外では太陽の日差しがジリジリと突き刺さり、その日の気温も最高潮へと達しようとしていた昼下がりの午後。
 メリーはあの後甲斐はどうしただろうかと頭の片隅で気にしながらも、そんな悪夢じみた暑さとはまるで無縁な"環境調整"の行き届いた講義室の中で講師の話を何気なく聞き流していた。

 そもそもメリーがこの大学で専攻している分野は、相対性精神学という学問。その相対性精神学というのは、精神の絶対的基準点を設定し、そこから人の心の動きをプラスマイナスいずれかで数値化するというのが基本理論の学問なのである。
 しかし今ホログラム越しに講師が熱弁を振るっているのは、古典文学に宗教的なアプローチをするという専攻とは全く真逆に位置する興味のないものだったので、メリーは適当に流しながら単位が取れる程度に要点を押さえておくだけに留めていた。

 とそんな風に、メリーが要領よく手抜きをしながら講義を受けていると、その時突然――

『マエリベリー、いきなりで悪いが聞いてくれ!』
「わきゃっ!?」

 ――メリーの持ってきていた手提げ鞄の中から、講義室中に響き渡るような甲斐の大声が聞こえてきて、メリーは椅子から転げ落ちそうになりながら驚いて立ち上がった。
 ちなみに何故そのような大音量になってしまっているのかというと、あの電話を持っていないメリーにはあずかり知らぬ所ではあるが、実は緊急コール機能を使って通話をすると音量の増幅もされてしまう仕様になっているからである。

「な、なに? なんでっ? なにごとなの!?」

 そうしてメリーが頭の上に《!》と《?》を量産しながら講義室中の視線を一身に集めていると、その時慌てて拾いそこね取り落としてしまった鞄から、もう一度大音量で甲斐の声が流れ始めた。

『すまん! 急なことで混乱するとは思うけど……後で土下座でも何でもいくらでもするから、今は何も言わずに大至急うちまで来てくれ! お願いだマエリベリー……頼む!』

 メリーが未だかつて聞いたことのないような、甲斐のあまりに余裕のない必死の声色。それを聞いた瞬間メリーはそれまで見せていた動揺を瞬時に収めると、まるで仮面を被ったかのような冷静な表情に戻り同じく平静な落ち着いた声で、

「――分かったわ。今すぐ講義室から出るから少し待って。それと電話、一旦切るわね。どういうわけか知らないけど、門倉くんからの通話音量がなんだかおかしなことになってるから」
『ぁっ……、――』

 メリーが文句も言わずに了承してくれたことに、お礼の言葉でも口にしようとしたのだろう。甲斐は何事かを言いかけて、しかしすぐに状況を思い出しその言葉を咄嗟に飲み込んだ。
 そんな甲斐の様子にもメリーは何も語ることなく、素早い動作で腰をかがめて床に落ちていた鞄を拾い上げると、

「取り敢えず、ここを出たら移動しながらかけ直します。それではまた」

 短くそう口にして颯爽と身を翻し出入り口へと足を向け、相手の反応を待つことなくすげなく通話を切って歩き始めた。



 コツコツと、硬い靴底が地面を叩く。メリーはその自分の足音を耳にしながら、先を急ぐべく更にリズムを早めて視線を上げた。そして歩きながら携帯端末で事前に大学の門前に呼んでおいたタクシーに、まるで無駄のない滑らかな動作で乗り込むと、

「行き先は電話ですぐに確認しますので、急いで出していただけますか?」

 と運転手の瞳を覗き込みながら、まるで一刻の猶予もないのだと言わんばかりの硬い口調で言葉を告げる。

「う、承りました」

 すると運転手はどこか気圧された様子で即座に車を発進させたので、メリーはそれを確認すると手早く短縮ダイヤルを押して甲斐に電話をかけ直した。
 直後にメリーの耳に届いた呼び出し音が、ほとんど鳴るか鳴らないかという刹那の間で甲斐の応答を示すように途切れる。
 それからすぐに、メリーは甲斐が口を開きかけたその間隙を狙って鋭い口調で、

「門倉くん。まずは状況の説明の前に、貴方の家の住所を教えて。わたしは今タクシーに乗ってるから、それを先に運転手さんに伝えないといけないの」

 これまでのやり取りは全て、お互いに言葉は少なく説明不足。しかしどうやら状況は理解出来ないまでも、あまり余裕がない様子なのは察することができる。なのでメリーは甲斐なら問題なく対応できると信頼を込めて、余分は全て締め出し必要最低限なことしか口にしなかった。
 甲斐は実際、その言葉に電話先で一瞬驚きの気配を見せたが、しかしさほどの間を開けずに立ち直るとメリーの予想道理すぐに無駄を省いて必要事項のみを伝えてくる。

『南東京区鶏ケ瀬平町〇〇だ』

 そしてメリーはそれを全て聞き終えた後、運転手に門倉家の住所を教えるともう一度携帯端末を耳に当てて電話に戻った。

「それじゃあそろそろ、そっちの状況を教えてくれる? どうしてわたしを呼んだのか。貴方はわたしに一体何をして欲しいのか。そのために、必要なことはなんなのか。全て簡潔かつ正確に……お願いね、門倉くん?」

 その口元に浮かぶのは、いつものごとく余裕の笑み。それは自信の現れなのか、それとも強さの現れなのか。それを知る者はただ一人、マエリベリー・ハーンその人しか存在しないのである。



◇◆◇◆◇◆



「……」

 甲斐は今、先日のように和室に寝かせている雛の姿を硬い表情でじっと観察しているメリーの様子を、固唾を飲んで見守っていた。

「これは……。――……」

 そんな視線の先で小さくつぶやきを漏らし、再び沈黙してしまったメリーの答えを促すように甲斐は、

「マエリベリー」

 と静かな声で彼女の名を呼んだ。

「……わたしの見える境界のことは、確か以前にも少し話したことがあったはずよね?」

 メリーはそう言って雛からゆっくりと視線を外すと、そのまま甲斐の方へと向き直って静かな口調で自身の能力によって見える境界について語り始めた。

「人は……それに"全て"は"何か"と境があるからこそ、存在できる。自分と他人の境界。身体と精神の境界。肉体と魂の境界。生と死の境界。――そして、世界と自分との境界。だけどこの女の子は、その中でも一番大事な……世界との境界がもうほとんど、見えなくなってしまいそうなほどに薄れてるみたいなの」

 そこでメリーは一息つくと、わずかに表情を暗くして視線を落とした。
 その様子を見てメリーが言葉にしようとしていた続きを半ば察しながらも、甲斐は視線だけで頷いて無言で先を促す。

「――境界というのは、隔たりがあるからこそ生まれるもの。世界との境界がなくなってきているということはつまり、この女の子が世界と同化して消えかけてしまっているということなのでしょう。……多分、単純にこの娘は自分の存在を維持するために必要な何かが底を尽きかけているから、こんな状態になってしまってるんじゃないかというのがわたしの予想よ。この家の中ではその早さが緩やかになっているようだけど……どちらにせよこのままじゃ、恐らく時間の問題でしょうね」

 それが対処可能であるにしては、あまりにも曖昧なその物言い。
 その事実が何を意味するのかを頭の冷静な部分で理解してしまった甲斐は、直後にまるで底なし沼にでも嵌ってしまったかのようなぬかるんだ気持ちで濁りのないメリーの透き通った瞳を見返した。
 その視線を受けたメリーはもう一度静かに頷いて、甲斐に一切の誤魔化しを混ぜずに説明を続ける。

「それがなんなのか……そしてそれをどうすれば、この娘に補充できるのか。それはわたしにも、分からないわ。……正直に言ってしまえば、畑違いなの。例え秘封倶楽部が本物のオカルトサークルだとは言っても、わたしたちがいつも見て回っていたのは結界の境界だから。仮にここに蓮子が居たとしても、わたしと同じで何も出来なかったと思う」
「……そう、か」

 もう他に、オカルトに対処できそうな誰かの宛は存在しない。そしてそれはおそらく、メリーも同じなのだろう。もしもそれがあるのなら、とうの昔に彼女は紹介してくれたはずだから。

 それに、そもそもの話。
 雛に残された時間は、最早それ程長くはないであろうことはオカルトに造詣の深くない甲斐ですら理解できていた。
 即ち――ここから更にオカルトに関わりのある"誰か"を探して赴いて、そこから事情を説明して移動してもらうなどという悠長なことを待つだけの時間は存在していないのである。
 よってメリーに事態が対処不可能であった以上、必然……既に結果は出たに等しかった。

 それは、欠片の誤魔化しも許してはくれない確かな事実。
 甲斐が感情の部分でそれを納得せざるとも、『全てを受け入れる』という過去より培った甲斐の"人生"がそこから目を反らすことを許してはくれなかった。

「積み、か」

 そして甲斐は、覚悟を決めた。

 たとえ己がどうなってしまおうとも、彼女を必ず最期まで看取る覚悟を――
 そしてそこに己に対するどのような影響が存在しようとも、絶対にそこから目を反らさず受け入れる覚悟を決めた。

「マエリベリー。こんな急な頼みを聞いてくれてありがとうな。ここからはもう――」

 直後に甲斐はここまでしてくれたメリーに何かあっては困るので、礼を言って家から離れてもらおうと落ち着いた口調で話しかけたのだが……

 ――その瞬間、部屋の中の空気が変質した。

 緊張した、というのともまた少し違う。決して張り詰めているわけではないが、しかし弛まず緩みを無くした不思議な空気。
 その原因は、甲斐の眼前にいる一人の人物。その一瞬前まではメリーであったはずの、姿は変わらずとも全てが変わってしまった彼女だった。

「甲斐様、お下がりください」

 甲斐がそれらを認識したのとほぼ同時、それまで数歩下がった位置で全てを見守っていたみ〜ことが、目にも留まらぬ素早い――もとい、高速の動きで甲斐を背中に庇う。
 その表情に浮かぶのは、"極大"の警戒心。"最高"ですら生温い。目の前に存在するのは危険という言葉すら既に通り過ぎてしまった『ナニカ』なのだと、み〜ことの五感センサーではないどこかが喚き散らしていた。

「――門倉、甲斐」

 しかし、警戒心を剥き出しにして睨みつけるみ〜ことを無視して、彼女はまるで遥か遠い霞の先から話しているかのような不思議な声色で甲斐に話しかけてくる。

「貴方は、その厄神を救いたい?」

 その問いを聞いた瞬間甲斐は、すぐにみ〜ことの肩に手をおいてその横に歩み出た。

「……できるものなら、今すぐにでも」
「甲斐様!」
「大丈夫だ、み〜こと」

 彼女の『ナニカ』はみ〜ことと同じく肌で感じていたが、なぜかそれでも甲斐の勘は、彼女を信用は出来ずとも信頼はしていいと告げていた。

「俺は、何をすればいい? 教えてくれ」
「これを……貴方に、お渡ししましょう。これからしていただくことに、必要な物ですので」

 そう言って彼女が差し出したのは、一つの扇。そんな物は先程まで持っていなかったはずなのに、彼女はまるで宙より取り出したかのようにそれを甲斐に手渡した。

「それを手にしたまま貴方がそちらの厄神に触れられれば、自動でその扇が貴方の霊気を神力へと変えて彼女にそれが流れこむようになっております。そうすれば、その厄神は力を取り戻しいずれ目を覚ますでしょう」

 さらに彼女は、甲斐に忠告するように最後に言葉を付け足す。

「ですが、お気をつけを。霊気とは即ち生気。いわば命に等しいモノ。それを全て失えば、同じく命も貴方の指の隙間から零れ落ちることでしょう」
「なっ……!? 甲斐様、そのようなことはおやめ下さい! そもそも本当にそれで雛さんが目を覚まされるのかどうか……この方が、本当のことを言われている保証はないのですよ! わたくしには到底信用なりませんわっ」

 そういうみ〜ことの気持ちも理解できる。元々メリーには何を考えているのかわからないような所があったが、今の『彼女』はまるでその美貌から表情が抜け落ちてしまったかのように無表情で、普段のそれを通り越して考えが読めないどころかもはや妖しいといっても過言ではなかったからだ。
 しかしそれでも甲斐は静かに首を横に振ってみ〜ことを制すると、確認のために彼女に再び話しかけ先を急ぐ。それは当然雛に時間が残されていないであろうことも理由としてあったが、それだけではなく何故か目の前のこの女性に余裕が無いように見えたからだった。

「それをしたら、俺はどうなる?」
「勿論、命を捧げろとは申しません。流石にそれは過分故。ですが暫くの間動けなくなってしまうような大きな疲労と、それに恐らく気絶されてしまわれるくらいの覚悟は、していただく必要があるでしょう」

 彼女の言葉を聞いた甲斐は少し安心したようにほっと息を吐くと、

「そうか。その程度ならお安い御用だ。このままできることがあるのに何もしないで雛に死なれちまうなんて、真っ平御免だからな」

 と言って未だ納得行かなそうにこちらを見ているみ〜ことに顔を向ける。

「そんな心配そうな顔をするなって。そもそもこれで俺を騙したってこいつに得る物なんて何も無いんだから、そうする理由なんてないはずだろ? こいつがなんなのかは知らねえけど、俺を騙すにしちゃあ意味が分からなすぎる。どちらかと言うとこいつは、雛の関係者なんだろうさ」
「この際それが本当かどうかは関係ありませんわ!」

 それを聞いたみ〜ことは強い否定の言葉を返すと、甲斐に詰め寄り薄く瞳に涙を溜めながら、

「わたくしが心配なのは、甲斐様のお体の方でございます! それに甲斐様にだって、今のハーンさんが普通では無いことくらい分かっているはずです……!」 

 と捲し立てる。
 そして最後にまるで穴の開いた風船のように急にその勢いを失速させると、今にも貯めた涙を零しそうになりながら……ひくりと喉を震わて、本当に心の底から悲しそうな声を絞り出した。

「……万が一、万が一にでも甲斐様が死んでしまうようなことがあったら……わたくしは、どうすれば良いのですか……」
「み〜こと……」

 甲斐は自分の目の前で肩を震わせるみ〜ことの様子に困ったように眉尻を下げた後、その小さな背中に腕を回してとんとんとまるで子どもをあやすようにそっと撫でた。

「ごめんな。お前のそんな悲しそうな顔は見たくなかったけど……それでもやっぱり、俺は止めるわけには行かないんだよ。……そうじゃなきゃ俺は、受け入れられないから。何もしないで誰かを見殺しにした自分を、受け入れられなくなるから……」

 そしてこちらを見上げるみ〜ことの視線を感じながら、甲斐は目を細めてみ〜ことに語りかける。

「だから、頼むよみ〜こと。心配するなとは言わないけど……せめて、信じて見守っていてくれないか。俺が自分を、許せなくならないために。俺が……俺である為に」
「……」

 するとみ〜ことは返事の代わりに暫く沈黙した後、か細い声を出してもう一度口を開いた。

「せめて……」
「うん?」
「せめて、約束して下さい。絶対に、死んだりしないって。甲斐様は絶対に、わたくしの前からいなくなったりしないんだって、約束して下さい。それが信じる条件……です」

 甲斐はまるで懇願するように、上目遣いで瞳を覗き込んできたみ〜ことの頭をぽんと撫でると穏やかに微笑んで、

「ああ、分かった。約束するよ」

 と囁いた。
 するとまるでそれを待っていたかのようなタイミングで、

「どうやら話が纏まったご様子」

 と彼女が口を挟んだので、み〜ことはそれに気づくと慌てて甲斐から体を離した。
 そんなみ〜ことを尻目に、彼女はそれまでと変わらぬ無表情のままにまるで感情の読めない平坦な声で、

「それではワタクシはそろそろお暇させて頂きますので、この場は貴方にお任せいたしますわ。またお会いできる日が来ることを楽しみにしております、門倉甲斐。――では、御機嫌よう」

 と言葉にすると上品にお辞儀をして踵を返した。
 甲斐は彼女の姿が見えなくなってしまう前に、慌ててその背中に声をかける。

「待ってくれ。その前に、マエリベリーはどうなったんだ? 大丈夫なのか?」

 すると彼女は背中を見せたまま一度足を止めて、

「ご心配には及びません。ワタクシは彼女の……もう一つの人格のようなもの。今は意識がありませんが、数分後にはワタクシではなく元の彼女に戻っていることでしょう」
「そうなのか。……色々ありがとな。アンタには、感謝してもしきれないよ。また会えるかは分からないけど……元気でな」
「――いいえ。こちらこそ……ありがとう、ございました」

 そして何故か彼女は去り際に、甲斐に聞こえるか聞こえないか分からないくらいの小さな声でお礼の言葉を口にして去っていった。





「……さて」

 彼女の姿が完全に見えなくなると、甲斐は渡された扇をしっかりと右手に持ちなおして布団の上で苦しそうに寝ている雛の横に片膝をついて屈み込む。

「ぼっちゃま……」

 するといつもの呼び方に戻ったみ〜ことが不安げな視線を送ってきたので、甲斐は大丈夫だと小さく笑いかけると、胸のあたりで布団の上に乗せられている雛の手に視線を落とした。

「あ、う……」

 それと同時に小さく呻き声を漏らした雛の苦しそうな顔をもう一度見つめると、甲斐は意を決したようにその手を空いていた手で握りしめる。

「ぐっ……!」

 そしてその瞬間、甲斐の意識は吸い込まれるようにして闇の中へと落ちていった。



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