「ここ、は……?」

 緑髪の少女――鍵山雛(かぎやまひな)は、どこかうめき声のような掠れた声を漏らしながら、ゆっくりと体を起こした。そしてぼやける視界にもどかしさを感じて目を擦りながら、静かに視線を巡らせる。
 畳の部屋。しかれた布団。横たわっていた自分。なぜか部屋の隅のタンスの上にポツリと置かれている、何かの動物のぬいぐるみ。
 ここはどこなのか。自分はどうなったのか。……何故、自分は存在できているのか。

「う……」

 頭が重くて、考えがまとまらない。頭痛もするし、体が酷くだるかった。人間の病気には経験がないが、重度の風邪を引いたらもしかしたらこんな感じなのかもしれない。
 雛が額に手を添えながらそんな事を考えていると、その時かたりと戸の開く音がした。その音にそちらに視線を向けると、そこには水差しとコップを載せたお盆を持った、倒れる直前に話したあのよく分からない男の姿が。

「あ、起きたのか」

 その男――甲斐はお盆を布団の脇に置くと、自分も床に腰を下ろした。そしてその後雛の顔を覗くようにして、

「やっぱり調子が悪そうだな。病院に連れていっていいものか分からなかったから取り敢えず家に連れてきたけど、どうする?」
「え? どうする、って……?」

 未だ血の気の引いた青白い顔色のまま、甲斐の問いに質問を返す雛。

「病院に行くんならこれからでも連れて行くし、それが嫌ならそのまま寝ててもいい。なにか欲しいもんがあるようなら持ってくる。ま、あんまり無茶言われても困るけどな」
「いえ……」

 雛は一度目を瞑って間を取ると、軽く首を横に振って甲斐の目を見た。

「必要ないわ。これは人間の医者のところに行ってどうなるものでもないもの」
「そか。それで、欲しい物は?」
「それも、いい」

 再度首を横に振った雛を見て、甲斐は短く「分かった」とだけ口にして相槌を打った。
 何も聞いてこないし、疑問を挟んでくるわけでもない。雛はそのおかしなくらいの物分りの良さに疑問を抱くも、それは内心に留めて立ち上がろうとするが、

「あ……」

 すぐに目眩を起こして、再び布団の上に倒れこんでしまう。

「おいおい、無茶するなよ」

 それを見て、甲斐は何も聞かずに雛に布団をかけ直して寝かせようと手を伸ばすが、

「だめっ」

 同時、雛は逃げるように身を引いて、強い拒絶反応を見せた。

「あ、悪い。そりゃそんな状態で見知らぬ男の部屋に連れ込まれちゃ、警戒もするよな。少し配慮が足らなかった」

 雛は気にした様子もなしにそう謝ってくる甲斐に小さな罪悪感を覚えるが、それは胸の内に仕舞い込むとそうではないとすぐに首を横に振った。

「違うわ。アナタが悪いわけじゃないの。私は……」

 とそこまで話して、続きを一向に口にしない雛に甲斐は訝しげに首をかしげる。

「私は?」
「……いえ、なんでもないわ。それよりも、私は行かないと。助けてくれたことには感謝するけども、あまり長居するわけには……」

 そう言って起き上がろうとする雛を無言で甲斐は見つめていたが、

「……で、また行き倒れるつもりか?」

 とどこか鋭い目をして雛を制した。

「そんなつもりはないわ」
「残念ながら、全くもって説得力の欠片もないな」

 小さく溜息を吐きながら、甲斐は言葉少なにそう言い放った。そして更に、

「アンタが元気なら、別に止める理由はなかったんだけど」

 と苦笑い混じりに言葉を付け足し眉尻を下げる。

「どうしてそこまで……、いえ、そもそもあなたは、何故私を助けたの? 最初はなにか邪な考えでもあるのかとも思ったけど、そういうわけでもなさそうだし……」

 甲斐はその言葉を聞いて、そんなに不思議がられることかなと疑問に思いながら首を傾げる。

「何故と言われても、そんな大した理由は必要かねえ? 普通助けるだろ、目の前で誰かに倒れられたら」
「……私が、人間じゃなかったとしても?」

 その、こいつは何を言っているんだとそう思われることも覚悟で口にした言葉は、

「アンタが人じゃなかったとしても」

 思った以上に、効果を発揮しなかった。

「なっ……!」
「そこまで驚くことか? あれをみりゃあ、アンタが普通じゃないってことくらいはさすがに分かるさ」

 絶句している雛を前にして、甲斐は事もなげに言い切った。

「ま、だからどうしたって話ではあるけどな。ほらほら、そういうことだから、とりあえず布団に戻って。そんな今にも倒れそうな顔して無理に動こうとしない。分かった?」
「え、あ、うん……」

 なんだか彼のその勢いに押されて、素直に頷いてしまう。そうして雛が大人しく布団の中に収まると、

「それじゃ、俺は晩飯の買い物に行ってくるけど、アンタは何がいい? リクエストが無いようなら、お粥かなんかにするつもりだったんだけど」
「え? あ、いえ。私は別に、」
「いらない、っていうのはナシな」
「でも……」
「でももカカシもなにもない。俺が気にするの。んじゃ、お粥で決定だな。オーケー?」
「……う、うん」

 おずおずと布団をかぶりながら頷いた雛に、甲斐はふっと柔らかに笑い返すと、

「よし。じゃあみ〜ことと一緒に行ってくるかな。一応言っておくけど、ちゃんと大人しく寝てるんだぞ?」

 と言って立ち上がり、部屋から出ていってしまった。
 そんな甲斐の反応に、なんだか途中から自分が我がままを言っている子どもになってしまったような気がしてしまい、胸の内に気恥ずかしさが残ってしまう。

「変な、人間……」

 事故で外の世界に来てしまって、力は減る一方。信仰もなければ自分が見える人間すらいなくて、その上『現実』の強力な否定にさらされて……もう消えるのを待つばかりなのだと、そう思っていたのに。後はどうやって厄を振りまかずに、人知れず消えようかと悩んでいたはずなのに、こんな事になってしまうとは思いもよらなかった。

(そういえば……)

 そこまで考えて、あることに思い当たる。こちらの世界に来てからむこう、ずっとさらされていた存在の否定が、この家に来てからは全くないのだ。
 外の世界では、自分のような幻想の存在は否定され、時間と共に消えさってしまう。だからこそ、妖怪や自分たち神々は『幻想郷』へと渡っていったというのに、これは一体どうしたことなのだろうか。
 この家の中は、許容に満ちている。現実の冷たい否定ではなく、ただ温かいだけでもない、優しい許容に。それはきっと……

(あの人間が、そうだから?)

 彼が戻ってきたら、自分のことを話してみるのもいいかもしれない。住んでいる家の雰囲気を形作るのは、当然そこに住むものだ。こんな許容に満ちた空間を作ることのできる人間なら、否定せず聞いてくれるかもしれない。

(……違う。だめよ。なにを考えているのかしら、私)

 とそこで、雛はまるでそれまでの考えを否定するかのように小さく首を横に振った。
 話すことはいい。きっと彼は事情を話さなければ、自分がすぐに離れることを納得してはくれないだろうから。だけどそれは、受け入れてもらうためにではない。いなくなるためだ。
 自分の存在は、彼に不幸をもたらす。本当なら今すぐにでも、ここから離れなければならないのだ。

(ああ、でも……)

 今は、今少しだけはこの居心地のいい空間に、身を浸していたい。現実の冷たさに凍えてしまっていた心が、そう訴えていた。
 きっとこのまま勝手に出ていってしまったら、あの様子なら彼は探しに出てしまうだろう。だから帰って来て事情を話し、納得してもらうまでは、自分が出ていく訳にはいかない。
 そんな拙い、理論武装。それが免罪符にすらならないであろうことは自覚していながら、雛は次第に襲ってくる睡魔に負けて優しい微睡みの世界に身を沈めていった。



 休まずに、走り続けられる者はいない。休まずに、飛び続けられる鳥はいない。休まずに、泳ぎ続けられる魚はいない。しかし家がなければ、人は休むことができない。巣がなければ、鳥は羽を休めることはできない。住処がなければ、魚は休むことができない。
 そこはきっと、人のために生き続けた神……『厄神』鍵山雛にとって初めて得ることの出来た、心休まることのできる空間だったのかもしれない。



◆◇◆◇◆◇



 すーっと音を立てないように戸を開けて、静かに部屋の中を見る。するとそこには小さく寝息を立てて眠っている雛の姿。お粥が完成したので様子を見に来たのだが、これならまだ用意するのは後にしたほうが良さそうだ。

 甲斐は雛を起こしてしまわないように足音を忍ばせながら、ゆっくりとその傍らに腰を下ろす。どうやら最初に会った時よりは、だいぶ顔色も良くなってきているようだ。

 出会った時や出かける前はゆっくり観察している暇などなかったから分からなかったが、こうして余裕ができて改めて眺めてみると、まるで人形みたいに整った容姿をしていることが見て取れる。
 美しさの中にどこか愛らしさを秘めた、大人と子どもの中間のような顔立ち。見た目で判断するのなら、歳は甲斐の二つか三つほど下だろうか。身長は甲斐より頭一つ分小さいくらいだから、女性としては平均的な高さだろう。

 更に目につくのは、地毛なのかイマイチ判断のつかない鮮やかな緑色の髪の、その髪型だろう。長さはセミロングほどで、それを胸の前まで伸ばして大きめのリボンで束ねているという少々変わり種なそれ。似合っていないというわけではないのだが、あまり見るものでもないのでなんとなく目が行ってしまっていた。

「ん……」

 とそこで、雛が小さく吐息を漏らした。
 それと同時に甲斐は雛の髪から視線を外すと、少しずれてしまっていた布団をかけ直してやる……が、あまり眠りが深い方ではないらしく、その拍子に雛が目を覚ましてしまったようだ。

「……あ、帰ってきてたのね」
「ああ、悪い。起こしちまったかな」
「別に、気にしないでいいわ。お世話になってるのは私の方だもの」
「それこそ気にしなくていいって。全部俺が勝手にやったことだしな」

 助けてくれと頼まれたわけでもなく、自分が好きでやってることだ。正直な所、変に気にされてしまっても困ってしまう。

「そう……」

 雛のその一言を最後に会話が途切れてしまい、そして部屋の中に沈黙が流れる。気まずい、という程でもなかったが、さりとて気持ちのいいものでもなかったので、甲斐はその沈黙を破るために再び口を開いた。

「もう晩飯の用意は出来てるんだけど、アンタはどうする? すぐに食べてもいいし、食欲がわかないようならもう少し――」

 休んでからにするか? と甲斐が口にしようとした所で、

「鍵山雛」

 その言葉は、雛の静かな声で遮られた。

「ん?」
「私の名前よ。できれば"アンタ"じゃなくて、名前で呼んでくれないかしら」
「あ、名前ね。バタバタしてたのもあるけど、すっかり忘れてたな」

 雛の言葉に甲斐は合点がいったように頷くと、

「苗字と下の名前、どっちで呼んだほうがいい? それと、さんはつけたほうがいいか?」

 と更に問いを重ねた。

「変わったことを聞くのね」
「そうか?」
「ええ、そうよ。……私のことは、呼び捨てでいいわ。雛、ってね」

 雛がそう言うと、甲斐は小さく笑顔を浮かべて頷いた。

「あいよ、分かった。それと、俺は門倉甲斐っていうんだ。まあ俺のことも、好きなように呼んでくれ」
「じゃあ、甲斐で」
「おう」

 甲斐が頷いたのを確認すると、雛はどこか安心したように目元を緩めて微笑んだ。

「ほんと、変な人間」
「失敬な。なぜか他のやつにもよくそう言われるけど、俺は至って平凡な一般学生だぜ?」
「全然普通じゃないじゃない。今後自分のことをそう言う時は、自称ってつけたほうが良さそうね」
「おいおい、ひでえなあ。こんな一般人捕まえてそんな事言うなんてよ」

 甲斐がおどけたように言葉を返すと、雛がくすくすと笑みを漏らした。それに甲斐も、ふっと笑い返して目を細める。それからしばらく二人の間には再び沈黙が流れたが、今度のそれは悪いものではなく、むしろ心地のいいものだった。

「少し……」
「え?」

 しばらくして、ぽつりと雛が目を閉じながら口を開いたので甲斐はそれに耳を傾ける。

「もう少し、眠らせてもらうわ。そうすれば多分、今よりは動けるようになれそうだから……その時に、色々説明させて。そしたら、ここを出ていくから」
「ああ、分かった」

 自分の出ていくという言葉にあっさりと頷いた甲斐の様子に少しだけ不満のようなものを感じながら、雛はゆっくりと襲いかかってくる睡魔に身を委ねていった。

「そうだ。俺は飯食ってくるつもりだけど、大丈夫か? 何だったら、雛が起きるまではここにいるけど」
「……いいえ、いいわ。私には構わないで、貴方は食事を……」

 その一言を最後に、雛は完全に眠りに落ちた。

「そうか。まあゆっくり寝て、早く元気になれよ」

 そしてその様子を見て、甲斐も最後に囁くような声でそう呟くと、食事を摂るために立ち上がろうとする、が――

「あれ?」

 そこで自分の服の裾が雛のその白魚のような指に掴まれていることに気づいて、すぐにその動きを止めた。そして少し考えてから、浮かしかけていた腰をもう一度そこにおろして、

「やれやれ。仕方ないな」

 と優しげに笑うと、ゆっくりと裾を掴んでいた指を解いてその手を握る。そして空いていたもう一方の手で雛の手の甲をぽんぽんと軽く撫でてから、そのままぐぅと主張を始めた腹の虫を宥めるために自分の腹を押さえた。



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