「――ぼっちゃま。甲斐ぼっちゃま。起きて下さいませ、もういつもの時間だったりしちゃいますでございますよ?」
「ん……」

 ゆさゆさと、優しげな手つきで体がゆすられる。そして甲斐はゆっくりと、眠りの世界から意識を浮上させていった。

 甲斐は特別に朝に弱いわけではないので、本来無理にみ〜ことに起こして貰う必要はない。事実朝早くに起きなければならない時や前日に遅くまで起きていたりしなければ、自分から何時に起こしてくれと頼むこともないのだ。
 しかしそれにも関わらず、甲斐が寝起きにみ〜ことの顔を見ない日というのはほぼないと言っていい。
 それは何故かというと、いつもみ〜ことは甲斐の脳波などから起きるタイミングを把握して、あえてその直前に起こすようにしていたからである。完全に優れた身体機能ハイスペックの無駄遣いであることは間違いない。

「み〜、こと……?」

 み〜ことは半分以上寝惚けながら、未だ薄目すら空けずにその名前を殆ど寝言のように呟いた甲斐を見つめると、くすりと幸せそうに目を細め微笑を漏らしてそっと耳元に自身のその瑞々しく形の良い唇を近づける。
 そして次の瞬間み〜ことは、

「そろそろ起きて下さいまし、ア・ナ・タ♪」

 などとそれはそれは甘い……まるで前日に結婚式を挙げたばかりのほやほやの新婚さんのように甘ったるい蕩けそうな声で、甲斐に熱っぽく囁きかけた。

「うぁい!? ――ってだから、毎回妙なキャラ作って起こすのやめい!」

 み〜ことも昨日からすればすっかり調子を取り戻して、完全に絶好調のようだった。

 ――とまあ、毎朝だいたいこんな感じの一幕を繰り広げ、その後起き抜けの甲斐に怒られて場合によってはお仕置きをされるというのが、門倉家のおおまかな一連の流れであった。

 ……やっぱり駄目だ。このメイド早く何とかしないと。

 とはいえこれもひとつのじゃれ合いのようなもの。なんだかんだといってもこの二人、結局はいいコンビなのである。



◆◇◆◇◆◇



 とんとんと軽い足音を立てながら、階段を降りていく。
 そして小さくあくびをしながら廊下を通り過ぎ居間の扉を開けた所で、雛の姿を見つけた甲斐は軽く手を上げて、

「あ、雛。おはよう。もう起きて――」

 朝の挨拶をしようとしたのだが、その瞬間に雛がぴゅーっと逃げて行ってしまったので途中で言葉を止めてほとんど無意識に苦笑いを浮かべてしまう。

「甲斐ぼっちゃま、昨日目を覚ました雛さんに何かしちゃったりしたのですか?」
「あー、いやあ……何かしたってわけじゃないんだけど」

 ただちょっと怖がらせた後泣かせてしまい、それを慰めてから手を握っていただけである。

(……なんかこうやって事実だけを並べると、俺ってとんでもなく悪い男みたいだな……)

 自分の思い浮かべてしまった考えにひくりと頬を引き攣らせ、もう一度苦笑を漏らす甲斐。
 甲斐も自身がおおよそ一般的ではない行動をとっていることは周りの反応などから悟ってはいたのだが、基本的に素で行動しているためにその時に自覚することはできないのである。

「あ、まさか……!」
「え?」
「まさか雛さんが弱っていたのを良い事に、そこにつけこんで押し倒してしまったのでは……!? だめですわよぼっちゃま、夜這い朝這いはわたくしだけにかけてくださいませ!」
「んなわけあるか。ていうか朝這いってなんだよ」
「うみゅ!?」

 突然妙なことを言い出したみ〜ことに、甲斐は呆れ顔でげんこつを落とした。
 そして甲斐は頭から煙を出しているみ〜ことを尻目に、雛の逃げて行ってしまった和室の戸の前に立ち止まると、「んー」と小さく唸りながら腕を組んで考える。
 数瞬の後、甲斐は不意に顔を上げると目の前の戸をノックするように軽く叩き、

「雛」
「な……なにかしら?」
「やっぱり俺たちはまず、お互いの認識のすり合わせをするべきだと思うんだ」

 甲斐は雛が衰弱した根本的な原因やその他の状況について全く知らず、そして雛はどうやって自分が助かったのかを知らないはずだ。そう思ってでてきたのが、今の甲斐の発言だった。

「――ってことで、できれば朝飯を作り終わった頃にはでてきてくれると助かる。まさか部屋越しにそんな話をするわけにも行かねえしな」
「ま、前向きに努力させていただくわ……」

 甲斐は直後に返ってきたどこぞの責任逃れをする政治家のような台詞につい笑みを漏らしながら、

「ああ、そうしてくれ」

 と返事をすると甲斐はキッチンへと向かって歩いていった。

「うう……、さすがに完全に無視されるのは悲しいですわ……。ここは嫁に嫉妬する小姑のごとく嫌味の一つでも言ったほうがよろしいのでございましょうか……」

 肩を落としながらなにやら地面に座り込んで嘆いている、み〜ことをスルーしつつ。






「それで、もう話しても大丈夫か? 雛」

 甲斐は未だ若干頬に赤みを残している雛と差し向かいに座りながら、おもむろに口を開いた。

「ええ」

 そして雛が頷いたのを確認すると、甲斐も頷き返して、

「それじゃあまずは、雛の方から説明を頼む。こっちの話をするには、雛の詳しい事情を知ってからのほうがいいと思うからな」
「……そうね。それなら順を追って、本当に初めから話したほうがいいかしら。……ちょっと長くなると思うけど、大丈夫?」
「ああ、もちろんだ」

 心よく頷いてくれた甲斐の姿を見て、雛は一度目を瞑っていくらか沈黙して頭の中を整理すると、ゆっくりとした口調で語り始めた。

「この日本には、私たち八百万の神々や妖怪、妖精、悪魔などといった……幻想の存在が最後に行き着く所があるの。その場所の名は――」

 ――幻想郷――

 その語り口はまるで村の賢者たる長老の昔語りのように厳かで、それでいて神々の神託のごとく神秘的な、不思議な響きを持っていた。
 そんな雛の声を甲斐はどこか心地よく感じながら、静かに……そしていつものように穏やかに耳を傾けた。



 雛の住んでいた幻想郷と言う所では、忘れ去られ幻となった様々な存在が流れこんでくるという。勿論例外的なものはどこにでもあるものだが、今はそれは割愛する。

 そして雛たち神々も、忘れ去られ消えてしまう前にそこへ流れ着いたそうだ。
 そうせざるを得なくなってしまった原因は、人間の信仰心。科学や文化の発展にともなって、次第に忘れ去られて行ってしまったそれが、神にとっての力の源なのである。

 神は力の塊であり、あるいは精神の生き物だ。よってそれが尽きてしまえば、ただ消え去るのみ。だのにその上幻想郷の外の世界では、もはや『オカルトなんて存在するはずがない』『科学万能のこの時代にそんなものは有り得ない』という人の否定の精神が満ちている。
 それは人の信仰心というものを糧とする神にとって、毒にも等しいもの。
 そのため雛は外にいるだけで力を失っていき、消滅の危機にあったのだという。

 ただし門倉家の中にいればその限りではなく、ほぼ力の消費は抑えられるのだそうだ。それはこの家の中が甲斐と同じく『全てを受け入れる』という精神に満ちているためなのだという。
 そして同時にそれに満ちている甲斐の周囲にいるだけでも、同じ効果は得られるそうだ。もしもそれがなかったら、雛は甲斐が家へと連れてくる前に、消滅してしまっていたはずである。

「……つまり」
「?」

 そこまで語った所で、雛はゆっくりとした動作で立ち上がった。それだけの動作の中にも誇りや気品を伺えられるのは、恐らく雛のその在り方故なのだろう。

「私が今、ここでこうしていられるのは……本当に一から十まで全て、貴方のおかげなの」

 そして雛は甲斐の姿をまっすぐに見つめると、静かに深々と、頭を下げた。

「だから、甲斐。貴方には心から……感謝しているわ。――ありがとうございました。こんな私を、助けてくれて。そして、受け入れてくれて」

 その時に雛の顔に浮かんでいた笑顔はいつものひっそりとした微笑とは違い、まるで父母の下に居る童女のごとく純粋で、そして嬉しそうなものだった。
 そんな雛の笑顔を目にした甲斐はなんだか自分までも嬉しくなってしまって、にかっと明るく笑い返すと、

「いやあ、そんな可愛くて綺麗な笑顔が見られたんだから……雛が元気になってくれてよかったよ、ホント」
「か、かわ……きれいって、からかわないでよ甲斐……」
「からかってなんてないって、本気で言ってんだから。もしかして、そうは見えなかったか?」

 どこか無邪気な動作で首を傾げた甲斐から、雛はすっかりりんごのように赤くなってしまった頬を誤魔化すように顔を背けて、

(見えるから困ってるんじゃない……)

 と内心で項垂れていた。
 神というのは基本的に、人の精神の変化には敏感なのである。故に甲斐の本気がわかってしまった雛は、胸の内から湧いてきたいろんな感情を抑えこむのに必死だった。

「あ、そういえば……」

 とそこでふと、甲斐が何かを思い出したように口を開いた。
 それを話を変える好機と悟った雛は一度こほんと咳払いをして座り直すと、

「な、なにかしら!?」

 と甲斐に聞き返す。
 それに若干気持ちが逸ってしまって勢いがついたのは、仕方のないことであろう。

「ああ、いや……さっきの話を聞いてちょっと、どうして雛がわざわざ明らかに危険な幻想郷の外にでてきたのか、気になっただけなんだけど……」

 その雛の勢いに押されて少し顔をのけぞらせながら、甲斐はふと頭に浮かんでいた疑問を口にした。

「そ、それなら事故でこっちに来ちゃっただけだから、気にしないで頂戴っ」
「あ、ああ、そうなんか……」

 それから少しの間二人の間で沈黙が流れたが、数瞬の後に甲斐も一度咳払いをして気を取り直す。

「えっと、とりあえず話を戻すけど……つまり雛はその、幻想郷ってところに帰られれば問題ないってわけだな?」
「……ええ、その通りよ」

 少しだけ……少しだけあまりにもあっさりと言い切ってしまう甲斐の姿に雛は寂しい物を感じてしまうが、しかし雛の中にも幻想郷へ帰らないという選択肢は存在しない。
 雛はあくまで幻想の存在であり、外の世界ではその身は異物。
 それに『厄神』である自身を捨てるつもりなど、雛には微塵も存在してはいなかった。それはそうであるために己の消滅をも厭わなかった彼女にとって、考えるまでもなく当たり前のことなのである。

 受け入れてもらうということは、依存するという意味ではない。居場所というのは、そこに縛られるものではない。
 雛は自身を甲斐に受け入れてもらったからこそ、その選択をすることだけはできないのである。
 それは感情だけでもなく、理性だけでもない。確かな『自分』であることのできる居場所にいるからこその、ある意味必然とも言える雛の生き方だった。

「それで、そこにはどうやっていけばいいんだ? 協力位はするつもりだけど……何か宛はあるのか?」
「そうね……」

 それっきり雛が考えこんでしまったので、甲斐も同じく沈黙を選んでみ〜ことの出しておいてくれた緑茶をすすることにした。ちなみに当然のごとくみ〜ことは話の間、空気のように同化して甲斐の後ろに控えていたが……それはもはや、言うまでもないことだろう。

「幻想郷は……」

 どうやら考えがまとまったようで、静かな口調で再び話し始めた雛の声を耳にして甲斐が視線を上げると、その視線に同じく目だけで頷いて雛は続きを口にした。

「博麗大結界、そして幻と実体の境界と呼ばれる二つの結界によって遮られているの。これは論理結界といって、物理的なものじゃないから普通に歩いたり飛んだりして移動することはできないわ」

(飛んだり……?)

 雛の口にした飛ぶという単語に反応して甲斐は首を傾げたが、そのまま雛の話の邪魔をしないように口は挟まなかった。

「だから外から幻想郷へ入るにはたぶん、博麗神社に行く必要がある。博麗神社っていうのは、外の世界と幻想郷の狭間にある……簡単に言うと接点のような場所ね。そこまで行けば多分、幻と実体の境界が勝手に私を幻想郷へと引き込んでくれるはずよ」
「なるほどな。理論は今一理解出来ないけど、とりあえずその博麗神社っていう所を見つければ、あとは何とかなるわけだ」
「ええ」
「ふむ……」

 自分の質問に雛が頷いたのを確認すると、甲斐はそのまま顎に手を添えて小さく唸る。

 ここは京都。神社仏閣に詳しい権威なんて恐らく相当数いるだろう。そしてその知識人の力を借りられれば、恐らく簡単にそこを見つけることはできるはずだ。
 しかし甲斐には、そこへ至るまでの手段がない。一介の一大学生が、そうそう関係のない教授クラスの人間に接触を持つのは難しいし、誰がそうであるかもわからない。

 とはいえインターネットなどを利用し、時間をかければ甲斐にも誰がそういったことに詳しいかくらい調べられないこともないが、そこから更に話を聞くところまで持っていくというのは一苦労だろう。
 となると、

(やっぱり教授に頼るのが一番か)

 しかし岡崎教授は別に悪い人間でもないが、理由もなしに人に手を貸してくれるほどお人好しでもない。彼女に頼みごとをするためには、ギブアンドテイク……何か彼女に利益のあるものを提示できなければ駄目なはず。

(俺が当分の間研究の手伝いを今以上にするとかじゃ、無理だろうな……)

 元々甲斐が頭脳面で協力することは難しい。それは別に甲斐の頭が特別に悪いというわけではなくて、むしろ教授が規格外すぎるのだ。そういう訳で普段甲斐が手伝っていることといえば、もっぱら彼女の発明品の試用くらいなのである。

(……って、あれ? 博麗神社? 博麗、博麗……)

 とその時甲斐が突然に、

「……、――あっ」

 と声を上げて、まるで何かを閃いたような表情を浮かべて顔を上げた。

「? どうしたの、甲斐?」
「いや、今ちょっと思い出したことがあったんだけど……」
「思い出したこと?」
「ああ。……なあ、雛」
「何かしら?」

 その訝しげな雛の視線を感じながら、甲斐はニヤリと口角を持ち上げて言い放った。

「その博麗神社っていう所……案外すぐに見つかるかもしれないぞ」



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