時は少々遡り、甲斐と雛が目を覚ました直後のこと。
 み〜ことはその、人とは比べ物にならないほどの優れた聴覚で、二人が起きだしたことに気づいていた。そして直後に、何やら中の様子がおかしいことにも気づく。
 その聴力をもってすれば、例え家のどこにいようとその中での会話を聞き取ることくらい造作も無いが……み〜ことは流石にそれはあまりにマナー違反だろうと考えると、聴覚から一部の条件を満たさないかぎり人の声を遮断するフィルターをかけて、閉じられている和室の戸の前で小さくため息を吐いた。

(……本当なら今すぐにでも、ぼっちゃまのご様子を確認しかったのですが)

 それはもう、今すぐ駆けつけたかった。今すぐにと言うか一刻も早くと言うか刹那の間もかけずと言うか瞬間的にというかむしろコンマゼロ秒で駆けつけたかったが――

(とりあえず健康面での異常はなかったのですから、そこまで心配する必要は……)

 ないのだと己に言い聞かせて、どうにかみ〜ことは一向にそこから動こうとしてくれない自分の足をその場から引き剥がした。
 それに中の様子こそ分からないが、どうせ甲斐がいつも――自分の時も含めて――のように自覚なしに雛を口説き落としているのだろうと考えると、その邪魔をするのはあまりに空気が読めていない気がしてしかたなかった。
 それとついでに、メリーが帰る前の時のことを思い出すと、少しだけ気恥ずかしい思いが湧いてくるのも……その足を前に踏み出さなかった理由に追加しても良かったかも知れない。

「はあ……」

 本当に、あの甲斐のどんな相手にも優しくする性格は考えものであった。男であろうが女であろうが、人間であろうが動物であろうが、それこそ人外にですら気にもとめずに平等に接する。

 それはもはや異常といってもいいほどに、甲斐は誰に対しても平等であった。

 甲斐は、人間である。故に性格もあるし、心もある。だから完全な不干渉をとることもなく、確かな自分をもって眼の前で起こったことに対し自分なりに行動する。しかしその結果に関しては、例えどのようなものになったとしても受け入れるのだ。
 ただ受け入れて、全てを否定しない。それは時に厳しく、残酷でさえあるものだった。

 甲斐が誰にでも優しく接するのは、偶然甲斐の性格が優しいものに育ったから。もしもそうではなかったら、甲斐は一体どんな人間になっていたのだろう。

 ……とはいえそのような仮定は、何の意味もないことなのである。

「さあ、いつまでもこうしているわけにも参りませんし、まずはご飯の支度をすませてしまいましょう」

 み〜ことは一度頭を振ると思考を切り替えて小さくそう呟き、そのままいつもより少しだけ重い足取りで料理を作るべくキッチンへと向かった。



◇◆◇◆◇◆



 実はこの時代に、きちんと材料を調理して一から料理を作る人間というのは少数派であった。それどころか一般的な家庭では、大抵の場合簡易キッチン程度のものしか家についていないというのが普通である。
 では外食をしない人間はどのようにして食事の用意をしているのかというと、殆どの料理をレンジで温めれば作ることができるよう、店頭で販売されているのだ。現代において食事というのは、二〇世紀後半で言うところのレトルト食品が主流なのである。

 しかし甲斐は母親が生前食事にこだわっていて自分で必ず料理をしていたためにその感覚が抜けず、そのため一人暮らしになってからも自分で料理をしており今ではかなりの腕前になっていた。
 そしてみ〜ことももちろんレトルト(厳密には違うが)などという手抜き料理を甲斐に出すはずもないので、結果として門倉家のキッチンは甲斐が作ろうとみ〜ことが作ろうと常にフル稼働というのが平常運転なのである。

 ……しかしだからといって、いくら何でも今のように水道、レンジ、調理器具、コンロ、包丁などがほとんど同時にトンデモない勢いで動き回っている様子は、流石に異常な光景であった。

 そのため雛が寝静まって、自然とその手から力が抜けたのを見計らって和室から出てきた甲斐は、その瞬間に思わずぽかんと口を開いて固まってしまう。

「……なあ、み〜こと?」
「……」
「おーい?」

 しかも甲斐が呼びかけたのにみ〜ことが反応しないなどと、これは本当に珍しいことである。一体どうしたのかと思って甲斐は対面キッチン越しに目にも留まらぬ素早い動きで料理(?)をしているみ〜ことの顔を覗き込んだ。
 しかしみ〜ことはそれから逃げるようにぷいっと顔を背けると、更に料理という名の大道芸に没頭していく。

「あー、み〜ことお前……もしかして、拗ねてるのか?」
「……そんなことはございませんとも。例えものすごく心配していたのに何時間もほっとかれようと、メイドとは常に主人にお仕えするのが責務ですから、ええ。――ああ、滅私奉公。なんと素晴らしい言葉なのでございましょうか」

(ああ、こりゃ完全に拗ねちまってるな……)

 一瞬だけ動きを止めた後むすりと口を開いてすぐにまた作業を再開したみ〜ことを見て、甲斐は「ははは」と乾いた笑いを上げて顔を引き攣らせた。
 そしてこのままだと家にあった食材という食材が全て調理されて、しかもそのほとんどを一人で平らげなくてはならなくなるような未来が待っていることを悟ると、甲斐はなんとかみ〜ことの機嫌を取るべく頭を捻らせる。
 が、そんなものが都合よくぱっと思い浮かぶはずもなく、結局甲斐は本人に聞くことにした。

「えっと……すまん、み〜こと。別にほっといてたってわけじゃないけど、あんな事があったのに二時間も音沙汰なしだったのは謝るからさ、機嫌直してくれよ。……そのー、あれだ。なんだったらなんか一つくらい、埋め合わせに言うこと聞くからさ」

 なかなか和室から動けなかったのは甲斐のせいではないが、甲斐には手を使わずともかけることのできる電話がある。それを使って会話だけでもするくらいのことは出来たのだから、その点に関しては言い訳のしようもないだろう。
 そう思って素直に反省した甲斐が小さく頭を下げると、み〜ことはピタリと動きを止めてゆっくりとした動作でこちらを見た。

「……それは本当でございますか?」
「おう、もちろんだ。今ならだいたいのことは聞くぞ?」
「それなら……」

 そうしてキッチンから出てきたみ〜ことが甲斐に要求したのは、ぴっと部屋の真中にあるソファーを指さして「まずはそちらに座って下さいませ」というものだった。
 その内容に首をかしげながらも、おとなしく指示通り甲斐はソファーへと座り込む。するとみ〜ことは、すぐに無言でどかりとその膝の上に乗っかってきた。

「み〜こと?」

 直後に甲斐は訝しげに名前を呼ぶが、それには答えずみ〜ことは、

「手を」

 と短く口にして自分の腕を体の内側に入れた。
 それを見た甲斐は「ああ」と合点が行ったように呟くと、み〜ことを抱きしめるようにして腕を前に回す。
 そしてすっぽりと腕の中に収まったみ〜ことの様子を見て内心で、

(まるで猫みたいなやつだ)

 などと思いながらそっと苦笑した。

「甲斐ぼっちゃまが……」
「ん?」
「甲斐ぼっちゃまが悪いわけではないのは、分かっておりました。ですが……」

 初めみ〜ことは、料理をしながらも時々そわそわと心配で和室の前を右往左往したり、たまに恥ずかしさに煩悶としながら悶々と過ごしていた。しかしそれから三〇分経っても、一時間経っても一向に甲斐は部屋から出てこなかったのである。もう雛と会話しているわけでもないというのにだ。
 それどころか、声の一つもかけてくれないのである。み〜ことの耳ならば、小声で名前を呼んでくれればそれだけで十分聞こえるというのに。
 甲斐の健康状態は異常があった時のみわかるようになっているから、何かがあったというわけではない。
 つまりきっと甲斐は自分のことを忘れてしまっているのだろうと、み〜ことはそう解釈した。
 だから、つい拗ねてしまったのだ。

 実際には、動けなかったのは雛がずっと手を離さなかったからというのが理由だったし、忘れたどころか甲斐はこの後み〜こととメリーについてどうフォローしようかなどと考えていて、別に直接移動しなくても会話する手段があることを失念していただけなのだが。

 そして甲斐は若干頬を紅潮させながら顔を俯けるみ〜ことの様子を見て、ついついこらえきれずくくっと笑い声を漏らしてしまう。
 それを聞いたみ〜ことはすぐにむっと唇をとがらせると、

「……何がおかしいのですか。わたくしは怒っちゃったりしちゃっているのですよ、甲斐ぼっちゃま」

 と抗議してきた。
 しかし甲斐は堪えた様子を見せず、腕に力を入れてみ〜ことの体をぎゅっと抱きしめるとニカッと笑い、

「お前はほんっとに可愛いやつだなあ、み〜こと」

 と耳元で囁いた。

「ふみゃ!? か、からかわないでくだしゃんせ! いきなりなんでございますのことよ!?」
「み〜ことみ〜こと。口調がいつにも増してわけわからんことになってるぞ?」

 その時の甲斐の眼差しは、まさに可愛い妹を見守っている兄のように優しいものだった。

「そ、それは甲斐ぼっちゃまが……! ――……っ、もう知りません!」

 そしてみ〜ことはぷいっと顔を背けると、すっかり黙りこんでしまう。しかしそれでも膝の上からどこうとはしなくて、それがついつい可愛くなってしまった甲斐はもう一度明るい笑顔を見せると無言でぽんとその頭を撫でた。



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