「ここは……」

 どこをどう歩いたのか全く覚えていなかったが、雛はとうとう探し求めていた『ある程度広さのある土地』を見つけて力なく胸を撫で下ろした。

(……人も殆どいないようだし、ここなら……)

 そう思ったと同時に、ガシャンと背後から音がした。そして首を回して後ろを見ると、そこにはフェンスの姿。雛は安心して気が抜けてしまった瞬間に自分でも気づかない内に倒れこみ、背中からフェンスにもたれかかってしまっていたのだ。

(ああ……どうにか、間に合った。後は厄を薄めて世界に還しながら、消えるだけ)

 元々雛は、人妖に滞った『厄』を払い自分の周囲に溜め込む能力しか持っていなかった。よって溜め込んだ『厄』を更に別の神へと譲渡して還元してもらっていたのだが、外の世界ではそれをすることは当然不可能。そのため今の雛にできることは、できるだけ生物に影響が無いよう『厄』を大気のように薄く伸ばして、それを拡散させることだけだった。

「あ……」

 とその時、雛の薄く小さな唇からかすかなうめき声が漏れる。これまで気力だけでもたせていた意識が、とうとう限界を迎えて潰えようとしていたのだ。

(まだ……まだ、気を失う訳には……)

 雛は魂を振り絞ってどうにか意識を保とうとしていたが……しかしその最後の抵抗も虚しく、彼女の華奢な体はズルリと力なくフェンスから滑り落ち、倒れ伏した。



◇◆◇◆◇◆



「運動場……」

 甲斐がメリーから聞いた話では、件の境界はゆっくりとこの大学の運動場の方へと移動していったそうだ。
 朝の時点では講義もあるしいつまでも観察しているわけにはいかなかったからと、なんでも後でまた見るためにその移動先を分析、計算して割り出しておいたのだとか。
 岡崎教授のようにトンデモ発明こそしてないものの、メリーもメリーで相変わらずとんでもない頭脳の持ち主である。
 ちなみに余談ではあるが、元々メリーはそれを上から眺めるために屋上に来ていたのだそうだ。

 何はともあれ甲斐はその話を聞いた後、メリーに礼を言ってほとんど駆け足で階段を下ると、昼時間であることもあってほぼ無人の運動場のあちこちを見て回っていた。自分がどうしてそこまで境界それを気にするのかは甲斐自身分からなかったが、何故だが一刻も早く見つけなければならないような気がしてならないのだ。
 その後甲斐は運動場の、大学の校舎側半分はざっと確認して甲斐は反対側――外側からの入り口の方へと小走りに近づいていく。
 そしてその周辺をぐるりと見渡して、

「あれは……」

 ついに甲斐は、"それ"を見つけた。

「黒い、陽炎――って、まさか!」

 地面に広がるその黒い陽炎は、甲斐が慌てて近づくと案の定すぐに人の姿をとる。

「雛!」

 甲斐は急いで雛の直ぐ側に駆け寄って地面に片膝を着くと、体の下に手を差し入れて刺激してしまわないように慎重に抱き起こす。
 そうして露わになった、雛のまるで蝋人形のように真っ白になって血の気の失せた顔色が目に飛び込んで来ると、甲斐は愕然とした思いで目を見開いて息を呑んだ。

「朝は普通だったのに、何でこんなに衰弱して……!?」

 すると雛は薄眼を開けるようにかすかに目を開いて、甲斐の顔をうつろな瞳でおぼろげに捉える。

「か、い……? あ、れ……どうして甲斐が、ここにいるの……? だめ、よ……こないで。すぐに私から、離れて……」
「お前、そんな状態でなに言ってんだ! すぐに医者に――いや、それは意味ないんだったか……、クソっ! どうすりゃいいんだ!?」
「甲斐、だめよ……だめ。わたし、わたしね……人間じゃ、ないの。わたしはもともと……『げんそうきょう』っていうところに住んでた、やおよろずの神のひとりなのよ。それも、やくじんっていう……人や妖怪のふこうを……やくを代わりに溜め込むやくわりを持った、神。だから……わたしの近くに来たら、甲斐がふこうになっちゃうの」

 そのどこかうわ言のように言葉を途切れ途切れに口にする雛の姿を見て、甲斐は一瞬まるで泣くのを我慢しているかのように表情を歪めると、自身の胸に湧き上がる感情を持て余して唇を噛み締めた。

「――神様だから、不幸になるから……だから見捨てろっていうのか!? そんなの――冗談じゃない!」

 神であるということ。共に在れば不幸になるということ。なるほど、それは確かに誰かが雛を忌避する理由になり得るのだろう。
 しかし、『鍵山雛』という存在が持っている"なにか"は、決してそれだけではない――

 鍵山雛は、女の子だ。見た目は幾つか年下に見えるけど、実年齢は本当はもっと高いらしい。
 鍵山雛は、まるで宝石のように髪が綺麗だ。サラサラとしたその髪は見るからに気持ちがよさそうで、一度でいいから触らせてもらいたくなるようなとても艶のある髪をしている。
 鍵山雛は、意外と恥ずかしがり屋だ。普段は冷静で大人っぽく見えるけど、たまにその態度が崩れてまるで幼い子どものような顔を覗かせる時がある。
 鍵山雛は、とても優しい女の子だ。ほとんど初対面のはずの他人を不幸にしたくなくて、自分の方が今にも死んでしまいそう顔をしているというのに、それでもその相手の心配をしている。

 ――たった一日共に過ごしただけの甲斐が知っている……今すぐに思い浮かぶことだけでも、これだけのものが出てくるのだ。そしてそれだけあるのなら、甲斐が雛を助ける理由には最早十分だった。

「こんな、少しの間外にいただけでここまで消耗するなんて……どうして、どうして何も言ってくれなかったんだ!? 確かに俺はあの時事情を話さなくてもいいとは言ったけど、あれは何もお前の話を聞きたくないって意味で言ったんじゃねえっ! 言えないことは言わなくていいから、必要なことだけ話してくれればそれでいいって意味で言ったんだっ」

 その時甲斐の脳裏には、あの時余計なことを言わなければこんな事にはならなかったのではという考えが過ぎっていた。
 しかし雛はその甲斐の考えを悟ったのか、息も絶え絶えになりながら小さく震えるように首を横に振った。

「……それは、ちがうわ。あの時止められなかったとしても……どちらにせよ、ふかいところは話さずに、すぐにこうして出ていくつもりだったから……。……だからこれは、貴方のせいじゃないのよ。……ごめんなさい。けっきょく甲斐にめいわく、かけちゃった……」

 そして雛は最後に今にも消え入りそうな細々とした声で「……かい、わたしのことは気にしないで、はやくとおくへ……」と呟くと、再び意識を失いぐったりと目を閉じた。
 その様子を見た甲斐は顔を俯けて少しの間肩を震わせていたが、すぐにガバッと勢い良く顔を上げると――

「ああもうちくしょうっ、もう知らねえ! 自殺したいんだってんなら、そんなもんは俺の知らない所でやりやがれ! 見ちまったら、知っちまったら……もうほっとけねえだろうが! こうなったらお前が何を言ったって絶対に、見捨ててなんかやらねえからな!」

 ――まるで天に噛み付く獣のように吠え……そして数瞬の後、雛に負担をかけないようにと慎重に抱きかかえて立ち上がった。

(気に食わねえ……!)

 気に食わない。そんな言葉が一瞬の内に甲斐の脳裏に浮かび上がり、そして体の中を駆け巡っていた。

 人の……生き物の生き死には、世の常だ。だからもしもこうして倒れている雛に気づかずに、後日誰かに自分の知らないどこかで雛が死んでしまったのだという話を伝聞として聞かされていたとしたら……甲斐は悲しみこそすれ、それを受け入れて納得したはずだ。

 しかし今、雛は他のどこでもない。甲斐のその目の前にいる。だから――

(生きてる奴が死ぬのを納得するのは……死を受け入れるのは、生きる努力をして精一杯足掻いた、その後の話だろうが!)

 それは義務ではない。生きとし生けるものは全て、生きている以上常に死を隣人としている。故に死を自ら招くかどうかは、本人の自由意志なのは確かなのだろう。

 だけどやっぱり、甲斐にはそれが納得行かなかった。

 甲斐が今、これ以上ないほどに"必死になって"雛を助けようとしているのは、相手が雛だったからだ。
 しかしもしもそうではなくて、仮にこれが全くの他人だったとしても、やはり甲斐はその"誰か"を全力で助けただろう。

 門倉甲斐は、『あらゆる存在モノ』を受け入れる。しかしやはり……それでも甲斐は、人間なのである。

 故に――受け入れるのは、結果でいい。その過程までをも放棄するのは、それは最早生きることを放棄しているのと同じ事。
 考えうることを全て考えて、できることを全てやって……そうしてようやく、成るように成って出た結果を、甲斐は受け入れられるのだ。

 だが……あんな啖呵を切ったとはいえ、甲斐には自分が雛を助けるために何をすればいいのかが、まるで分からなかった。





 ……結局のところ、人間最後に頼るのは『己の家』であり、また自身の最も信頼する『家族』なのだろう。一体どこをどう歩いたのか。気づけば甲斐は雛を背中に背負って全身汗だくになりながら、自身の家の眼前に立ち尽くしていた。

 確かに、昨日は家で寝かせることで雛はある程度回復していた。しかし今の容態は、素人目に見ても瀕死にしか見えない。
 どこを見ても怪我らしきものは存在しないことから単純に衰弱しているだけのようには見えるが、仮にそうだったとしてもなにか他の問題があったとしても、とてもではないが寝かせているだけでまた以前のように目を覚ますとは思えなかった。

(……なにか、できることはないか。なにか……)

 冷静に、冷徹に、厳然に……論理的に、思考の回転は最大数へ。熱を持った脳は、冷えた心で冷却する。自身の所有物・技能・能力・知識・記憶・状況・状態――全てを以てして模索。

 ――結論。何も、できることはない。

 これは多くの人々が既に遥か記憶の彼方に忘却してしまった神秘――オカルトの領域なのは間違いない。つまり物理的、科学的なそれは何も役には立たないはずだ。教授やメリー達に関わることで今まで培ってきた、特異な経験から来る勘がそう告げていた。

 ――ならば、それができる誰かに任せればいい。

 甲斐の手元に最後に残っていた手札――人脈。
 甲斐は特別顔が広いわけではなかったが、しかしその脳裏に浮かぶ顔ぶれはどれもこれもが変わり種。つまり今回のような変わり種な出来事に、その内の誰かが対処できる可能性は十分にある。

 そして甲斐が立ち上げるのは、思考によって起動するその機能。耳に取り付けられている岡崎教授製の電話に備えられた、緊急コールモード。それは相手の端末が現在どんな状態であろうとも、強制的に割り込んで通話を繋がらせる機能を持っていた。

「――マエリベリー、いきなりで悪いが聞いてくれ!」

 そして甲斐はこの状況に対処できる可能性の最も高い人物に、鋭い声で呼びかけた。



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