在にいつか訪れるであろう終焉の感触だった。

「ああ……」

 み〜ことは、自分がなぜこれほどに衝撃を受けているのか理解できなかった。しかし己がしてはならないことをしてしまったのだと、そんな想いだけが心のなかに渦を巻く。

「……甲斐様……」

 気づけばみ〜ことは、居間にいた甲斐の元へとふらつきながら縋るように歩み寄る。その手には、枯れてしまったハイビスカスの姿があった。

「み〜こと……? どうした、顔が真っ青だぞ?」 

 そして甲斐は居間に入ってきたみ〜ことの姿に気づいて声をかけ、次に遅れてその手にしていた鉢に気づいて視線を向ける。

「あ……、その花は……こないだのやつか。――そうか。枯らしちまったんだな」
「甲斐様……。わたくし、どうすれば……」

 なぜこれほどに、み〜ことは気に病んでいるのか。そこにはそのハイビスカスが既に『み〜ことのもの』になっていたことが起因する。
 以前み〜ことが金魚を落としたて死なせてしまった時は、あくまでそれは甲斐のものであり、かつ家事の1つとして優先順位の高い作業としてその行為があったから、何も感じなかったのだ。
 しかし今回のことは『しなければならないこと』ではなく、また同時に『自分だけにしか関係のないこと』であったことから……それを覆うものの存在しない、完全に素の心のままでみ〜ことはそれを受け取った。故にみ〜ことは初めて己の心に入り込んできたその『死』という感触に、彼女の幼い心は強い衝撃を受けたのだ。

「……どうしようもないさ。生き物は、死んじまったらそれで終わりなんだ。もう二度と、生き返ることはないんだよ」
「ごめんなさい……」
「俺に謝ることじゃない。それよりも、お前が今何を気にしてそんなに落ち込んでるのか……それを忘れずに大事にして、自分なりに考えて欲しいんだ」
「……」

 そして、翌日のこと。まるで追い打ちをかけるかのように、ある出来事が起こった。
 その日甲斐はみ〜ことと二人、連れ立って買い物に出ていた。昨日の今日で少し心配だったので、一人では行かせられないと考えた甲斐が無理を言って一緒に家を出たのだ。
 行きは何事もなかったが……その帰り道――

「……え?」
「なっ、み〜こと危ねえ!!」

 ――突然の、ブレーキ音。
 そしてその先にいたのは、以前にも見た黒塗りの乗用車の姿だった。車はどうにかこちらを曲って避けようとしていたのだろうが、しかしそれはどうみても間に合わない。甲斐は咄嗟にみ〜ことに体当りするように突っ込むと、その体を抱き寄せて前方へと飛び込んだ――瞬間、足がわずかに車に接触。

「う、ぐっ……!」
「甲斐さ、きゃあ!」

 甲斐の体に勢いがついてしまって、二人はゴロゴロと道の端まで転がっていった。

「う、ごほごほっ、げほ、こほ……――、はー……」

 足がかなり痛むのと、背中を強く打ち付けて息が詰まってしまっていたが、幸いなことに大怪我だけはせずにすんだようだ。これだけ派手に吹っ飛んで大事ないなんて、まるでどこぞのスタントマンみたいだなと内心で苦笑しながら、甲斐は緊張を解すようにゆっくりと深い息を吐き出した。

「か、甲斐様! ご無事ですか!?」

 慌てて身を起こして甲斐の腕から抜けだしたみ〜ことが、半ば叫ぶようにして甲斐に声をかける。

「ああ……何とかな。打撲くらいはありそうだけど、骨を折ったりはしてなさそうだ。そういうみ〜ことこそ、大丈夫だったか?」
「わたくしは――っ」

 その瞬間、み〜ことの脳裏に昨日のハイビスカスの萎れた姿と、触れた時のあの感触が蘇った。
 自分とは違い、生き物はすべからく脆く儚い。それは現在の己のマスターたる甲斐とて変わりはなく、そして死の恐怖を知ってしまったみ〜ことには、そうなってしまったかもしれないという事実だけで既に耐え難かった。
 故に――

「わたくしなんてただの物なのに……どうしてあんな、庇ったりなんかしたのですか! わたくしは壊れても直せばそれでいい! だけど甲斐様は、死んでしまったらそれで終わりなんですよ!」

 それはみ〜ことがあのカプセルから目を覚ましてから、初めて抱いた怒りという名の感情だった。み〜ことは甲斐に、死んで欲しくはなかったのだ。甲斐が『あんな事』になってしまったらと、少しでも想像してしまうと……それは酷く、恐ろしいことだった。
 今やみ〜ことにとって、目覚めてからのそのほとんどの時間を共に過ごした甲斐の存在は自覚なく……だけど絶対に、失いたくはないものになっていたのだ。
 それは刷り込みのようなものだったのかもしれない。しかし――目が覚めてから初めて話したのが、初めて目にしたのが、初めて口にした名前が、初めて何かをするのが……全て、甲斐と共にあった。故にその想いに人や機械の垣根はなく、確かな彼女の想いだったのだろう。
 だからもう自分なんかほっといて、もっと体を大切にして欲しかった。その身はあの花と同じく、失われてしまえば取り返しの付かないものなのだから。
 だが――

「……物だから、体が機械だから、壊れてもいいって言うのか?」
「そうです! わたくしの体なんて、壊れたら直せばそれで済むことなのですっ。甲斐様には、予備のパーツがありません。頑丈な体も、修理器具だって用意できない! ですがわたくしは、何かあったら岡崎様に頼めばそれで直るのですからっ!」
「み〜こと、お前……」

 ギチリと、歯が噛み締められる音がした。そして甲斐の表情から発せられる、確かな怒りの感情。それはみ〜ことが初めて他人からぶつけられた、感情の発露だった。

「ふっざけんなよ! 治せるから壊れていいだなんて……そんなこと、あるわけあるか! ……馬鹿な事言うんじゃねえよ、まったく」

 み〜ことは甲斐に怒鳴られて、びくっと体をすくませると、まるで初めて親に怒られてしまった幼子のように視線を俯かせる。しかしその表情からは僅かな不満の色が漏れていて、どうやらどうして自分が怒られたのか理解してはいないようだった。

 ……甲斐は悲しかった。甲斐は何も、自分が大事じゃなかったからみ〜ことを助けたわけではない。自分のことは当然大事だけれど、それでもやはり今は妹のように思っているこの少女のことも大切だったから、半ば無意識に身を挺して庇ったのだ。
 だけどみ〜ことには、自分がない。自分の中に自己が存在していないから、自分の身を案じるという考えがそもそも存在しないのだろう。
 それはもしかしたら、ロボットとしては正しいことなのかもしれないが……しかし己の家族がそのように思ってしまっているというこの事実は、甲斐には酷く悲しいことだった。

 そして甲斐は、その悲しそうな表情をそのままに……未だ顔を俯けたままのみ〜ことの姿を見て、その体を静かに抱きしめた。するとみ〜ことはぴくりと肩を跳ねさせたが、しかしそのままなにも抵抗せずにいる。

「なあ、み〜こと。俺の心臓、動いてるだろ? 当然息だってしてるし、体温だってある。……俺だって、生き物だ。いつかはこの心臓も止まって、冷たくなって死んでいく。だけどそれは……一度きりのものだからこそ、大事なモノなんだよ。それはもちろん、俺だけじゃない。カイくんだって、お前が枯らしちまったあの花だって……いつだったかお前が水槽を落として、死んじまったあの金魚だってそうだ」

 甲斐はそこで覗くようにして見上げてきたみ〜ことの視線を感じて、視線を下に向けるとその目をまっすぐに見つめ返した。

「そしてお前だって、いつかは死ぬんだよ。形あるものは、いつかは壊れる。そこに人間だとかロボットだとか、そんな些細な違いは関係ないんだ。治すことも元に戻すこともできないような、決定的な死はお前にだっていつかかならず来る。……だけどだからこそ、お前だって大切なんだよ。み〜ことは一人しかいない。今ここに居るお前は、一度失われちまったらそれで終わりなんだよ。だからもう、自分のことを壊れてもいいだなんて……そんな悲しい事は、言わないでくれ」

 み〜ことは甲斐の言葉を聞いて、無言でそっと視線を伏せた。甲斐はそんなみ〜ことの様子を見て、おもむろにその小さな頭に手を載せそっと撫でる。

「すぐに解れとは言わない。だけどいつか何かを感じた時に、俺の言葉をもう一度思い返してくれ。それが俺からの、初めてのみ〜ことへのお願いだな」
「お願い……」

 そして甲斐はポツリと呟いたみ〜ことに一度苦笑を浮かべると、

「……悪いな。もっと上手く伝えられればよかったんだけど……俺も人間としてまだ未熟だってことなんだろうな。まあ、まだまだ時間はたっぷりあるんだ。これから一緒に成長していこうぜ。家族なんだからさ」

 そう言ってみ〜ことの体を離すとその頭から手を避けた。

「あの〜」

 とその時、突然横から声をかけられた。すわあの車の運転手かとそちらを見ると、そこにいたのはなんと――

「……ちゆりさんに、岡崎教授? 何であんたらがここにいるんですか?」

 甲斐は目を丸くして、どこか問い詰めるような口調でそう言った。状況が状況だったのと、この二人が揃っている時は大抵ろくなことが無いのでほとんど無意識にそのような口調になってしまったのだが、

「あはは……。いやー実は、あの車を運転してたのってアタシだったりするんだよ……」
「いやーまいったまいった。まさか門倉が庇いに行くとは思わなかったもんだから、焦っちゃったよ」

 どうやらそれは、甲斐の勘違いではなかったようだ。
 バツが悪そうに白状するちゆりとぽりぽりと頬をかきながらそう口にした岡崎教授に、今度こそ甲斐は「はあ!?」と叫んであんぐりと口を開けた。






「結局、この子たちに最初に与えなければならなかったものは、死の恐怖だったのよ。自我の構築には、死への抵抗が必須なの。人間だって基礎的な欲求は、全て生存欲に依存する。生物が生きていく上で、必ず一度は意識しなければならないことなのよ、これは。門倉だって、それはわかるでしょ? ……この子たちはただの機械じゃなくて、もう一つの生命だから。それを教えないわけには行かなかったのよ。人と暮らす上で、人とかけ離れた精神性を持たせるわけには行かないからね」
「……んで、それを実感してもらうためにわざわざちゆりさんに無理やり運転させてあんな事をした、と?」
「そうそう、そういうわけなのよ。まさか門倉があそこまでしてみ〜ことをかばってくれるとは思わなかったけど……まあ、それは嬉しい誤算だったわね」
「まったく、アンタって人は……」

 甲斐はみ〜ことの入っているカプセルの前においた椅子に座りながら、心底頭が痛そうな顔をして額に手を添えた。

「ちょっと、そんな顔しないでよ。一応これでもあの子たちの強度は把握してるからね。絶対に大丈夫なように車の重量とかスピードまで計算してたんだから、せいぜいちょっと傷がつくくらいだったわよ。それなら十分、あの子の自己修復でまかなえる範囲だったはずよ」
「あのねえ……そういう問題じゃないっつの! 今度似たようなことしやがったら、その時はアンタが計算してる数式に誤情報混ぜてエンドレスループ地獄にはめてやりますからね!」
「うあ待って、それはやめて! もうしない、絶対もうしないから!」

 岡崎教授には、ヒューマンエラーが存在しない。計算ミスをしないのだ。それ故彼女は何かの計算をしていても自分が間違っているのかもしれないという可能性を初めから排除してしまうので、中に誤情報が存在するとどうして答えが合わないのかと思考の迷路にはまってしまうのだ。

「……はあ。それで、み〜ことは大丈夫なんですか? 一応メンテナンスするからって聞いて着いてきたけど、どっか悪いとことかは……」
「それはなさそうね。どっちかって言うとこれはメンテナンスよりモニタリングがメインの作業だから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「そうですか」

 最後に相槌を打って、甲斐は黙りこんでしまう。そして岡崎教授もみ〜ことの入っているカプセルの前に戻って、作業を再開した。
 それから、しばらくした頃。甲斐は座ったまま瞑っていた目をゆっくりと開き、カタカタと音を立てながら仮想キーを打つ岡崎教授の背中に向かって、再びおもむろに口を開いた。

「教授」
「なに?」

 作業を続けながら短く答えた岡崎教授に、甲斐は静かな声で言葉を続けた。

「……その内、今のこのモニターのバイトが終わったとしても……み〜ことは、家にいさせてはもらえませんか。もちろん本人の気持ちありきだけど……あいつがいいって言ったら、その時は……お願いします」

 一瞬だけ、甲斐の頭の中にバイト代をゼロにすることを条件にこれを頼もうかという考えもよぎったが……それはつまり、金でみ〜ことの取引をするということだ。それは彼女を家族のように思っている甲斐には、最早できないことだった。
 よってその選択肢は早々に却下して、甲斐は岡崎教授にただ頼むことを選択した。もちろんこれで向こう側から何か条件を言われたとしたら、大抵のことはそのまま飲むつもりだったが――

「この子はもう、私の所有物なんかじゃないわ。独立した一個の生命体なのよ。だからこの子が自分でそうしたいといったのなら、私に止める権利はない。……要するに、門倉にこの話を頼んだ時にアナタが言った通り、初めから全部この子の意思次第ってわけ。だからその言葉は、私じゃなくて本人に言いなさい」

 岡崎教授は一度動かしていた手を止めて、甲斐に振り向くことなく静かな声でそう語った。そして最後に、

「門倉。もう私からは、この子に一切手だしはしないわ。だからこの子のことは、アナタに任せたわよ。この子がちゃんと、自分のことを一つの命なのだと思えるように……門倉が、それを教えてあげて」

 と言葉を締めくくると、再び作業を開始する。

「俺にそんなだいそれた事ができるかはわかりませんが……俺はもう、み〜ことのことは大事な家族の一員だと思ってます。だからこれからも、俺はみ〜ことと一緒に生きていきたいと思ってますよ。きっと俺に出来ることは、それだけなんだと思いますからね」
「……そう。ありがとう。やっぱりこの子を門倉に任せたのは、正解だったみたいね」

 甲斐の言葉は少なく拙いが、その想いだけはなんとなく伝わった。だから岡崎教授もそれ以上は多くを語らず、一言そう言うだけでその唇に言葉をのせるのを止めた。

 ……ちなみに。
 実は二人のこの会話は、カプセルの中にいたみ〜ことにも聞こえていた。本来は聞こえるはずがない……どころかその中にいる間の意識は完全になくなるはずなのだが、教授の計らいで今回はそうなっていた。
 み〜ことにはまだ、自分が二人の言うように甲斐や岡崎教授と同じ命なのであるということが、理解できなかった。そして、甲斐の言う家族という感覚も分からない。
 だけどこうして休眠機の中で揺蕩いながらこれまでのことを思い出していくと、自然ともっと甲斐と一緒にいたいのだという気持ちが湧いてきた。そしてそうしていればいつか自分も、自分のことが一つの命なのだと……自分が甲斐の家族なのだと、そう思えるようになるのではないかと、そんな風に思えた。
 そしてなによりみ〜ことは、自分から『甲斐の家族』になりたいのだと、そんな気持ちが胸の内に存在するのを自覚した。

 だから――

 まずは呼び方を変えるところから、始めよう。呼び名というのは、きっと大事なものなのだ。以前にマスターも様付けはやめてくれと言っていたから、それはきっと間違いない。だけどはじめから名前だけで呼んだりするのは馴れ馴れしい気がするから、まずは少し変えるところから。
 それに話し方も、少しだけ崩してみよう。だけど敬語を止めるのも、自身のあり方を考えればやはり抵抗がある。それなら今よりは柔らかく、だけど敬語だけはそのままにして話してみよう。
 それと今度は、もっと人間のユーモアについても学んでみるのもいいかもしれない。そうすればもっと、マスターは笑ってくれるかもしれない。
 ……時折家の中に一人でいる時に見せる、寂しそうな表情。あれはもう、見たくなかった。マスターの笑顔は、いつも自分を温かい気持ちにさせてくれる。だから今よりもっと明るく振る舞って、何度も笑わせてあげるんだ。

 そんなことを、み〜ことがカプセルの中で微睡みながら、どこか夢の中にいるかのようにボンヤリと考えていると、次第に意識が鮮明になってきたのを感じた。どうやら全ての作業が終わったようで、もう外に出られるようだ。

 そしてカプセルの中から半透明の液体が全て排出された後……み〜ことは不意に肩にかけられたタオルに気づいて顔を上げ、そこに甲斐の姿を確認すると表情を緩めて体にタオルを巻きつけながらゆっくりと立ち上がった。

「なあ、み〜こと。いきなりこんな事言われても困ると思うんだけど……お前はさ、今のモニターのバイトが終わった後も、俺のうちに住むつもりはあるか?」

 普通であれば急なその問いかけに面食らうところだろうが、み〜ことは外で二人の間に交わされていた会話の内容を知っていたので特に驚くこともせずに……そしてとても嬉しそうな満面の笑みを浮かべると、

「もちろんですわ、甲斐ぼっちゃま♪」

 と明るい声で、答えるのだった。

 そうしてこの日から、門倉家では毎日明るい声の飛び交う賑やかな日々が始まるのだが……それはまた、別の話。





 名称:門倉甲斐。種族:人間。分類:マスター。優先度変更→優先度、極高。優先度を極高にすると自壊する場合でもそちらを優先して保護してしまい、また容易には再変更をすることはできなくなりますが、本当に変更しますか。 →Yes



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