「教授。岡崎教授」
「……ぅ、んぁ?」
「んぁ、じゃないですよ。最近データ集めで忙しいのはわかってますが、だからってこんなところで寝ないでください。折角奥に仮眠室もあるんだから」
「あぁ……」

 のっそりと突っ伏していた机から起き上がり、ポリポリと頭を掻きながら奥へと引っ込んでいく赤毛の女性の姿を見送ると、青年――門倉甲斐(かどくらかい)は苦笑を浮かべ、ついでに出てきた欠伸を噛み殺す。
 かくいう自分も徹夜で作業をしていたことだし、もう今日は家に帰って寝ることにしよう。

「ふぎゃ!? ちょ、ちょっと教授、いきなり上にのしかかってこないでくれよっ。こっちのベッドはアタシが使ってるんだから、教授はそっちの方に……ってだからそのまま寝るな! 重いってば!」

 甲斐が荷物をまとめて帰る準備をしていると、奥で何やらバタバタと騒がしい声が。大方寝ぼけた岡崎教授が、先に仮眠をとっていた助手の北白河ちゆりの寝ているベッドに入ったのだろう。これはこの研究室では割とよくみられる光景なので 、甲斐は特に気にせずそのままその騒ぎに背を向けて研究室から出ていった。

 そして機械によってちょうどいい気温に調整されていた大学構内から出ると、すぐにうだるような暑さが身に直撃する。
 季節は夏。道路を一人歩いていれば、アスファルトが溶けて靴の跡を残し、目を凝らせばそこには陽炎がみられる。一昔前には世間でよく温暖化だ環境問題だとメディアで騒がれていたが、そう言いたくなるのも分かるような……そんな冗談のように暑い真夏日だった。

「ふぅ……」

 ほとんど無意識に溜息めいた吐息を漏らしながら、グイッと額に浮いた汗を拭う。

 日本の首都がかつての東京から京都へと移されて、もう暫く経つ。都市機能も次第に移されていき、一部地域に高層ビルのような高い建物が増えたことも、この暑さの一端を担っているのかもしれない。
 これは京の都の景観を損ねるか、それともそこで過ごす人間の快適さを損ねるか。そんな択一の選択肢だったのだろう。

 まあ、個人的にはどちらでも構わない。全ては時代の、世界の流れのままに。その中に生きる一人の人間として、受け入れながら生きて行くだけなのだから。

 そんな事を考えて、なんとなく苦笑して空を見上げる。そこに浮かぶのは、ジリジリと照りつける太陽の姿。どうにも暑さに頭がやられて、思考が変な方向に向かっているようだ。睡眠不足真っ盛りなのも、原因の一つかもしれない。

(さっさと家に戻って、み〜こと謹製のアイスでも食べてから一眠りしよう)

 そんなことを考えつつ、その甘さと冷たさを思い浮かべながら甲斐が再び前を向いて歩き出した、その時だった。

「ん?」

 思わず小さく声を漏らして、立ち止まって正面にあるものを見つめる。その視線の先にあるのは……歩道の隅っこに広がる、黒ずんだ陽炎のような何か。

(……なんだ、あれ?)

 大きさはだいたい人間大くらい。あえて無理に言葉にして表現するのなら、立体映像で作った黒い寝袋、と言ったところだろうか。

(――って、流石にそれは無理がありすぎるか。我ながら語彙が貧困というか、表現力がないというか)

 などと内心で自嘲気味に苦笑しながらも、少し近づいたり遠ざかったりしてそれを観察する。しかし目の錯覚のたぐいなら距離で見え方に変化の一つもあるはずだが、それもない。
 となると後は、寝不足が行き過ぎて幻覚を見ているとか、そんなものくらいしか候補に残らないが……

(まさか一日徹夜したくらいで、そんなことになるとは思えんのだけどな……)

 まあこのまま一人でうだうだと考えていても埒があかないだろうし、この際だからもっと近づいて、可能ならば触ってみるとしよう。それが何かの現象――幻覚含む――ならば、手で触れることはできないだろうが、何か一つくらいは分かることがあるかもしれない。
 そうして思考を打ち切り、甲斐があと一歩でそれに触れる距離にまで届く、というところで――

「……お待ちなさい。それ以上、私に近づいてはいけないわ」

 どこか息絶え絶えな、だけどしなやかさは損なわれない……そんな不思議に綺麗な声が、甲斐の耳に届いた。
 反射的に足を止めて、辺りに視線を巡らせる。そしてこの声の主は何処に……という疑問は、足元にあった不思議な陽炎だったものに視線を向けた時に、氷解した。
 その時甲斐の瞳に映っていたのは……地面に倒れ伏し、顔だけをこちらに向けている緑髪の少女の姿。
 そこに人などいなかったはずなのに、確かに声は彼女が発したものだった。

(まさか、地毛ではないよな?)

 染めたにしては、やけに自然で鮮やかな美しい艶と色。それが染料によるものなら、さぞやその筋には人気のものだろう。服装もやけにゴスロリチックだし、もしかしてバンドでもやっているのか、それともコスプレが趣味なのか。

(それにしても……)

 普段なら、今のように人が倒れていれば取り敢えず声をかけて場合によっては救急車、といったところだろうが……どうにも妙だ。
 甲斐はそのまま倒れている少女の言葉に返答もせず、一度距離を取る。そしてもう一度同じ位置に立つと、右の肘に左手を添えてそっと顎を撫でた。

 今しがたの行動で、分かったことは二つ。距離が離れると、先ほどの黒い陽炎のようなものに見えて、近づくと今のように少女の姿に見えるということ。
 それを頭の中で確認すると、次に甲斐はその間にふらふらと起き出して立ち上がっていた少女の正面まで近づき、

「ちょっと失礼」

 と声をかけて、ぽんと軽くその細い肩を叩いた。

「……?」

 彼女は初め、最初の言の通り甲斐が己に近づくのをよしとしないのか眉を潜めていたが、その行動の意味が理解出来ずに今は訝しげに首をかしげて甲斐を見ていた。しかし甲斐はその怪訝そうな視線を気にもせず、更に頭の回転を早めていく。

(問題なく触れる、か。これで夢幻のたぐいであることは、否定されたな)

 まあそれには自分の頭がまともであるのなら、という条件はつくが……己の正気を自分で疑っても仕方が無いので、今はそれは考えない。
 予想。仮定。想像。可能性。様々な考えが甲斐の頭の中を巡っていく。そのどれもが、目の前にいるこの少女の正体に対するものだったが――

「ぅ……」

 その思考は、彼女がふと漏らした小さなうめき声に遮られた。そこで甲斐が顔を上げてもう一度そちらを見ると、そこには再び地面に倒れようとしている緑髪の少女の姿が。

「え、おい!?」

 それに慌てた甲斐は、すぐに考えることに夢中になりすぎていた自分に内心で罵倒を浴びせながら、その華奢な体をなんとか地面に倒れ込む前にギリギリで抱きとめた。

「……これは、どうしたもんかな」

 相手が普通の人間なら熱射病か何かかと思うところだが、どうにもこの少女は普通ではなさそうだ。となれば果たして、このまま普通の対応――軽度なら水分補給をして木陰などへ、重度なら病院へ連れて行く――をしてもいいものか。

 一度体勢を立てなおして少女を背中に背負った甲斐は色々と考えた末に、取り敢えず自分の家で寝かせて、それで目を覚ましたら本人に確認しようという結論を出す。
 幸いなことに、家は一軒家だ。仮に何かがあったとしても、近所の人に迷惑がかかるということは早々あるまい。

「そうと決まれば善は急げ、だな」

 このまま日光降りしきるこの場にとどまり続けるのは、少女にも自分にもあまりいいことはないだろう。そう考えた甲斐はもう一度背負い直して落ちないように気をつけると、家路を急いで足を早めた。



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