「うぅ……こんなの初めて。私、穢されちゃったわ。厄神なのに……」

 何やら口の周りにちょこちょこと米粒やらお粥の汁やらをつけた雛が、ペタリといわゆる女の子座りをしながら嘆いている。どうせまたみ〜ことが調子に乗っちゃって色々失敗したのだろうけど、ここは彼女の主人として一応謝っておくべき場面なのだろうか。
 そんな事を考えながら食べ終えて空いた食器をお盆に載せなおして立ち上がった甲斐を置いてけぼりにして、二人はそのままわいわいと賑やかに騒いでいた。

「ああ……申し訳ありません! いけませんわ、お粥で雛さんのお口周りがべったりです! しかもそれが垂れてしまって、首元にまでっ。これはすぐにでもお風呂に入っていただかなければ!」
「えぇ!? いえ、いいわそんなの! タオルか何かを貸してもらえばそれでいいから本当にっ!」
「うふふ、そんな遠慮なさらずともよろしいんでございますことよ。さあさあ雛さん、これからわたくしとお風呂でゆっくりしっぽりと――」
「はい、そろそろいい加減にしとけよ?」
「あふん!?」

 『お前はどこのエロオヤジだ』などとそんな事を思いながら、手をわきわきとさせつつ雛に迫るみ〜ことの頭頂部にビシッとチョップを落として動きを止める。それでみ〜ことは痛みに悶えてか「あぅぅ……」とうめいていたが、それは完全スルーの方向で甲斐は雛へと向き直った。

「悪いな、雛。み〜ことが悪乗りしちまったみたいで、迷惑をかけた。俺があんまり家に客連れてくることなんて無くて珍しいもんだから、こいつもついテンションが上がっちまったんだろうけど……」
「あ、いいえ……」

 その謝罪の言葉を聞いて雛はすぐに首を横に振ると、こほんと一度咳払いをして佇まいを整える。

「迷惑なんかじゃないわ。ただ、誰かとこうして接するのなんてほとんどなかったから、ちょっと戸惑ってただけよ。……それより申し訳ないのだけど、さっきも言った通りタオルか何かを貸してもらえないかしら。色々お世話になっておいてこちらから頼むのは心苦しいのだけど、ちょっと気持ち悪いのよ、これ」
「ああ、それなんだけど――」

 そこで甲斐は一度雛から視線を外して、未だ悶えたままのみ〜ことの方へと顔を向けた。

「み〜こと。さっきあんな事言ってたけど、もう風呂にお湯は張ってあるのか?」

 そして甲斐がそう問いかけると、み〜ことはさっきまでの態度がまるで冗談のように柔らかな微笑を浮かべて立ち上がり、

「はい、もちろんでございますわ、甲斐ぼっちゃま」

 とどこか恭しい態度で頷いた。

「そか。んじゃあ提案なんだけど、さっきみたいな冗談じゃなくてホントに風呂に入らないか、雛。もちろんさっきのこいつの悪ふざけは置いといて、一人でさ」
「え、でも……」
「み〜ことじゃないけど、遠慮はいらないぞ? そんなんになっちまったのはうちのメイドのせいなんだし、多分寝てる間に汗もかいてるだろ。あんたも女の子だ、風呂くらい入りたいんじゃないか? 使い方は当然教えるし、別に減るもんじゃないからな。変に気にするこたあないさ」

 甲斐がからりと笑ってそう言うと、雛はしばらくの間迷っていたようだが、

「それじゃあ失礼して、お風呂お借りしようかしら。確かに一度体を流しておきたいっていうのはあったから、それはすごくありがたいわ」

 と言って頷いた。

「おう、そうしとけそうしとけ。んじゃあみ〜こと、悪いけど雛の案内とかは頼むな。そっちは女同士のほうが安心するだろうし、俺は上で休んでっから」
「はい、分かりましたわ」
「えっ」

 先程のことを思い出したのだろう。また何かされるかもと警戒した雛に甲斐は安心しろと軽く笑って、対み〜こと専用の切り札を切る。

「み〜こと、念のために一つ言っておくけど……今度余計なことしたら、今後一週間はデザート作り禁止令発動するからな?」

 まあ流石のみ〜ことも冷静になった後にお客様にそうそう粗相を働くとは思わなかったが、それでは雛の方が安心しないだろう。そう思った甲斐が一言そう口にすると、み〜ことはビシッと軍隊の最敬礼にも劣らない機敏さで、

「畏まりましたわ、ぼっちゃま! 決してそのようなことはいたしませんともっ!」

 と叫び声にも似た声を出した。

「えっと……?」
「ほら、これでもう安心してもらって大丈夫だそ。み〜ことの一番の趣味は、デザート作りでな。こいつはそれを凄く楽しみにしてるから、こういっとけば大抵の事はきちんとやるのさ」

 戸惑いを隠せずに視線を彷徨わせた雛に対して、甲斐はどこか楽しそうにそう言った。
 そうまでしないときちんということを聞かないメイドというのは、果たしてどうなのだろうか。この変わり者の主従のやりとりを見た雛が思わずそんな事を思ってしまったのは、きっと仕方のないことだろう。

「それじゃあそういうことで、俺は自分の部屋に行くな。あ、それと雛の服はみ〜ことが洗濯しておいてくれたんだけど、まだ乾いてないらしいから着替えはまた適当にみ〜ことにもらってくれ」

 そして甲斐は最後にそう言い残して踵を返すと、静かに戸を空けて部屋を出ていった。

「それでは雛さん、早速お風呂へ参りましょうか。こちらですわ」
「……そうね。それじゃあお願いしようかしら」
「はい、お任せ下さい」

 そんなやりとりを背中越しに聞きながら、甲斐はとんとんと軽い足取りで階段を登っていく。そしてガチャリと自分の部屋の扉を開けると、早速机に向かって省スペース展開型の携帯端末を開いた。

 その端末に保存してあった、岡崎教授の最新論文。それを流し読みしながら、甲斐は次の実験について思いを馳せる。
 若干一八歳にして博士号をとった天才、岡崎夢美教授の研究内容は、『魔力』と『魔法』の存在証明。当然ゼミ生としてその研究室に所属している甲斐も、微力ながらそれについてのデータ集めや分析などの手伝いをしていた。
 統一原理。現在この世界で一般的とされている、様々なエネルギーに関する大原則に、真っ向から対立する『魔力』、『魔法』という法則。甲斐のそんなものの研究に関わっているという下地が、今回雛のような人外の存在をあっさり信じるということの一因だったのだろう。
 もっともそれだけが原因というわけではなかったし、おそらく『門倉甲斐』という人間の性質上、仮にそれらがなかったとしても、本人から告げられれば案外あっさり受け入れていただろうが。

「はぁ……」

 甲斐が自分の部屋に戻って論文を読み始めてから、およそ数十分ほどした頃……甲斐は突然小さく溜息を吐いて、携帯端末の展開型ディスプレイを収納しそれを非接触充電機の上に収めた。

(……相変わらず、さっぱりわけがわからない)

 例えば、考古学の研究をするとしよう。その場合普通研究者というのは、まず資料を集める事から始める。それは古い文献であったり遺跡であったり、そういったものを参考にしてそこから自分なりの答えを出していくものだ。

 大抵の場合文系理系問わず、普通何かの研究というのは参考にするものや研究対象が先にあって、そこから研究を進めていく。しかし岡崎教授の場合はそうではなくて、『魔法』そして『魔力』という研究対象の実例が手元にないというのに、既存の原理を常人には理解出来ないほど複雑な論理を持って組み立てていき、そこから論拠を見出して理論をひねり出す……言うなれば、『どこにも隙のない机上の空論』とでも言うべきもの。それが彼女のその論文には記されていた。

 そんなもの、ハッキリ言って常人どころか知識人にだって理解出来ない。実際問題、岡崎教授はその人格にさえ目をつぶれば一〇〇人が一〇〇人納得するような確かな天才だというのに、学会においてはその頭脳と理論が全く認められてはいなかった。

 結局のところ、彼女のそれは早すぎたのだろう。かつて天動説が主流であった時代に地動説を唱えた学者のように。あるいは相対性理論という現代にも通じる理論を打ち出した過去のとある天才のように。

 ではなぜ甲斐がその論文……いうなれば研究の大前提とでも言うべきものを理解できていないというのにその研究室のゼミ生になったかというと、これが全くと言っていいほど甲斐本人の意志が介在していなかった。

 そもそもの原因は、およそ一年半前に遡る。その時甲斐はとある知人の所属しているサークルの、その活動の手伝いをしていたのだ。そしてその過程で偶然岡崎教授と少し話す機会があって、そこで彼女に妙に気にいられてしまい、そしてそのまま半強制的に研究室に入れられてしまった、というものだった。

 とはいえ昨日から今日の朝まで徹夜でその研究の手伝いをしていたことから分かる通り、甲斐自身は案外今のこの状況を楽しんでいたりする。
 基本的にこの門倉甲斐という人間、大抵の事をあっさりと受け入れるずぶとい神経をしているのである。







「甲斐ぼっちゃま。お休みの所申し訳ありませんが、少々よろしかったりしちゃいますでしょうか」

 こんこんこんと、ノックが三回。そして扉の向こうから聞こえてきたのは、み〜ことの声だった。

「ん、どうした? もう雛は上がったのか?」

 そんな事を口にしながら、甲斐は部屋に備え付けてあった時計に視線を向けて時間を確認する。どうやらもう部屋に来てから一時間は過ぎていたようだ。いかに女性の風呂が長いというのが通説であったとしても、流石にこれだけ経てば大抵の人は出ていることだろう。

「はい。それでなにやら、雛さんが甲斐ぼっちゃまにお話があるということで……今はお着替えも済ませられて、居間でお待ちになっていただいておりますです」
「話? ああ、あの時言ってたやつか」

 甲斐の脳裏に、結局二人揃って寝てしまったあの時の光景が浮かんできてなんとなく笑みを漏らす。そしてすぐに机から立つと、扉を開けてみ〜ことと共に雛の待つ居間へと向かった。
 するとそこで待っていたのは、和室で寝ていた時と何ら変わりのない服装でどこか恥ずかしそうにソファーに座っている雛の姿だった。風呂上りのせいか体の前でまとめていた髪を下ろしており、さらにほんのりと上気した肌ともじもじと上目遣いでこちらを覗いているその姿はハッキリ言ってひどい破壊力だったが、しかし甲斐はそれを適当に流して呆れ顔でみ〜ことにジト目を向ける。

「……で、何で雛の服が相変わらずワイシャツ一枚なんだよ? もっとなんかあっただろ、ましなのが」
「え? それはもちろん、甲斐ぼっちゃまはこういうシチュエーションがお好きだろうと思ったからでございますけど。やっぱり男のロマンでございますよね、女の子が下着にYシャツ一枚の格好って」
「甲斐、貴方って……」

 それを聞いた瞬間、思わず体を腕でかばいながら身を引く雛。

「いやいやいや、まてまてまてい」

 甲斐はすぐにブンブンと首を振って、部屋の中に流れる嫌な空気を払拭するべく口を開く。

「確かにその格好がロマンだってのは否定せんが、だからと言って殆ど初対面みたいな相手にそれを頼むほど変態になった覚えはねえぞ」

 実は内心ちょっとだけ『み〜ことグッジョブ』などと思ってたりしなかったりしたりする甲斐ではあったが、しかしまあそこはそれ。思ってしまうこととそれを実際に実行するかどうかには、大きな隔たりが存在するのである。
 ということで、すぐに甲斐はつい流れて行ってしまっていた視線を雛からみ〜ことに戻すと己の理性の訴えに従って、

「取り敢えず、何でもいいからちゃんとした服を貸してあげなさい。確かメイド服以外にもなんかあっただろ、お前の服」

 とみ〜ことに告げるのだった。
 しかし――

「雛さんにわたくしの服をお貸しするのは構わないのですが、そうすると一つだけ問題が御座いまして……」
「? 問題ってなんだ?」

 そう言って首をかしげた甲斐に向かって、み〜ことはとんでもない爆弾を投下してきた。

「わたくしの服だと、悲しいことにサイズが合わないのでございますよ。下は問題ないのですが、主に胸の方が」
「え……」

 上着のサイズが胸のせいで合わない→当然ブラジャーのサイズも合うわけがない→今雛はYシャツ一枚の格好――イコール、

「ぁ、っ……――!!」

 甲斐がなにに思い至ったのか、何となくその表情を見て悟ったのだろう。とうとう雛は羞恥に顔を真赤にして声にならない悲鳴をあげると、ピューッという擬音が聞こえてきそうな勢いで和室の中へと逃げて行ってしまった。

「ああ、お逃げになられてしまいました。ですが雛さんの恥ずかしがっていたあの表情、とってもお可愛らしかったですわ……」
「み〜こと、お前ってやつは……」

 どこか恍惚とした表情でいじり根性満開な台詞を呟くみ〜ことに、これは確実に確信犯であろうと心底呆れた表情を浮かべ、甲斐は頭を抱えながらうめき声のような声を上げる。
 駄目だこのメイド、早く何とかしないと。甲斐はみ〜ことにお仕置きするべくその小さな頭のてっぺんにげんこつをロックオンしながら、そんなことを考えていた。







「あの、ごめんさい。こちらから呼んでおいていきなり逃げだしてしまって」
「いやいや、ありゃ俺とみ〜ことが悪い。だから気にすんな」
「あうぅぅ……」

 頭を押さえて涙目になっているみ〜ことを背景に、二人はテーブルを挟んで向き合いながら話していた。ちなみに雛の服装は、ワイシャツの上からさらにカーディガンを羽織ることで落ち着いた。

「それよりも、雛から俺に話があるんだって?」

 この話題を終わらせるために少し強引に話を変えた甲斐を雛はなにか言いたげに見つめていたが、しばらくして諦めたように一つ吐息を漏らすとゆっくりと口を開いた。

「ええ。さすがにここまでしてもらって何も話さないのも不義理だし、簡単に事情くらいは話しておこうと思って」
「ふむ。それなんだけど……ちょっと待ってくれないか?」
「? 待てって……どうして? あまりここに長居するつもりはないから、話すとしたら今しかないのだけど」

 訝しげに首を傾げた雛の目を見返して、甲斐はそれに「ああ」と小さく頷いた。

「それは分かってるさ。だから要するに俺は、雛に無理に話さなくてもいいって言ってるんだ。もちろんアンタが話したいんだって言うんなら当然聞くけど、義理だとか……もしくは俺の説得のためだってんなら、それは必要ないぞ。もう十分動けるようになってるみたいだし、前にも言った通りもう俺にアンタを引き止める理由はないからな」

 それは凄く冷たい……いや、厳しい言葉だった。
 誰にだって何かしら、事情があるのはわかっている。だからそれを話す理由に自分への義理人情を勘定に入れなくていいから、雛自身が話したいか話したくないか、そこだけで判断しろという意味での言葉。
 しかし雛はその言葉を受けて、むしろその表情を柔らかくした。

「そう……分かったわ。そういう事ならお言葉に甘えて、貴方には話さないことにする。その方が、きっとお互いのためだもの」

 ともすれば酷く冷たい、突き放したものと受け止められそうなその甲斐の言葉を、雛はその聡明さから正確に受け取っていたのだ。

「ああ、それとあと一つ言っておくけど」
「? なにかしら?」

 どこか微笑を浮かべているようにも見える穏やかな表情で聞き返してきた雛に、甲斐はからりと笑顔を見せて言葉を続ける。

「我が門倉家のモットーは『去る者追わず、来るもの拒まず』でね。だからもしもやっぱりここに残りたいだとか、その内またうちに来ることがあるんだったら……その時はいつでも、歓迎するぜ」

 その言葉を聞いた雛は今度はハッキリと微笑を浮かべて、どこか嬉しげに目を細めた。

「ふふ、そうなの。それはとても、魅力的な提案ね」

 もちろんその提案に、雛が頷かないことはお互いにわかっていた。しかし甲斐はなんとなく、それを今言っておかなければならないような気がしたのだ。
 それから少しの間甲斐は二人の間に流れたどこか心地のいい沈黙を堪能していたが、おもむろにパシッと自分の膝に手をつくとゆっくり立ち上がった。

「あ、そうだ。一応言っとくけど、今日だけはうちに泊まっていけよ? 外はもうすっかり夜だ。さすがにこんな真っ暗闇の中外に一人で女の子を放り出したんじゃ、寝覚めが悪くてしょうがないからな」

 それに雛はすぐには答えなかったが、しばらくして無言で頷いたのを確認すると、今度は甲斐は後ろで空気のように控えていたみ〜ことに、

「俺がやったんじゃ気になるだろうし、悪いけど雛の布団のシーツの交換とかはみ〜ことに任す。俺はまだ徹夜の眠気が残ってるから、今日はもう部屋で寝るから」

 と告げて去っていった。

「それでは雛さん、わたくしも家のことで少々することがございますので、これで失礼致しますわ。先ほど紅茶をお淹れいたしましたので、こちらに置いておきます。どうぞごゆっくりおつくろぎくださいませ」
「ええ。ありがとう」

 その後み〜ことも雛のお礼の言葉ににっこりと笑顔を返すと、小さくお辞儀をしてから家の奥へと歩いていった。
 それを雛は何気なく見送りながら、穏やかな表情で出された紅茶を口にする。

「ああ、あったかい……」

 そしてカップからゆっくりと桜色の唇を離して一言そう呟くと、雛は柔らかく微笑んで吐息を漏らした。



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