「はい、これ。淹れてくれる?」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
 博麗神社に来るのも、今日で三度目。ここまでの道のりにも随分慣れた。元々幻想郷に来てから人里と家との往復生活でそれなりについてはいたけど、あの長い階段を昇り降りしているうちに、なんだか更に体力がついた気がする。
 掃除、洗濯、お茶くみ。何故だかここに来るたびに、僕は博麗の巫女こと、博麗霊夢さんに家事を手伝わされている。
 いや、手伝いというのは語弊があるか。僕がいるときはいつも彼女は縁側でお茶をすすってこちらを眺めているだけなので、もっぱら僕が主体で家事をしているのだから。
 僕が来るたびに、霊夢さんはただただ怠けてごろごろしている。だけど僕はその姿を見るたびに、怒るどころかむしろ無防備な姿を見せてくれることに対する喜びを感じてしまっていた。我ながら、重症だと思う。
 それと同時に一つ思うことは、実は彼女は僕が来ている時だけに、わざとだらしなくしてるのではないだろうかということだ。彼女の僕に仕事を頼むときに見せてくる、僕を覗き込んでくるあの瞳。それがなんだか僕を試しているような気がしてならなかった。
 それにそもそも、彼女は普段、一人で生活しているのだ。幻想郷での生活は、水一つ汲むのだって一苦労。実は思いの外、一人暮らしというのは大変なのだ。僕はこちらに慣れてしまった今となっても、家の家事を全てこなすとなったら二時間以上はかかってしまう。こんなぐうたらしていては、こんな所で一人で生活できるはずもない。
 もっとも、先程も言った通りこれが彼女の素なのだとしても、僕は全然気にしていないのではあるが。
 繰り返すのもなんだけど、我ながら重症だなととみに思う。
「急須持ったまま固まって、どうしたの? 出来れば早くお茶が欲しいのだけど。それとも、何かあった?」
「あ、と、すいません。何でもないんです」
 僕は彼女の声に我に返り、こぼさないように気をつけながら急いでお茶を淹れた。
「……、どうぞ」
「ん、ありがとう」
 お茶を渡したときの彼女の小さな笑顔を見て、それまでの疲れも気にならないほどの幸せな気分に浸っている自分に、思わず内心で苦笑を漏らす。
「まずいとは言わないけど、まだまだね。八〇点ってところかしら」
「そうですか……。自分では結構上手く淹れられたかと思ったんだけど、駄目でしたか。……すいません」
 以前に一度だけ霊夢さんに淹れてもらったお茶は、凄く美味しかった。その彼女がそういうのだから、まだまだ精進が足りないのだろう。
 そうして僕が軽く落ち込んでいると、
「でもまあ、随分良くなったんじゃない? 初めの頃は全然だったけど、この分ならもう少しね」
「え?」
 今のは慰めてくれたのだろうか。そう思って顔を上げるも、霊夢さんは顔を逸らして空を見上げていた。
 だけどその横顔が、陽の光ではない色にわずかに染まっているような気がして、僕は思わずくすりと笑う。
「……なによ?」
 そのぶっきらぼうな言い方が、なんだかむしろ温かい気持ちにさせられて、僕は再び微笑を漏らす。すると彼女は、今度は無言でプイッと顔を逸らしてしまった。
 そこでふと、霊夢さんの横に置かれているお盆の上に、淹れた覚えのないお茶がもう一つ置かれていることに気づいた。そしてその横には、人一人、二人分のスペースが空けてある。
 いつの間に、とか。座ってもいいのか、とか。そういう事を問うのは、きっと無粋というものだろう。
「……ありがとうございます」
 僕は小声でお礼を言うと、お盆を挟んだ彼女の隣りに座ってお茶をすする。その時霊夢さんがこちらを見ないで小さく頷いた気がしたけど、それが本当なのかは彼女のみが知ることだろう。


「あれ? 今日はあの焼き鳥屋はいないの?」
「あ、はい。何でも人里で急病で倒れた人が出たそうで、そっちに」
 霊夢さんが言っているのは、藤原妹紅さんのことだ。彼女は竹林で永遠亭までの案内役をしているのだが、神社への道のりもそれなりに危険。それで彼女が護衛を買って出てくれていたのだが、今日はそういう都合で一人で来ていた。
「別に大丈夫ですよ。もう随分慣れたし、今日までにも一度も襲われたことなかったですから」
「そう」
「それじゃあ今日はこれで。また来週にでも来ますね」
「分かったわ。じゃあね」
 相変わらず、素っ気無いものだ。だけど、それが彼女なのだろう。僕はそんな態度を取られても、むしろ上機嫌で鳥居をくぐり長い石段を降りて行った。
 森の中、踏み均されただけに見える、細い道を行く。
 人里までは、あと一〇分ほどだろうか。あと少しで着くな。人里に着いたら、また彼女へのお土産でも見繕うとでもしようか。ああ、でも食べ物にするなら次行く時に買わないと、悪くなっちゃうな。
 そんな風に、油断していたのがいけなかったのだろう。
「おー、こんな所に人間だ。珍しいなー」
「え?」
 そうして僕の目の前には、金の髪に黒の服の妖怪が現れた。闇夜を引き連れ姿を見せる、よく人里でも注意を呼びかけられている妖怪だった。
「これは食べられる人類だなー。それじゃあ、いただきまーす」
「あ、うわあ!」
 咄嗟に迫ってきた弾幕を、横っ飛びに避ける。ただの人間に弾を避けられたことが気に食わなかったのだろうか。目の前にいた妖怪は若干むっとした様子で、今度は到底避けられないような、まさに『弾幕』の言葉に相応しい密度の弾を放ってきた。
 これはもうダメだ。あとはきっと気絶して、この妖怪に食べられるだけなのだろう。そう思って目を瞑ったけれど、いつまでたってもその時が訪れない。
 疑問に思って恐る恐る目を開けると、そこには――
「やっぱりこうなったわね。あなた、いい加減懲りたほうがいいわよ? ホント、無用心すぎるわ」
 何か薄い壁のようなものを出して弾幕を防ぐ、霊夢さんの姿があった。
「う、紅白だー」
「妖怪を見かけたら取り敢えず退治するのが巫女の務め。悪いけど、祓わせてもらうわよ」
「そーなのかー……」
 そう言って、霊夢さんはあっさりとあの恐ろしい妖怪を追い払ってしまった。放たれた弾幕はひらりと避け、そして妖怪に対しては不可避の弾幕を放つ。その戦いぶりは、これが博麗の巫女なのだと、まざまざと妖怪に対して……そして僕に対しても、はっきりと示すものだった。
「ふう。まったく、もう少し気をつけなさいよね。別に私だって鬼じゃないんだから、一言頼んでくれたら帰りの護衛くらいするわよ。めんどくさいけどね」
 地面へと降り立った霊夢さんが、そんな事を言う。だけど僕は、それに何も返すことができなかった。
「ってあなた、どうしてまた泣いてるのよ。そんなに怖かったの?」
「……そうじゃない。そうじゃないんです。すいません……」
 僕は、勘違いをしていた。
 こうして神社へ行けるようになって、霊夢さんと話すことができて、一緒に縁側に座ってお茶を飲むこともできて……あの地平線の先に、僕はたどり着けていているのだと思っていた。だけど僕と彼女の間には、こんなにもハッキリとした線が引かれていたんだ。
 それはまるで、コントラストのように。力なき者と、力ある者。その二つを分かつ、ハッキリとした二色の線。
 彼女は人間とは言え、妖怪にも引けを取らない……大妖怪すら退ける、博麗の巫女。対して僕は、正真正銘何の力もない、ただの人間だ。彼女があっという間に退治してしまうような妖怪にすら、為す術もない。
「……送って行くから、つかまりなさい。いつまでも泣いてないで」
 こうして泣いていたとしても、霊夢さんを困らせるだけなのだということは分かっている。だけど目の前にいる彼女がまるではるか先……地平線の彼方まで遠ざかってしまったような、そんな気がしてしまっていた。
 それは母の元から引き離された幼子のような、そんな切なさと心細さ。
 いつの間にか僕は、誰も頼りにできないこの世界で、彼女をこそ心の拠り所にしていたのだ。


「それじゃあ私は帰るわ。……今度来たときは、そんな泣き顔見せないでね。神社が辛気臭くなっちゃうもの」
 困ったような霊夢さんの表情と、戸惑いを滲ませたそんな言葉。
 だからもう泣くなと、彼女のそんな不器用な優しさにも、上手く返事を返すことができなくて、ただただ頷くだけだった。
 そうして空を見上げると……地平線の先には、赤と白のコントラスト。いつか魅せられた、いつもここから見ることのできる、美しい空の風景。
「遠いなあ……」
 一度は近づくことが出来たと思っていたあの空へ、いつか行くことはできるのだろうか。
「だけど……」
 きっと僕は、あそこにたどり着くその日まで、歩き続けることを止めることはもうできないのだろう。あの日、彼女と会った初めての日に、僕は一歩踏み出すのだと、そう決意したのだから。そして何より、あの日見ることのできたあの空が……あまりにも、美しかったから。
「頑張ろう」
 僕はどさりとその場に仰向けになって、夜になるまでずっと一人で空を眺めていた。



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