人を愛し、生命を愛して、生ける者の不幸を避けるために生き続けた神、鍵山雛。
 しかし彼女のその生は、まさに愛したその者たちに疎まれ続けるというものだった。

 それを辛いと思ったことはない。己の胸には、常にかつての想いがあった。
 それを悲しいことだと思ったことはない。営みを続ける彼らの、元気な姿が嬉しかったから。
 それを恨んだことなんてない。全ては己が望んだことだから。

 だけど……寂しく思うことだけは、止めることはできなかった。

 長い時の中で慣れ、心の奥に秘め殆ど忘れてしまっていたその想い。それは与えられた人の温もりと共に、強く思い出してしまった想いだった。

 それはなんと、残酷なことなのか。

 決して誰の隣にも、己の居場所は存在しない。
 それは確かな事実であると同時に、もはや自ら望んだことでもあったのだ。

 初めからそんなものは有り得ないと思い込んでいれば、求めることはしなかった。そうすれば、耐えるのは簡単なことだったから。

 しかしもう、雛は知ってしまったのだ。
 誰かの隣にいる温かさを。誰かと共にいる楽しさを。

 だから雛は、神という永い生を……これから先、心の奥で"誰か"を求めながら、自ら遠ざけて生きていかなければならないのだ。

 "誰か"と一緒にいたい。"誰か"の隣に居場所が欲しい。

 全てを肯定してもらいたいわけではない。だけど、許容して欲しかった。自分がここに存在するということを、否定しないで欲しかった。
 絶対に離れないで欲しいとは思わない。だけど寂しくなった時に伸ばしたその手を、払わないでいて欲しいとは思ってしまう。

 特別なことはいらない。"誰か"に受け入れて欲しかった。神ではなく、『厄神』でもない……鍵山雛という"自分"を。

 ――そしてだからこそ今のこの感覚は、耐えようもなく離れがたかった。

 己の全身を包み込む、柔らかな誰かの温もり。それがあまりにも優しくて優しくて、雛の胸の内には思わず泣き出してしまいそうな、そんな気持ちがこみ上げてくる。
 頭に浮かぶのは、自分は今受け入れられているのだという言葉。身の内に流れ込む誰かの心が、そう告げてくれていた。

 この感覚に、いつまでもどこまでも、浸っていたかった。しかし、明けない夜がないように。覚めない夢がないように。終わらない世界がないように。
 雛の意識はゆっくりと、温かい幻想ではなく冷たい現実という名の"否定"の中に、戻っていってしまうのだ。


 だれか わたしのてをとって


 それが夢のような微睡みの世界の中で最後に想った……何の虚飾もない、雛の素直な心だった。








 薄ぼんやりと、目が覚める。
 そしてまず最初に、目が覚めたということに疑問を持った。『自分は消えたはずだ』という考えが、脳裏に浮かんでくる。

 しかし、直後に雛はびくりと身動ぎすると、ようやく自身の状態を理解して驚きに固まってしまった。
 見覚えのある部屋の中で寝ている自分。何故か隣で寝ている甲斐と、その手の平に握られている己の手。
 まるで昨日の、焼き直しのような状況だった。違うのは上に毛布をかけて横になっている甲斐の姿と、その脇に転がっている扇くらい。
 それら全てを認識した雛は、先ほどまでの感覚が夢ではなかったのだと理解すると、その瞬間に何か……体の芯の部分に、寒気のような震えを感じた。

 元々雛の纏う厄は、幻想郷ではなんの力も持たない人間ですら見えてしまうほどのものである。それも今は、とある事情により厄の量が普段以上に膨れ上がっていた。
 故にありえない話ではあるが、仮にその全てが一度に誰かに渡ってしまうなことがあったとしたら……それは最早不幸という曖昧なものであるにもかかわらず、容易に命を奪い去ってしまいかねないほどのモノだったのだ。

 それはまるで、災厄のごとく。

 だから雛は、心の底から震えを感じた。
 それは、恐怖だったのかも知れない。今まで誰にも受け入れられたことがなかったからこその、初めて得ることができたかもしれないそれを自分のせいで失ってしまうという恐怖。

 そして雛はその初めて感じた恐怖という名の感情に従って、ひくりとしゃくりをあげるように息を吸い込み布団を払いのけると、まるで甲斐から逃げるように部屋の端へと飛び出した。

「んわっ、なんだ!?」

 するとその拍子に、甲斐も頓狂な声を上げながら飛び起きる。そして部屋の隅で怯えるようにしてこちらを見ている雛の姿を見て、きょとんと目を丸くした。

「……あ、雛? 何だ、今のはアンタか。何事かと思った……。元気になったみたいなのは嬉しいけど、そんな所で何やってんだ?」

 それからすぐに甲斐が雛に近づこうと足を一歩前に踏み出した所で、

「だ……ダメ!」

 と大きな制止の声が飛んできた。
 それを聞いた瞬間甲斐はビクリと肩を跳ねさせ動きを止めると、「雛……?」と訝しげにその名を呟く。

「わ、私に近づかないで。早く……早くここから離れないと。甲斐、お願いだからそこをどいて!」

 その時の雛の姿は、甲斐の目にはまるで何かに怯える子どものように見えた。

「どうして……なにを、そんなに怖がってるんだ、雛? また消えそうになっちまうのが怖い……ってわけでは、ないんだよな?」

 それならば、そもそもこのような事態にはならなかったのだろうからそれはわかる。しかし、ならばいったい何に雛は恐怖しているのか。

「私は……」

 そんな甲斐の疑問の声に、雛は沈黙を返して自身の内に埋没していった。

(私がなにを、恐れているのか……)

 そうしている内に次第に自分を取り戻していった雛は、やがて以前のように超然とした雰囲気を纏い……そしてどこか厳かな口調で、甲斐に向けて真っ直ぐに言葉を紡ぐ。

「私は厄神、鍵山雛。人の不幸への嘆きの想いより生まれた、幸福を妨げる厄を落とし不幸を遠ざける神。故に私が恐れるのは己の消滅にあらず。"誰か"に振りかかる、災厄を恐れるのみ」

 その声はまるで、森の中で響く葉擦れの漣のごとく揺ぎ無い……あるいは最高級のガラス細工が奏でる鈴音のごとく透き通った、神秘的な響きを以て甲斐の耳朶を震わせた。
 その言葉を聞いた瞬間甲斐は、人とは違う精神性を持った神という存在を改めて認識し、

「なるほどな……」

 と小さく溜息を吐いて呟きを漏らした。
 そして甲斐はもう一度顔を上げると、静かに口を開いて雛に自分の言葉を告げる。

「……雛。俺はアンタがここを離れたいっていうんなら、それを否定する気はない。雛の心は雛のものだ。だからそれを否定する権利は俺にはないし、初めからそのつもりもない」
「あ……」

 その時雛の花弁のように秘めやかな唇から零れたのは、安堵かそれとも別の感情か。それが何だったのかは、ついぞ雛自身にも分からなかった。
 何故ならそれは、甲斐がその次に口にした言葉が、雛にとってあまりにも予想外だったから。

「だけど、悪いな――」

 そして甲斐は一語一語言葉を区切りながら……静かな足取りで雛の目の前まで歩み寄り、

「――俺はもう、絶対に雛を見捨ててなんてやらないんだって決めちまったんだ」

 どこまでも真っ直ぐな瞳で、立ち尽くす雛の瞳を見つめながら言い切った。

「甲斐、貴方……」

 その言葉を聞いた瞬間、雛は思わず口に手を当て絶句する。
 甲斐のその瞳はたとえ言葉にしなくとも、絶対に同じ自殺まがいの事はもうさせないと語っていた。それは雛の気持ちを否定するのではなく……受け入れた上で、それでも自分の主張を曲げる気がないのだという意味なのだろう。

「どうして……、どうしてよっ。私がここにいたら、貴方は不幸になるかも知れないのよ!? そんな疫病神を助けたって、貴方に得なんて一つもないのに!」
「知るかよ、そんなの」

 そして雛は必死になって甲斐を説得しようと声を荒げたが、しかし甲斐は軽く笑顔を浮かべてこともなげにそう答えた後……その笑顔の質を見るものが思わずほっとしてしまうような温かいものへと変化させて、

「昨日も言っただろ? 俺のモットーは『去る者追わず、来るもの拒まず』なんだって。だから俺は、神様だろうが厄だろうが不幸だろうが……相手がどんなやつだって、来るんだったら受け入れるんだよ」

 困惑する雛をまるであやすかのように、ぽんと優しくその頭を撫でた。

「それに、得ならあるさ。俺は雛が生きててくれることの方が、嬉しいからな」

 そして最後に甲斐はそのままの笑顔でそんなことを口にすると、そっと目を細めて本当に嬉しそうに笑みを深めるのだ。
 その表情を見て甲斐の言葉がすべて本気なのだと理解した瞬間に、雛はくしゃりと顔を歪めてその大きな瞳に思わず涙を貯めてしまう。

「そんなこと……そんなこと言われたら、もう逃げられないじゃない。ばかぁ……」

 その雛の今にも泣き出してしまいそうな表情を見て、甲斐は少しだけ笑顔に苦笑の色を混ぜて「悪い悪い」と小さく謝罪の言葉を呟くと、

「ま、今のままじゃとてもじゃないけど放っておけないから……俺に追い掛け回されるのが嫌だったら、早く外に行っても無事でいられる方法でも見つけるか、ちゃんとした行く宛を見つけるこったな」

 とどこか冗談めかして言いながら、雛の目尻に浮いた涙を空いている手でそっと拭った。

「謝らないでよ、もう……」

 雛は心の中がいろんな気持ちでいっぱいで、分けがわからなくなってしまいそうだった。嬉しくて、切なくて、温かくて……もうこれ以上甲斐を拒絶することは、雛には出来そうもなかった。

 こんなに誰かと接したのは、初めてだった。
 こんなに誰かに心配してもらったのは、初めてだった。
 こんなに誰かが自分と真っ直ぐに向き合ってくれたのは、初めてだった。

 そして雛は気づけばその宝石のような瞳からポロポロと涙を零しながら……いつまでもいつまでも、頭を撫でる甲斐のその温かい手を受け入れていた。








 雛は確かに甲斐のおかげで力を取り戻していたが、しかし失った体力はそれとは別のもの。だから甲斐は色々な説明を後回しにすることにして、一先ず雛にもう一度布団で眠るようにと促した。
 すると布団に潜り込んだ雛が、顔だけを出してどこか恥ずかしそうに、

「一つだけ、お願いがあるの。聞いてくれる?」

 と話しかけてきたので、甲斐は首をかしげて「お願い?」と聞き返した。

「あの……その、ね。もう一度……私の手を、握ってくれない? ずっとじゃなくて、私が眠るまででいいから……」

 その言葉に甲斐がキョトンとした顔で「え?」と声を漏らすと、雛は不安げな瞳で甲斐を見つめて確認するように、

「だめ、かしら……?」

 とか細い声で口にした。

「いや。別にそれくらい、構わないよ」

 それを聞いた甲斐はすぐに首を横に振って小さく微笑を浮かべると、そう言って雛の手を取り柔らかく握りしめる。
 その瞬間、雛の脳裏に『だれか わたしのてをとって』という言葉がふっと浮かび上がって、そしてすぐに消えていった。

(ここに、居る。私の手を払わないでいてくれる、"誰か"が)

 そうして雛は安心したようにほっと吐息を漏らして目を閉じると、ぎゅっと甲斐の手を握り返して優しい微睡みの中へと落ちていった。



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