ずっと、空を飛びたいと思ってた。地平線の先には、空に映える赤と白のコントラスト。いつかあそこにたどり着きたいと、ずっとずっと想ってたんだ。


「あら……。うふふ、こんな所で力もないのに一人でのこのこ歩いているなんて……まるでネギを背負っているカモ。最近ではあまりみないタイプの人間ですわね。人里の人間ではないのかしら」
 人里から家へと向かう途中の坂道で、バッタリ遭った何かの妖怪。ここ幻想郷では、妖怪に出会ってしまうのは何かの事故のようなものだ。出会うまでは気をつけることができるが、出会ってしまったら避けることはもはやできない。
 妖怪は、人を糧とし己を保つ。
 人やその他の動物と同じように、食した人を血となし肉となしているのかはわからない。妖怪は時に人の精神……恐怖をも糧とするからだ。しかしこの目の前の妖怪がどちらを食すのだとしても、自分にとって結果は変わらない。どちらか一方……精神が欠けようと肉体を失おうと、同時に両方が存在していなければ人は生きていけはしないのだから。
 目の前の妖怪は、人語を解し人型をしていた。幻想郷において飛行できる人型の妖怪は、大抵の場合強力な――人間にとっては――妖怪である場合が多い。まさかただの人間である僕を、取り逃すこともないだろう。
 もはや慌てる気も失せた。僕は逃げることも背を向ける事もせず、ただただ無言で目を瞑る。
「まあ、随分と潔いのですね。もう少し抵抗してくれたほうが、ワタクシとしても食べ甲斐があるのですが」
 ……。いつかは、こんな日が来るのかもしれないと思っていた。
 温かくも平凡な家庭で育ち、ある時神隠しに逢って外来人として幻想郷に来て、神社を通らずとも偶然人里にたどり着けて……
 そしてあの空のコントラストに魅せられて、見失わなってしまわないようにと皆の忠告を無視してまであの人里離れた小高い丘に居を構えてから、いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。
 だけど……それでもいいと、そう思えたから。
 あの"空"を見上げ続けられるなら、死んでしまってもいいのだと思えたから。
 だから未練はあれども、後悔はない。このまま死んで閻魔さまのところへ行けたなら、素直にあの世へ歩んでいこう。願わくば……次の生では今度こそ、あの"空"へとたどり着けますようにと偲びながら。
「あれ? あなた、こんな所で何してるの?」
 何してる、とはどういう意味だろうか。なんで今さらそんなことを?
「ちょっと、無視しないでよ。こんな所で人間がひとりでぼーっとしてるなんて、妖怪に襲ってくれって言ってるようなものじゃない。めんどくさいけど、一応そういうのを見過ごすわけにも行かないのよ、わたし」
 そこでようやく、僕はこの声の主が先程まで目の前にいた妖怪とは別の人物であることに気づいた。
 僕ははっと目を開いて、慌てて声の方へと振り向く。
「あ、ようやくこっち見たわね。あなた、人里の人間? 送ってくから家の場所教えなさいよ」
 そしてそこにいたのは、空に見たコントラスト。この幻想郷で最も変わった人間と言っても過言ではない存在、博麗霊夢だった。
「え、ど、どうして博麗の巫女がここに……?」
「どうしてと言われても……まあ、通りすがりといった感じかしら。……というか初対面なんだから、さんぐらいつけてもいいんじゃない? 人里でのわたしの評判くらい知ってるから、別にいいけど」
「あ、そ、そうですね。すいません」
 僕は慌てて頭を下げるが、しかし彼女は言葉通りどうでもよさそうに首を振った。
「それよりあなた、さっきも聞いたけどこんな所でどうしたの? こっちには何もなかったと思ったけど、竹林に行こうとして迷いでもした?」
「あ、あの、えっと、そのですね……」
 どうにも緊張してしまって、上手く舌が回らない。しかし、それも無理からぬ事だろうか。今まで遠くから見るだけだった人がいきなり目の前に来てしまって、正直僕は舞い上がってしまってるみたいだ。
「? どうしてそんなにビクビクしてるわけ?」
「す、すいません。なんでもないんです」
 僕は再び慌てつつもすぐに謝り、
「そう。まあいいけど。それで?」
 そしてやはり彼女も再びどうでもよさそうにそれを流して、話の先を促してきた。
「いえ、その……僕の家が、こっちなんです。この先の丘の上にあって……」
「あら、そうなの? なんでまたそんな辺鄙なところに。あなた別に魔法使いでも能力持ちでもないわよね?」
 すうと小さく息を吸って、緊張を追い出すように吐き出す。そうしてようやく少しだけ落ち着けたので、僕はゆっくり慌てないように気をつけて彼女の問いかけに頷き答えた。
「えっと、はい。一応外来人ですけど、普通の人間です」
「外来人? それにしては見覚えないわね」
 小首を傾げる彼女に内心ドキドキしながらも、どうにかそれを顔に出さないようにして答える。
「それはあの、僕が自力で人里まで行ったからだと思います」
「ああ、それで。案内も無しにたどり着くなんて、あなた運がいいのね。たいていの場合そういう外来人は妖怪に襲われて食べられちゃうんだけど」
「ええ、まあ。それで運の良さについつい油断しちゃって、さっきは妖怪に食べられそうになっちゃいましたけど。そういえばあの妖怪、どこ行ったのかな。博麗の巫女さんが来たのに気付いて逃げたんだろうか」
「そんな堅苦しい呼び方じゃなくて、霊夢でいいわ。ところでその妖怪、どんなのだったの? 見た目は?」
「ええと……」
 僕は少し視線を上にあげて、先ほどの妖怪のことを思い出す。
「ちょっと派手めの服を着た、妙にとらえどころのない感じの妖怪でした。特にこれといって特徴がなかったので、種族は分かりませんでしたけど……」
 僕がそう答えると、なぜだか博麗の巫女……霊夢さんは、疲れたような呆れたようなそんな表情をしてため息を吐いた。
「やっぱり……。何のつもりなのかしら、あいつ……」
「え?」
 その呟きがよく聞こえなかったので聞き返すと、彼女は小さく首を振って、
「ああ、気にしないで。こっちの話」
「はあ、そうですか」
 どうやら答えるつもりはなさそうな様子だったので、僕も気にしないことにした。
「まあいいわ。それじゃああなた送ってくから、わたしの腰にでも掴まって。歩いたより飛んだほうが早いからね」
「え……?」
 その言葉に、思わず固まる僕。
「ほら、何してるの。早くしなさい。置いてくわよ?」
「あ、あ、す、すいません」
「あなた、すぐに謝るのね。別に怒ってないんだから、いちいち謝らなくていいわよ」
「……はい」
 それは、昔からよく言われることだった。すぐに謝るのは、人間関係に臆病な証拠。僕は昔から勇気がなくて、いつも一歩踏み込むこともできなかった。だからこうして今も、憧れていた彼女が目の前にいるっていうのに、何も言えないでいる。
「それじゃあ……その、失礼します」
「そんな畏まらなくても。じゃ、行くわよ。飛ばすからしっかりつかまってなさいね」
「わ、分かりました」
 僕がコクリと頷くと、ふわりと小さく浮遊感。
 そして……
「ああ……」
 空は、とても綺麗だった。そしてその空に映える、赤と白のコントラスト。ずっと……いつかたどり着きたいと思っていた、あの空に、僕はとうとう来れたんだ。
 心が、震えた。
「あれ、なんで泣いてるの? どうしたの。ひょっとしてあれ? あなた高いところがダメな人?」
「す……すみません。グスッ、……ちょ、ちょっと、感動しちゃって……」
 頬を伝うは、熱い雫。込み上げる気持ちが抑えきれなくて、いつの間にか僕は涙を流していた。
「? 感動って、何に?」
「空が……、それに飛んでいるあなたの姿が、とても綺麗で。いや、違うな。綺麗、なんて言葉じゃ表せないや。どうしてだろうな……。どうしてあなたの飛ぶ姿は、こんなにも僕の心を惹きつけるんだろう……」
 こうしている間にも、心に満ちるのは熱い気持ち。叫びだしたくなるような、逆に静かに浸っていたくなるような……そんな、なんとも言えない震えるような切ない気持ち。
「な、なによ藪から棒に。真顔で言うことじゃないわよ。あなた恥ずかしくないの?」
「ちょっと恥ずかしいです……」
 だけど、そんな事も気にならないくらい、僕の心は満たされていた。
 そうして僕が顔を上げると、彼女の顔はどこか赤く染まっていた。馬鹿にしたような言葉とは裏腹に、その表情に浮かんでいるのは羞恥のみ。どうやら先ほどの言葉は照れ隠しか何かだったようだ。
「……」
「……」
 その後は、ひたすらに無言だった。彼女はどこか居心地悪そうに。僕はただただ泣き続けて。
「……着いたわよ。あれでしょ、丘の上の家って。他になかったからわかりやすかったわ」
「はい。ありがとうございました」
 僕は涙をぬぐいながら頷いた。
 足が地面について、とうとう終わりの時がやってきた。だけど……僕は、これで終りにしたくなかった。それが今だけの逸った気持ちなのか、それともそうではないのか。自分では分からなかったけど、今日くらいは、いつもの臆病さを忘れて、勢いに任せてしまってもいいのではないか。
 そう思った僕は、いつもとは違い、一歩前に歩み出ることを決意した。
「あ、あの!」
「な、なに? まだ何か用?」
「その……こ、今度、神社に行ってもいいですか!? 僕、また霊夢さんに会いたいんです!」
 そうして勢いに任せて、名前まで言ってしまって。だけど彼女はプイッと顔を反らせると、ひらりと身を翻して飛んでしまった。
 ああ、やっぱり駄目だった。僕がそう思って肩を落としたその瞬間、
「……お賽銭。小銭の一つくらい持ってきなさいよ?」
 彼女はチラリとこちらを見て、それだけを言ってから今度こそ飛び去った。
 そうして地平線の先には、赤と白のコントラスト。いつもここから見える、美しい空の風景。
「あれは、いいってこと……だよね?」
 言葉と一緒に、溢れる笑顔。それはこの幻想郷に来て一人になってしまってから、初めての心からの笑顔だった。



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