「……はあ」

 暑い。いくら夏とはいえ、まだ午前中。朝といってもいい時間帯だというのに、空に浮かぶ太陽は容赦なく地面を照らしており、普通に歩いているだけでもじんわりと額に汗が浮いてしまう。さらにその熱は自身の通う大学への道のりを歩いている甲斐の体を襲い、その思考能力を奪っていく。
 が、それでもやはりどうしても気になることというのは、勝手に頭の中に浮かんでしまうものらしかった。
 そうして自然と脳裏に浮かんできたのは、あの後例の扇を調べた雛の言葉。

『どうやらこの扇子には、特別な力はなさそうだわ。あるのは人の力を変換して対象に渡す能力と、その使用者に悪影響がない程度に抑えるための制御能力だけみたい』

 万が一があった時を考えると、それをまた使ったとしても死ぬような事にはならないという事実はありがたいものだと言えるが……

『もしかしたら甲斐にも何か、能力があるのかも知れないわね。私や……貴方の話してくれた、そのマエリベリーっていう女の子みたいに。もしも甲斐が無意識の内にそれを使っていたのだとしたら、一応の説明はつくから』

(……能力、か)

 正直に言えば、全く心当たりがないでもない。
 以前……初めて大学でメリーに出会った時甲斐は彼女から、甲斐にはどんな境界も見えないのだと言われたことがあった。元々それがきっかけで彼女と知り合いになったようなものなのだが……あれがもしもその『能力』とやらのせいなのだとしたら、納得することはできる。
 とそこまで考えた所で、

(まあでも、あってもなくっても正直な所、どちらでも構わないかな)

 甲斐には何故か昔から、自身が世界のどこにいたとしても己でいられる確信があった。
 ならば、何を恐れればいいというのだろうか。いつでも変わらぬ己でいられるのなら、他に必要なものなどなにもないのだ。場所も、状況も、どんな時でも変わりなく、結局はいつもと同じ事をするだけなのだから。

 そして甲斐は顔を上げると、まっすぐに前を向いて歩き出した。
 メリーに頼んで合う約束をしてもらった蓮子との待ち合わせ時間は、大学が終わってからだ。それまではいつもどおり、勉学に励むことにしよう。



 ――そんなことを考えながら歩いていた、甲斐の遥か後方。そこには手に持った携帯端末をじっと見つめて、画面に映る甲斐の姿を監視する一つの人影が存在した。
 日常に潜む影達は己の気配を消して隠れながら、ひたりひたりと甲斐のすぐ近くまで迫っていたのである。



◇◆◇◆◇◆



 宇佐見蓮子は、門倉甲斐が苦手だった。とは言え別に嫌いというわけでもない。もしもそうだったとしたら、たとえメリーの言うことであったとしても秘封倶楽部の活動を手伝ってもらうこともなかっただろう。
 というかむしろ、人間的には好きな部類に入るのかも知れない。彼のあのよくわからない包容力のようなものは、自分たちのような変わり者にとっては特に居心地のいいものだろうから。
 しかし男性として好きかと言ったら、それは全くの躊躇なく否と答えるし、そしてそれ以上に恐らく甲斐が自分を好きになるということはありえないだろう。

 そして宇佐見蓮子は、天邪鬼だった。だからメリーとの約束をした時なんかはわざと少し遅刻してみせたり、ちょっとした悪戯を仕掛けることなんかもよくある。
 元々はそれが高じてオカルト好きになって秘封倶楽部なんていうサークルを立ち上げたのだから、本当に筋金入りの天邪鬼なのである。そしてだからこそ、甲斐のあのあっさりとなんでも受け入れる性格は苦手だったのだ。
 例えば甲斐に、蓮子が「わたしはあんたなんか嫌いだ」と言ったとしよう。すると甲斐はきっとあっさり「そうなのか」と頷いて、適度な距離を保ちつつ必要があれば普通に接するのだ。
 そして後から「ホントはさっきのは嘘だった」と言ったとしても、きっと特に怒りもせずに「そうだったのか」とあっさり頷いてやっぱり気にせず普通に接するのだろう。
 メリーのように皮肉の一つでも返してくれればこちらも悪びれることなく笑うことができるのだが、そうもあっさり流されてしまうとむしろこちらが困ってしまうというのが本音だった。

 ということでやっぱり基本が天邪鬼な蓮子は甲斐のことが苦手だったので、その甲斐と待ち合わせをするというのは嫌ではなかったが少しだけ複雑な気分だった。
 積極的に付き合いたくはない……というほどに苦手意識を持っているわけでもないのだけど、それでもやっぱり理由もなしに自分から会いに行ったりはしない。
 蓮子の甲斐に対するスタンスは、だいたいがそんな微妙なものなのである。



 とまあそんなこんなで、時刻は午後四時を少し過ぎた頃。蓮子と甲斐は大学の食堂で約束通り合流すると、かたや手元に被っていた帽子を下ろして弄りつつ、かたや適当に取ってきた水を持って椅子に座って対峙していた。

「……ふうん。門倉がわたしにわざわざ聞きたいことがあるなんて言うから何事かと思ったら、わたしたちが前に秘封倶楽部の活動で行ったあの神社の住所が知りたいって?」
「ああ、そうなんだよ。今朝マエリベリーに聞いてみたら、そういう行き先なんかはいつも宇佐見が決めてて自分は詳しい場所は知らないから、そっちに聞いてくれって言われてな。それでこうして、待ち合わせの約束を取り付けてもらったってわけだ」
「それはわかったけど……なんで今さらあんなとこに行きたいの? あそこは一般人が行ったとしても特に何の変哲もない、ただの普通の神社なんだけど?」

 訝しげに首を傾げた蓮子の言葉に甲斐は軽く首を横に振って、

「いや……詳しいことは省くけど、正確に言うとそこに行きたがってるのは俺じゃなくて、俺の知り合いなんだよ」
「門倉の知り合いって……この大学の人?」
「いや、違う」
「あれ、そうなんだ。それでその人って、男? それとも女? 名前はなんて言うの? あと歳は同年代? 学校はどこに通ってるの? それとも社会人かな?」
「あー、ちょっと落ち着いてくれよ。ちゃんと質問には答えるからさ」

 蓮子は自らサークルを作ってあちこちを飛び回るくらいには好奇心旺盛な上に積極的な性格をしているので、喋るときも勢いがあることが多い。そんな蓮子に苦笑いを浮かべながら、甲斐は一度蓮子を宥めて一つ一つ当たり障りがない程度に質問に答えていった。
 流石に雛が神であるとか、幻想郷のこととかは話していない。メリーや蓮子には話しても別にいいといえばいいのかも知れないが、仮にそうするとしても雛の意思を確認してからの話だろうと思ったからだ。
 そして甲斐が全ての質問に答え終わると、蓮子は小さく首を傾げて、

「ねえ、その子って可愛い?」

 ずいぶんと率直な物言いでそんなことを口にした。

 甲斐は大抵の場合話をしていても聞き役に徹することが多く、また積極的に人に関わる方でもない。そんな甲斐の口から女性の名前が出てきたものだから、蓮子は上手く行ったら珍しく甲斐をからかうことくらいはできるかも知れないと思って、自然と自分の口元が釣り上がって行くのを感じていた。

「ん? そうだなあ……。まあ雛を見て可愛くないっていうんだったら、世の中の美人の八割くらいは普通に分類されるんじゃないかってくらいには可愛いんじゃないか?」
「あ、そうなの……」

 ――が、全く恥ずかしげもなく甲斐がそんなことを口にするものだから、それは早々に諦めた。
 相変わらず、可愛げのない男である。その点に関しては、蓮子も甲斐に対してメリーと共通の見解を持っていた。
 なので蓮子は、少々切り口を変えて見ることにする。別に場所を教えること自体は構わなかったのだが、このままあっさりとただで教えてしまうのもちょっと面白くない。甲斐が自分に頼みごとをしてくるなんて珍しいことはそうそうないのだし、少しくらいは楽しみたいというのが蓮子の本音だった。

「んー、じゃあさ……近い内にその雛って子と一度、会ってみたいな。ちょっと色々興味も出てきたことだし、その子と一日一緒にみんなで遊ばせてもらうっていうのが神社の場所を教える交換条件ってことで……どうかな?」



◆◇◆◇◆◇



「――っていうことなんだけど……どうする、雛? もし嫌なんだったら、宇佐見には何か別のことにしてくれって頼んでみるつもりだけど」

 甲斐は蓮子との会話を終えて家へと帰った後、早速雛に話し合いの結果を報告していた。

「いえ、嫌ということはないのだけど……」

 そしてその話を聞いた雛は、どこか困ったようにして頬に手を添えた。

 当然のごとく、一日誰かとどこかへ出かけるだけで幻想郷へ帰れるというのなら、雛に断る理由はない。だがしかし、そこには外へ出ることによる力の消耗や、その相手や周りの人間に厄が移ってしまう可能性があることなど、様々な問題がまるで眼前に聳える山のごとく横臥していた。
 しかしそれら雛にとっては致命的とも言うべき問題を同時にどうにかする方法が、一つだけ存在する。……するのだが、むしろ雛にとってはそれこそが、正に一番の問題とも言えた。

(まさか外にいるあいだ四六時中、常にぴったりと離れずそばにいてくれなんて、そんなこと言えるわけない……)

 それはその状況を想像するだけで胸中に湧いてくる恥ずかしさだけの問題ではなく、雛のこれ以上甲斐やみ〜ことに迷惑をかけたくないという、ある意味必然とも言うべき気持ちの問題だった。
 確かに少しでも恩返しをしたいと思って今日一日ずっと家事を手伝おうと色々やってはいたが、しかし雛は外の世界の道具などに詳しくはなく、その上み〜ことの手際が余りにもよすぎてむしろ邪魔にしかなっていなかった気がしてならない。
 ただでさえ今も衣食住すべて頼り切り――ちなみに下着はみ〜ことが買ってきてくれていた――だというのに、更にそのようなことを甲斐に頼むというのは、もはや雛の性格上できようはずもなかったのである。

「ふむ……」

 そして暗い表情で顔を俯けて黙り込んでしまった雛を見て、甲斐は大体のその心情を察していた。
 事前にそばにいれば外にでても大丈夫らしいことは聞いていたし、後は雛の立場にたって考えてみればそれは自明の理とでもいうべきものだったからだ。
 甲斐にしてみれば仕方のないことなのだし遠慮することはないと思うが、雛からしてみればそうも行かないだろう。しかし現実問題博麗神社の場所を聞くことは必要なことであるし、この機会を逃してしまうのは忍びない。

 ということで甲斐は、あえて道化に徹することにした。

「なあ、雛」
「……何かしら?」

 視線に疑問を込めて顔を上げた雛に対して、甲斐は明るい表情のまま話しかける。

「雛は、プールって知ってるか?」
「ぷーる? いえ、知らないわ」
「ん、そうか。えっと、そうだな……一言で言っちゃえば、水遊びをするために人の手で作ったおっきな池みたいなもん、ってところかな」
「へえ……外の世界には、そんなものがあるのね。それで、それがどうかしたの?」

 当然と言えば当然の雛の疑問に、甲斐は少しわざとらしいくらいに真剣な表情で、

「いや、さっきの話の中で宇佐見が『夏って言ったらやっぱプールでしょ!』とか言っててな。だから雛がいいって言ったら、宇佐見はそこに行くつもりらしいんだ」
「? うん、それで?」
「つまり当然、水場で遊ぶってことは水着も必要になるよな?」
「ええ、そうね」

 雛が水着のことを知っているのか多少疑問だったかが、問題なく知っていたようだ。
 そして甲斐は雛が相槌を打ったのを確認すると、

「雛はスタイルもいいし美人だからさ……すごい見たいんだよ、その水着姿。だからさ、一緒に行こうぜ、雛?」

 しごく真面目な顔でそんなことを口にした。

「な!? な、な、な、」

 その瞬間、雛はまるで頭から湯気でも出ているのではないかというくらい真っ赤になって硬直してしまった。

「いきなりなに恥ずかしいこと言ってるの!?」
「恥ずかしくなんてないし、見たいものは見たいんだから仕方ないじゃねえか。な? プール行こうぜ雛。こんないい機会を逃しちまったら、俺は当分の間毎晩枕を濡らす羽目になっちまうよ」

 とその時突然、

「――わたくしに言ってくだされば、そんなものいつでもお見せいたしますわ!」
「うぉわ!? ってだからいきなり湧いてくんなってみ〜こと!」
「そんなことより、ぼっちゃまはビキニをご所望ですかっ? それともワンピース……マニアックな所でスクール水着でございましょうか!? さあさあ、遠慮なさらずにどんとご希望をお伝え下さったりしちゃってくださいませ!」

 咄嗟の甲斐のツッコミも意に介さず、そんなことを捲し立てるみ〜こと。

「いや、家ん中で水着になってどうすんだよ。ちょっと落ち着け、み〜こと」
「なんとつれないお言葉っ。ぼっちゃまがわたくしの水着姿を見たいといったのではありませんか!」
「ちげえよ、俺はお前じゃなくて雛に言ったんだ!」
「まあ、贔屓はイケマセンわぼっちゃま! ですのでどうかわたくしの水着姿も褒めてください!」
「あー、もう訳わからん……」

 とそこで甲斐がみ〜ことの勢いに押されてげんなりと呟いた所で、

「ぷっ、ふふ、あはは」

 とうとう雛は吹き出して、くすくすと笑い出してしまった。

「あ、ほらみ〜こと、雛にまで呆れて笑われちまったぞ」
「全く構いませんわ。わたくしは己の心の命ずるままに行動したまででございます」
「たまにはその命令に反抗したほうがいいと思うぞ……?」
「それは無理です」
「即答!?」

 そして未だに続けられている主従漫才に、雛は目尻に涙を浮かせながら暫くの間笑い続けた。……そこにはただの可笑しさだけではなくて、もしかしたら感謝の気持ちも込められていたのかも知れない。



◇◆◇◆◇◆



『――もしもし、宇佐見か? 今日言ってた話、大丈夫だってさ』
『あ、ホントっ? ラッキー! 前からプールには行きたかったんだけど、メリーは付き合い悪いし一人じゃ嫌だったんだよね!』
『ああ、雛にとってもいい気晴らしになってくれればいいんだけどな。……と、そうだ。それとこの話、俺も一緒ってことになっちまうんだけど、いいか?』
『え? いいよいいよ、それくらい。その子も知らない人間だけじゃいずらいだろうし、元々そのつもりだったからさ。それじゃあ、はい。博麗神社の住所、メールで送っといたから』
『あれ、いいのか? まだプール行ってないのに教えてくれて』
『別にいいよ。初めから、行けなくてもそうするつもりだったし。たかが場所を教えるくらいで、そんなに引っ張るつもりはなかったからね』
『そっか、ありがと。助かったよ。日にちは明後日でよかったんだよな?』
『うん、それでオッケー。それじゃあまた明後日。楽しみにしてるわ』
『おう、またな』



(……、明後日)

 日の下に立つ者達の影法師。それは今まさに、甲斐達のつま先へと重なろうとしていた。



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