ちゅんちゅんと、鳥のさえずりが聞こえてくる。障子で遮られた窓の向こうからは、うっすらと太陽の光。雛はその光を体に浴びながら、穏やかな表情で壁に寄りかかり座っていた。

 そもそもの話、鍵山雛にとって――ひいては神という種族にとっては、睡眠という行為は必要のないものだった。もちろん寝ることができないというわけではなかったし、確かに昨日のように回復のために眠りにつくことはある。しかし体に不備がない時に、必ずしもそうしなければならないというわけではないのだ。言うなれば、娯楽の一つのようなものなのである。

(それにしても……)

 この家の中は、間違いなく全ての幻想を否定した外の世界であるのにもかかわらず、まるで幻想郷の中にいるかのように居心地が良かった。まさか最後の最後に……それもほぼ全ての神々が去った後の外の世界で、こうして自分が受け入れてもらえるだなんて、思いもよらなかった。

 今の雛の体は、決して万全とは言い切れない。だが身動きがとれないほど衰弱しているわけでもなかったし、それに信仰のないこの世界ではこれ以上の回復は何をしたとしても望むことができないだろう。だからそれならば……自身の最期が近い今くらいは眠らずに、少しでもこの短い夢のなかに沈んでいたいと、そう思った。

 もしかしたらこの家……そして甲斐のそばにいれば、雛は消えずに済むのかもしれない。しかしそれは鍵山雛という神にとって、何があろうとも絶対にとりえない選択肢だった。
 当然のごとく雛の心の内に自殺願望が在るわけではなかったが、『厄神』である自分が人に限らず"誰か"のそばにいるということは、すなわちその誰かを不幸にし続けるということだ。それはかつての村人の想いを継ぎ、少女の魂を今でも想い……そして何より、神となったその時から変わらず人間を愛しその不幸を少しでも減らそうと生き続けた雛には、できようはずもないことだった。
 それもよりにもよってその相手は、完全に赤の他人のはずの自分を無条件に助け、受け入れてくれた……優しい優しい、人間たち。もしもそんな選択ができるのならば、そもそも雛は『厄神』なんかにはならなかっただろう。

「こらみ〜こと。お前、いっつも言ってるだろ。妹キャラ作って腹の上に乗っかてくる起こしかたはもう止めろって」
「うぅ、だからってげんこつはひどいでございますことよ、甲斐ぼっちゃま。ああ、ぼっちゃまがわたくしの愛を受け入れてくださるのはいつのことになるのやら、まだまだ先は長いのですわ」
「まったくこの駄メイドは……」

 ふと閉められた戸の向こう側から、賑やかな話し声が聞こえてくる。雛はその相変わらずの仲の良さが伺える会話の内容についついくすりと笑ってしまいながらも、寄りかかっていた壁からゆっくりと離れ、立ち上がる。
 その後雛は昨日み〜ことから借りたカーディガンを羽織ると、敷いてもらった布団を簡単にたたみ、窓についていた障子戸を開ける。そしてそこから覗く明るい空の青さをしばらく堪能してから、部屋全体を軽く見回して汚れている所がないのを確認すると、雛は和室の戸を開けて居間へと出ていった。

 雛が居間の中に入って甲斐の姿を探すと、すぐにキッチンに立っている彼の姿が見つかった。それからすぐに雛はゆっくりとした足取りでとんとんと慣れた手つきで包丁を操っている甲斐に近づくと、対面キッチン越しに正面に立ち「おはよう、甲斐」と柔らかく微笑んで朝の挨拶を交わすべく声をかける。

「ああ、雛か。おはよう。よく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで……いい夢が見られたわ」
「お、そうかそうか。そいつは良かった」

 甲斐はそう言いながらどこか嬉しそうにニッと明るい笑顔を見せる。

「なんだか、随分と嬉しそうね?」
「そりゃまあ、一応これでも家主だからな。なんだか昨日は雛が起きてからずっと俺とみ〜ことで騒いでばっかだった気がしたから、さっぱり気が休まらなかったって言われるんじゃないかと戦々恐々としてたわけですよ」
「ふふ、そんなことはないわ。甲斐もみ〜ことも、とっても良い子だったもの。私も楽しかった」
「いい子って……さすがにこの歳で良い子呼ばわりは抵抗あるんだけど」

 甲斐は小さく苦笑いを浮かべてそう反論するが、雛はくすりと小さく笑って、

「私はこれでも、あなた達よりずっと歳上なのよ? 私にとっては子どもも大人も同じだわ」

 とどこか楽しげにそう言った。

「へえ、そうなのか。とてもそうは見えないけど……まあ、そういう事もあるか。ちなみに、具体的に何歳なのかは……」

 甲斐が視線で伺いを立てると、雛は無言でニッコリと笑顔を見せる。

「はは、了解」

 そう言って乾いた笑い声を上げると、甲斐はそれ以上この話題を続けるのをやめた。

「そうそう。女性には余計なことを聞かないのが、いい男の条件よ?」
「うい、肝に銘じておきます。……ああ、そうだ雛。アンタ、朝飯は何がいい? 今丁度作ってたところだから、和食か洋食かくらいのリクエストなら応えられるけど」
「……いえ、私の朝ごはんは必要ないわ。そろそろお暇させてもらおうと思ってたから」

 甲斐の朝食の誘いは断って、雛は小さく首を横に振った。

「え? なんだ、もう出てくのか。別にそんな慌てなくても、せっかくなんだから朝飯くらい雛も食ってけばいいのに」
「だめよ。本当なら、こんなに長居をするつもりはなかったもの。これ以上、ここに居るわけには行かないの」

 胸の内に名残惜しさがないと言えば嘘になるが、しかし雛はそんな思いが嘘のように晴れやかな表情で首を横に振った。
 その表情を見て、雛が考えを変える気がないのが分かったのだろう。甲斐はそうかと頷くと、包丁を操る手を止めてキッチンから出てきた。

「なるほど、なにか理由があるってわけか。オッケー、分かった。み〜こと! もう雛の服は乾いてるのか――」
「はい、もちろんでございます!」
「うおわ!? おま、どっから湧いて出てきたっ」

 てっきりみ〜ことは洗面台の方に居るものだと思っていた甲斐は、突然真横から声がしたことに驚いて思わず飛び上がってしまった。

「まあ……湧いて出てきただなんて、そんな虫みたいに言わないで下さいませ。この不肖み〜こと、甲斐ぼっちゃまにお呼ばれすれば、例え火の中水の中、マグマの中でだっていつでもすぐに参上しちゃいますですわ」
「……うん、まあこいつのことはほっといて……服はもう用意できてるそうだから、着替えは雛の寝てた和室か洗面所を使ってくれ」
「ええ、分かったわ」

 甲斐が呆れ顔で雛の服を手にしながら語っているみ〜ことをスルーしてそう言うと、雛も空気を呼んで何も言わずに頷いた。

「ああん、ぼっちゃまのいけず〜。でも、そんな所も素敵ですわ!――さ、もう少しでお洗濯も終わりますし、雛さんがお出になられる前に一区切りさせちゃいましょ」

 しかしみ〜ことは相変わらず堪えた様子を見せずに、そんな事を言いながら仕事へと戻っていく。

「はあ、やれやれ……」

 甲斐はその姿を見て小さくため息をつきながら肩をすくめるが、しかし微妙にその表情が緩んでる辺り、なんだかんだ言いながらこの状況を楽しんでいるようであった。




◇◆◇◆◇◆



「それじゃあ……お世話になったわね、甲斐、み〜こと」

 そう言って玄関先に立つと、ゆったりとした優雅な動作で頭を下げる雛。
 頭にはフリルのたくさんついた大きなリボン。やはり地毛なのだろう相変わらずの綺麗な緑髪を体の前で束ねていて、服装は何やら渦のような不思議な模様のついた赤いロングドレス。そしてひっそりと浮かべている、あまりにも綺麗過ぎる秘めやかな微笑の姿。それはまるでここではない遠い所からこちらを眺めているような、いっそ神々しさすら感じさせるどこか超然とした表情だった。
 格好こそ始めてあった時と同じはずなのに、表情ひとつでこれほど印象が変わるのかと甲斐は内心で驚きながらも、やっぱりさほど気にせずこれまでと変わらない態度でニカリと明るい笑顔を見せた。

「なに、前も言ったけど、全部俺たちが勝手にやったことだ。気にするこたあないさ。な、み〜こと?」
「ええ、もちろんその通りですわ。雛さん、もしお近くを通られることがおありでしたら、その時はぜひまたお越しくださいませ。今回はわたくしの作ったデザートも振る舞えませんでしたし、あまりお時間がなくて何もできませんでしたが、次こそは全力でおもてなししちゃいますですわ」
「私が甲斐に助けてもらったのは確かだし、み〜ことが何も出来なかったなんてそんな事絶対にないわ。貴方たちがいなかったら私はきっと、今ここにはいられなかったもの。だから……本当にありがとう、ふたりとも。感謝してるわ」

 二人の言葉に、雛は小さく首を横に振って感謝の言葉を口にする。しかし甲斐はそれを聞いてふっと目元を緩めると、まっすぐに雛の目を見つめ返して言葉を重ねた。

「旅は道連れ世は情け、寄らば旅路の義理人情ってな。困ったときはお互い様。もしまた会うことがあったんなら、その時また笑顔の一つでも見せてくれれば、それで十分だよ」
「まあ、ぼっちゃまったら変に格好つけて。だめですよ、まず口説くんなら誰よりも先にわたくしを口説いて下さいませ。浮気は男の甲斐性ですが、さすがに目の前でされては悲しゅうございます」
「色々やかましいわ。浮気以前にそもそも俺は誰とも付き合ってねえし、もしも誰かを口説くとしてもその相手をお前にすることは絶対にない」
「ああっ、酷いですわ! 何も絶対とまで言わなくてもいいではありませんか!」
「……くす。本当、貴方たちはいつも楽しそうね。仲が良くて羨ましいわ」

 いつも通りの主従漫才に、雛はくすりと笑みを漏らした。そして僅かな沈黙の後に、名残惜しそうに別れの言葉を口にする。

「さようなら……甲斐、み〜こと。短い間だったけど、楽しかったわ」
「あん? 違う違う、雛。こういう時は、またねって言うもんだ。そっちの方が、これから先の楽しみが増えるからな」
「ふふ……、そうね。また会いましょう、二人とも」
「おう。またな、雛」

 そうして雛は、ふわりと身を翻して去っていった。
 その後ろ姿からは、ヒラヒラと手のひらに落ちてあっという間に溶けてしまう一粒の雪の結晶のような、そんな儚さを感じさせられて……甲斐はなんとなく不安を感じて、ふいに眉尻を下げてしまう。
 とその時突然、み〜ことが身体の向きを変えてまっすぐに甲斐に向き直ると、ひどく真剣な表情で口を開いた。

「甲斐様」
「?」

 み〜ことが家に来てすぐの頃にしかほとんど聞いた覚えのないその呼び方に、甲斐はどうしたのかと疑問に感じて首を傾げる。
 すると次の瞬間み〜ことは、見るものがビックリしてしまいそうなくらいに真剣な表情を崩さずに、どこか必死さを感じさせられる声で、

「わたくしは……み〜ことはこの身が壊れ停止するその時まで、必ずあなた様のお側におりますわ。ですからどうか……そんなお顔を、なさらないでくださいませ」

 と懇願するように語り甲斐の瞳を見上げた。

「……」

 きっとみ〜ことは先程甲斐が浮かべた表情を、寂しさ故か悲しさ故のそれと勘違いしたのだろう。そんなみ〜ことの姿に甲斐は穏やかに微笑みを浮かべると、ぽんと一度み〜ことの頭を撫でて玄関先から去って行った。

「……あっ、待ってください、甲斐ぼっちゃま!」

 それから少しの間み〜ことは呆っと立ち尽くしていたが、すぐにはっとして顔を上げるとその背中を小走りに追いかけ始める。
 ……去り際に甲斐が小さく呟いた、「ありがとう」という言葉に、僅かに頬を緩めながら。



◇◆◇◆◇◆



 雛は門倉家を後にしてすぐ、その門の前でどこか驚いたように目を小さく見開いて立ち尽くしていた。

(これはいったい、どういうことなのかしら?)

 始め雛は、自分が長く滞在してしまったことで甲斐とみ〜ことに移ってしまったであろう厄を集めようと、手をかざして目を閉じ意識を集中させていた。しかしいくら家の中にある厄の気配を探っても見つからないという事実に驚いて、雛はどこか信じられない思いでどういうことかと考えこんでしまう。

(み〜ことは……分からなくもないわね。この感覚は、魔法の森の人形遣いのそれに近い感じだわ。全く同じというわけではないのだろうけど……体が生き物のものではないというのなら、厄が移ってないのは理解できる)

 どうしてそんな存在が外の世界にいるのかとも思うが、幻想の匂いはしないので彼女は自分が知らないだけで外の世界固有の何かなのだろう。
 しかし――

(甲斐のこれは、どういうことなの? 完全にゼロというわけではないけど……だけどこの量は、私と一緒にいて増えるどころか、普通の人間と比べても少なすぎるわ)

 以前の異変の折にあった、あの巫子ならば理解できる。彼女はその能力によって全てから、世界からですら浮いているからだ。しかし甲斐は外の人間であり、それに特に強い霊力を持っているというわけでもない。なにか特別な力を持った人間でもないというのにこの量は、完全に異常だった。

(……、なんにせよ……)

 せめてものお礼にと、二人の厄祓いをしようと思っていたが……これでは仮にこれ以上ここにいたとしても、自分にできることはもうないのだろう。その事実に雛は気分を沈めながら、ふらふらと朧気な足取りでこの場から去っていった。



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