「そういえば、さっきは聞き損ねてしまったのですが……」
「?」

 昨日は眠気に負けてしまって入らなかったので、大学に行く前に風呂に入ろうと着替えを受け取った所で、み〜ことに話しかけられて甲斐は動きを止めた。

「先ほどわたくしの目には玄関でお別れした雛さんの姿が、その後すぐに消えてしまわれたように見えた気がするのですが、あれは気のせいだったのでしょうか?」
「あれ、言ってなかったっけ。詳しくは知らないけど、何でも雛って実は人間じゃないらしいから……多分そのせいだろうな、それは。初めて会った時もたしかそんな感じだったし」

 甲斐がそう言うと、み〜ことは手を胸の前で合わせておっとりと「まあ、そうでしたの」と呟いて、

「でしたら今度お見えになられた時は、食べられるものが人と同じなのかもお聞きしちゃったりしなければなりませんね」
「あ、なるほど。たしかにその辺は確認してなかったな。晩飯の時は何も言ってなかったから、多分米は大丈夫だったんだろうけど」

 果たしてその話を聞いて気にするのはそこでいいのだろうか。この二人、主従揃ってズレ過ぎである。

「まあなんにせよ、今はその話はいいだろ。んじゃ俺は、いい加減風呂に入るかな」
「そうですね。では、参りましょう」

 ……。

「……おい」

 風呂場の前まで移動した後、何故かみ〜ことも一緒になって着いてきたので甲斐は思わず顔を引き攣らせながらその顔を見返した。

「? どうかされましたか?」
「いや、どうしたかじゃなくて……」

 あまりにも平然と聞き返されたものだから、甲斐は一瞬自分がおかしいのかと思ってしまったがすぐに、

(いやいやおかしい。これは絶対おかしいだろ)

 と思い直す。

「だからどうして、お前も一緒に風呂場に来るんだよ?」
「それはもちろん、甲斐ぼっちゃまのお背中をお流ししちゃおうと思っちゃったりしちゃったからでございますわっ」
「……そうかそうか、そいつはありがたいなー。よし、み〜こと」
「はい? なんでございますか、ぼっちゃま?」

 未だに風呂場の前から動かずキョトンとした顔で小首をかしげているみ〜ことに、甲斐はニッコリとした笑顔で一息に、

「デコピンとげんこつとチョップとグリグリ、どれがいい? どれかひとつ選びやがれ」

 と言い放った。

「……――え?」

 そして呆けたような顔で目を丸くしているみ〜ことに、甲斐は棒読み無表情なのに何故か明るい口調で、

「あ、なに? 全部がいいって? 仕方ないなあみ〜ことは。そんなに俺にお仕置きされるのが好きなのか。よーしパパ張り切っちゃうぞー」
「え、ええっ!? あ、ちょ、ちょっとま、お待ちください甲斐ぼっちゃま! 謝りますっ、謝りますか――」

 慌てて言い募るみ〜ことの言葉を無視して、甲斐はジリジリと近づいていき――

「みゃー!?」

 直後、特大の悲鳴が門倉家の中に盛大に響き渡ったという。
 そして後にはプスプスと頭から煙を上げるみ〜ことと、少しだけ手を痛そうにさする甲斐の姿のみが残ったのであった。

 男女七歳にして席をどうじゅうせず。ここ門倉家では、不埒な真似は許されないのである。





「さて、飯も食ったし忘れ物もないし……そろそろ出るかな」

 そう独りごちると「んー」っと伸びをして、甲斐はソファーから立ち上り玄関へと歩いていった。
 そして靴を履こうとするといつの間にか待機していたみ〜ことが、「どうぞ、ぼっちゃま」と靴べらを差し出してきたので、「おう、ありがと」と小さく礼を言ってそれを受け取り靴と踵の間に差し入れ靴を履く。

「……よし。それじゃあ行ってくる。今日はゼミもないし用事もなかったはずだから、多分そんなに遅くはならないはずだ」
「承知いたしました。それでは行ってらっしゃいませ、甲斐ぼっちゃま」

 ペコリとお辞儀をしたみ〜ことに軽く手を上げると、甲斐は身を翻して玄関から出ていった。そしてみ〜こともそれを確認してから無言で頭を上げると、主人のいぬ間に家事を済ますべくパタパタと家の中へと戻っていったのであった。



◆◇◆◇◆◇



「う……」

 ふらりとぐらつく体。思わず漏れるうめき声。甲斐の家で回復した力などとうに消耗しきって、雛は今にも倒れそうな体を引きずりながら歩いていた。
 周りを見渡せば、どこに行っても人間ばかり。しかしこれだけ弱りきった姿を図らずも晒してしまっているというのに、誰一人雛に声をかけてくるどころか、その姿を目に留める者すら存在しなかった。とは言えそれはここに居る人間が特別冷たいというわけではなくて、単に甲斐のように雛の姿を見ることのできるものがいないというだけのことなのだろう。

 ……弱った心に、影がさす。あれだけ共にいて厄が移らないのなら、幻想郷へ帰る方法を見つけるまで甲斐のもとで厄介になってもいいのではないのかという想いが生まれてしまう――

(――ありえない)

 しかし雛はそんな情けない想いが浮かんだ瞬間心の中で握りつぶすと、ふらふらと周囲に視線を巡らせて少しでも人や動物の姿が少ないところを探しながら歩を進める。

(……どこか、生き物のいない所。いえ、せめて普通より広い所があれば……)

 とその瞬間、雛の膝からすうっと力が抜けて、まるでひどい貧血になってしまったかのように意識が遠ざかっていってしまう。

(駄目よ。こんな人間の多い所では、倒れられない。私が……『厄神』が、人に不幸を撒き散らす訳にはいかないもの)

 そして雛は無意識の内に崩れ落ちてしまっていた片膝に手をついて力を振り絞るとどうにか立ち上がり、ゆらりと朧気な足取りで再び歩き始めた。
 その様はまさに、風前の灯火。己の末を知った蛍火のごとく明滅する、儚くも美しい煌きの姿だった。



◆◇◆◇◆◇



「……」

 時は進み、時刻は時計の針が12の文字を僅かばかり過ぎた頃。大学に着いて午前の講義を済ませた甲斐は、本来ならば昼食をとるべきこの時間に食堂へも行かず、屋上で一人フェンスに手をかけて体に風を受けながら佇んでいた。

(……なんなんだろうな、この胸騒ぎは)

 家を後にしてしばらくたった頃から、甲斐はずっと胸の内に滞る嫌な予感に苛まれていた。そのおかげで午前の講義にはまったく集中できなくて、全ての話は右から左に抜けていってしまいメモの一つもまともに取っていない始末。
 とはいえまだまだ出席回数には余裕があるし、そもそも大学の場合高校と違って一度や二度聞き逃した程度では講義についていけなくなるようなことはない……というか、講義内容は全て携帯端末に録音されるようにしているので、それに関しては問題なかった。
 しかし……

(ホント、なんなんだろうなこれ。もしかして、いわゆる虫の知らせってやつなのかねえ? ただの勘違いだと嬉しいんだけど……なんにせよこれじゃあ、さっぱり講義に集中できねえ。こまったもんだなあ……)

 一応先ほど、『岡崎夢美のひみつ道具シリーズ第七号、未来型糸電話くん』――耳の裏に貼ることのできるシール型思考操作式携帯電話――で家に連絡をとってみたが、それは変にみ〜ことのテンションを上げてしまう結果に終わっただけで、向こうでは特に変わりがなかったようだ。

「はあ……」

 一向に正体の知れない身体の内にたちこめる不快感に、甲斐はつい深いため息を吐いてしまう。
 甲斐はタバコの類いを吸わないが、こういう時はその排斥が最早世紀単位になっても未だ絶滅しない喫煙者の気持ちが、なんとなく理解できる気がするな……などと、ぼっとしながらそんなことを考えていると、その時突然耳元から――

「わたしメリーさん。今貴方の後ろにいるの」

 ――という、なんともずれたユーモアに満ちた声が聞こえてきた。
 それを聞いた瞬間甲斐はのったりと後ろに振り向いて、その声の主に胡乱気な目を向けて口を開く。

「……また随分と悪趣味な冗談だなあ、マエリベリー」
「む、悪趣味とは非道いわね。……うーん、それにしても今回は全く気づかれてなかったし、自分でも上手く行ったと思ったのだけど……やっぱり貴方は驚かないのね。たまにはちょっとくらい動揺したところをみせてくれると、もう少し可愛げがでて面白くなると思うわよ? ……主にわたしが」

 色素の薄い金髪のロングヘアー、お嬢様然とした上品な紫の服の隙間から覗く肌は抜けるような白磁の肌。そして謹製のとれた細面に……まるで水晶のように透き通った、見ていると吸い込まれてしまいそうなブルーの瞳。そして今にもどこか遠くへいなくなってしまうのではないかと不安を抱かせる儚げな雰囲気と、それに相反するようにいつも浮かべている、赤く艶かしい唇を曲げた楽しげな笑み。

 この、街を歩いていれば十人が十人とも振り返ってしまいそうな絶世の美女の名は、マエリベリー・ハーン。通称メリー。大学に入学してすぐに知り合って以来、何故だか甲斐にちょくちょくちょっかいを掛けてくる、さっぱり考えの読めないよく分からない女性だった。
 ちなみに甲斐にメリーのことをどんな人間かと問いかけると、『半分は優しさで出来てる昔の頭痛薬みたいな奴』という答えが返ってくるのだが、それはまた別の話。

「別にアンタを楽しませる理由は俺にはないから却下だ。それで、何か用か?」
「あら、冷たいお言葉。偶然とはいえせっかく仲間に会ったというのに、用がなければ話しかけちゃいけないの?」

 相変わらず、人を喰ったような喋り方をする。それ自体は嫌いではないしむしろ会話していてわりと楽しいのだが、正直な所今のように平常運転じゃない時は少々疲れるというのが本音だった。

「……」

 そうして甲斐が何も喋らず黙っていると、メリーは楽しげに弧を描かせていた唇の形を元に戻して、「あら?」と何か意外なものを見たような表情を浮かべて首を傾げた。

「もしかして門倉くん、今はご機嫌斜め?」
「まあ、よろしくはねえかな」
「へえ……それはまた、珍しいこともあるものね。余程のことがあっても貴方はいつも、"いつも通り"なんだと思ってたけど……ここに来る途中で妙な境界も見るし、なんだか今日は珍しいことが続く日だわ」
「妙な、境界?」
「ええ。さっき大学に来る道すがら、『世界との境界が酷く薄れている何か』を見たの。それで何かと思って少しの間それを観察してみたのだけど、ゆっくりと移動する境界以外には特に何も見えなくて、それ以上はなんだかわからなかったのよね」

 境界。それすなわち、何かと何かを分け隔つ境。それがメリーの目には見えているという。その範囲は多岐に渡り、空と海の境界なんていう当たり前のものから、結界の境界なんていうオカルトじみたものまで、ありとあらゆる境界が"見えてしまう"のだとか。

「……マエリベリー。その話、もう少し詳しく教えてくれないか? なんだか……」

 やけに、気になる。
 急に表情を引き締めて、真剣な顔になった甲斐にメリーは一瞬目を丸くしたが、すぐにいつも通りの笑みを口元に浮かべると小さく頷いて、

「構わないわよ。どうも冗談ごとじゃなさそうだし、今回はタダで教えてあげる。その代わり……」
「その代わり?」

 甲斐がメリーの言葉をオウム返しすると、メリーは極上の笑みを浮かべてその続きを口にした。

「その用事が終わったら、今度デザートか何かを食べに連れてって。もちろん、門倉くんの奢りでね?」
「マエリベリー。それは無料とは言わないと思うぞ」

 メリーの言葉に、甲斐は思わず呆れ顔で突っ込んだ。

「あら、よく言うじゃない。タダより高いものはないって」
「それはつまり、これはむしろまけてやったんだとでも言いたいのか?」
「ええ、そうよ。それとも門倉くんは、どこかの高級レストランにでもご招待の方が良かったかしら? デートのお誘いでしたら、いつでもお受けしますけど?」

 メリーが小首をかしげて可愛らしく告げた言葉に、甲斐は「はは、そいつは勘弁だ」と軽く笑って首を横に振った。
 どうやらメリーと話している間に甲斐も調子を取り戻したらしく、表情は変わらず真剣なものだったが、しかし最初に浮かんでいた暗い影はどこかへと消えていた。

「んじゃ今度なにかデザート奢りで決まりってことで……詳しいこと、教えてくれるか?」
「ふふ、残念ね。これで高級おフランス料理は食べ損ねてしまったわ。まあそれは、未来に期待ということにしましょうか。それじゃあ――」

 そうしてメリーは甲斐に件の『妙な境界』の詳細を説明し始めた。



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