土樹良也事件簿 春本事件。或いは我輩は猫である。
ふと、匂いを感じ取り私は鼻を鳴らした。
記憶を探れば、確かこれは前に私の家へやって来た人間の匂いだ。人間にしては珍しく見所のある若者で、二度目に訪れた時に持ってきた土産が絶品だったのを覚えている。
確か外の世界産、特製マタタビと言っただろうか? あの魔法の粉は。
「ちょっと、アンタどうしたのよ?」
掛けられた声にはっとした。いかんいかん、どうやらマタタビの記憶に意識を飛ばしていたらしい。
連れにナー、と一声鳴いて問題ないことを知らせ、そのまま歩き出す。
しかし、彼女は彼の匂い感じなかったのだろうか? 嗅覚はそれ程変わらない筈だから、違いがあるとすれば注意力か……あるいは鼻の位置か。悔しい事だが、私と彼女の鼻の位置は随分と違う。私が低いのでなく、我々の種族の平均の数倍は彼女の背が高いのだ。
私の彼女は同種族だが、遠目で見てそれに気づく他種族は少ないだろう。
何せ、彼女は人間の姿をしているのだ。
共通点と言えば耳と尻尾位。それすらも私は常識的な一尾、彼女は非常識的な二尾。
と、このまま進んでは彼の匂いから遠ざかってしまう事に気付いた。
「あ、違うわよ! 今日のお使いはこっちの店なんだから!」
止める声が響くが、生憎と今の私には効果が無かった。彼の匂いに釣られて思いだしたマタタビが私を細い路地裏へと強制的に引っ張って行く。
「ちょっと待ちなさい! ああっ、もう! 折角慣れて来たと思ったのにー!」
怒声へと変わった叫びを背に奥へ奥へと走って行く。時折妬ましくなる彼女の姿だが、狭い場所ではこの体の方が断然有利。当然、声は段々と遠くなった。
ペロリ、と舌で唇を舐める。今日の彼はマタタビを持っているだろうか?
そういえば。
先程は私と彼女が同種族と言ったが、綿密に言えばそれは嘘だ。
狭い路地に四苦八苦している間抜けは猫は猫でも猫又の式。確か人に呼ばれる名前は、橙と言った。
対して、華麗に路地の薄暗がりを走り抜ける私は完全無欠に立派な只の猫である。
「よう、良也。それで例の本はちゃんと持って来てくれたか?」
「持って来たよ。でもさ、ガンさん。もう勘弁してくれないか? 今日だって偶々神社に居た魔理沙にリュックを漁られて、ヒヤヒヤしたんだから。霊夢だって居たし、バレたらどうなった事か。隠しポケットに入れていて助かったけどさ」
「いいじゃねぇか、礼はたんまり弾むからよ。外のこういう本は此方じゃまず手に入んねぇ。手に入れる手段がねぇんだ、お前も男なら協力してくれよ」
私が彼――そう、良也と言うのだった。良也の元へ辿り付くと、唐突に視界が開けた。
そこは人里の端、寧ろ殆ど人里の外と言っても良いような場所だ。草木は人の手という檻から逃れて活き活きと伸び盛り、僅かな空間を残して深い緑に覆われていた。
そこで良也は見知らぬ男とどうやら商談をしていたようだ。
「森近さんの所じゃ手に入らない? あそこなら外の本も幾つか置いてあるだろ?」
「あそこかぁ……。確かに前にそれとなく聞いてみた事があるんだが、あの店は空飛ぶ嬢ちゃん達の御用達だろ? どうもそれ系の本は意識的に外してるみたいなんだ」
「えぇ……? フィギュアは有りなのにそんな理不尽な」
「フィギュア? ああ、あの女物の人形の事か? そりゃあ別に人形は置いていても問題ないだろ。寧ろ空飛ぶ嬢ちゃん達だって娘っ子には違いないんだし、そういうのが売れるんじゃねぇのか?」
「いや、確かにコレよりかはマシなんだけど……」
「実際娘の誕生日の贈り物にしようかと思ったんだが、どうも注文は受け付けてねぇみたいなんだ。そうだ、あれの元ネタはお前が持って来たんだろう? こんどそっちからも頼んでみちゃくれねぇか?」
「止めた方がいいよあれは! ……いやそもそもだね、ガンさんは奥さんも娘さんも居るんだからこんなの止めない? 見つかったら不味いでしょ?」
「……カーッ! 解っちゃねぇな! これが持てる者の不理解ってヤツか! いいか、良也。こいつは俺一人の問題じゃねぇ。里に何人、彼女が居なくて寂しい思いをしている男が居ると思う? 俺も男だ、力になってやりてぇ。だが男と女の事だ、そいつがどんだけ想ってても、周りがどんだけ応援しても報われねぇ事は山程ある。そんな時、そいつを慰めてくれるのは何だ? 酒か? ダチか?」
言葉を途中で切って、厳つい顔の男は良也から受け取った紙包みを掲げた。
「こいつだろうがっ!!」
ばばーん!
……ふむ、どうやら商談をしていると思ったのは、私の勘違いだったらしい。
まあいい。二人は何やら訳の解らない話をしているが、私に必要なのはマタタビだ。更に良也が遊んでくれるのならば尚良い。
ナァー、ナァー。
声を掛け、此方の存在を知らせる。幸い、良也は私を一目見て何所で会った猫か判別したようだ。瞳に驚きの色が浮かぶ。
「あれ? お前もしかしてスキマの所の――っ! 誰だ!?」
ガサリ、と草を踏む音が後ろ……私が出てきた路地裏から鳴った。
眉を顰める。その主が足音を忍ばせていた事に気付いたからだ。
なんたる無様。同族――否、同属ともあろう者が気配を消して人間に気付かれるとは。
「ふ、ふふふ……。良くやったわ、流石わたしのしもべ」
だからそんなものになった覚えは無いと言うに。ニャー、の声にその意を乗せて伝えるも、毎度毎度この二又は汲み取ってくれない。
「まさかコイツの悪行を嗅ぎ付けていたとはね。私も主として鼻が高いわ」
やはり聞く気がないので、早々に諦めた私は良也の足元へ。彼のズボンを足場に二本足で立ち上がり、見上げてニャナァと強請る。
ねぇ、今日はマタタビ無いの?
「ちぇ、橙っ!? なんでこんな所に!?」
「そ、そそそそうだお嬢ちゃん。何だってこんな所にいるんだ。此処は里の外れだ、危ないからお家に帰んな!」
「……話は聞かせて貰ったわ」
ビクリ!
その声音に何を感じ取ったのか、男二人は震える。……どうやら話しに夢中でこちらの嘆願は気付いて貰えなかったようだ。
仕方ないので良也が背負っているリュックへ直接介入だ。本来持ち主の許可を取らずに荷物を漁るのは恥ずべき行為だが、此度に限って魔性の薬(マタタビ)が私を惑わせていた。所詮この身も畜生か。
「外の――それも、巫女に見せられないような本」
「うっ!」
リュックは彼が背負って立っている為、私に取ってかなり高い位置にある。不幸にも近くに足場になるようなものは無い。此処は助走によるジャンプで登る事にしよう。
「香霖堂の常連にも見せられないような……」
「い、いやそれはだな、嬢ちゃん」
一、二、三!
ジャンプによる飛びつきは成功し、立てた爪で布地を掴む。
「その上こんな所でコソコソと取引を……。解らないと思われているなら、とんだ侮辱だわ……! 紫様の友人であろうと、いいえ、友人だかからこそ! そんな物を持ち込んだあんたを罰するわ!」
「す、スキマは関係ないだろ!」
ぬっ、くっ!
飛びついてしまえば後は楽かとも思ったが、意外と登り難い。良也が身動ぎするのも登り難さに拍車をかけていた。
しかし、あと少しで頂上だ……!
「関係ない? よくもそんな事が言えるわね!」
声を震わせた橙はビシリと指を突きつける。その指さえも震わせ、大音声で口上を叩き付けた。
「諦めなさい、土樹良也! 神妙にその技術書を差し出して許しを請えば、或いは紫様の慈悲が降りるかもしれないわ!!」
「……え?」
「……は?」
後に良也は思い出す事になる。
あれは多分、
「外の――それも、(幻想郷を守る)巫女に見せられないような本」
「香霖堂の(力ある存在であり、場合によっては幻想郷のパワーバランス担う)常連にも見せられないような……」
という事を言いたかったんだろうな、と。
あと、菓子売りを始めた頃に技術書や機械の類を持ち込むようなら……。そんな注意をスキマ本人から聞いていたなぁ。
……『解らないと思われているなら、とんだ侮辱だわ』と言われても。
ごめん、橙。君――解ってないよ。
「……だからっ! これはそんなんじゃ無いんだって!」
「違うんなら素直に見せたらいいでしょ!」
じりじり、一人と一匹は睨み合いながら相手の隙を探している。
「見せられたらこんな苦労するかっ! 男には色々と事情があるんだよ!」
「怪しい! そんなので納得出来る筈ないんだから!」
激しくもない舌戦を行っている一匹と一人が……面倒くさいな、もう二匹としよう。二匹の戦いが弾幕ごっこへと発展しないのは理由がある。
良也が攻撃しないのは自分から見た目若年の少女へ手を出すのは気が引ける、という雄として当然の理由である。
対して、橙が手を出さないのは……はっきり言ってしまえば私の所為だ。背負っている本人は気付いてないが、私は良也のリュックの上にいるので弾幕ごっこが始まれば当然に巻き添えを食う。
つまり――きっと彼女はリュックからマタタビが出てくるのを待ってくれて居るのだ。 実際、バチコーン、バチコーンと目配せを送ってくる。早くしろと言っているのだろう。焦りながらも橙称しもべの事情を汲んでくれるのはありがたい。
(ああもうっ! 何してるのよアイツは! 余計な事してないで早く其処から退きなさいよ……!)
ここまで部下思いだとは、認識を改める必要がありそうだ。
しかし、こんな明らさまに合図を送ってバレはしないだろうかとも思ったが、
「……ガンさん、それを僕に渡して逃げてくれ」
「な、しかし良也よぅ。こいつは俺が頼んだ物だ、お前ばっかりケツ拭かせる訳にはいかねぇ。此処でお前を見捨てたら、男が廃るぜ……!」
「橙も空を飛ぶんだ、ガンさんの足じゃ追われれば逃げ切れない。どっちにしろそれば彼女達にバレれば僕達は破滅なんだ、一蓮托生。だったら可能性が少しは高い僕に賭けてくれ!」
「…………解った。確かに今の俺ぁ足手纏いだ。だから全部お前に賭ける! いいか、ミスった時、泥被んのは二人でだ。抜け駆けするんじゃねぇぞ」
「ガンさん……!」
どうやら二人で話し込んでいて気付かなかったらしい。その上リュックの上に居る私にもまだ気付いてないようだ。
カチャカチャ、カチャカチャ。
……留め金とやらが外れな――ニャッ!
「あ――っ! 逃げるなっ!」
「男にはなっ、逃げなきゃならない時があるんだよっ!」
くっ、せめて飛ぶときは一声かけて欲しいものだ。振り落とされなかったからいいような物を。
「……あれ? お前、なんでそんな所に居るんだ? とりあず危ないからこっち来い、飛ばすから背中じゃ流石に危ない」
言葉と同時、私は首筋を掴まれ彼の腕の中へと抱えられた。しかし、何故かと問われればマタタビを目指して、としか言いようがない。あの粉が悪いのである。
ニニャ。
「ああ、ひょっとして前にやったマタタビがリュックの中に入ってると思ったのか? ごめんな、今日は持ってきてないんだ」
何ですとっ!
告げられた非情な現実にクタリと体の力が抜けた。ああ、そうか。マタタビは……無いのか。
「しまったな、ガンさんに預けてくれば良かった。お前を連れたまま弾幕ごっこにする訳もいかないし……。あれ? そういえば橙は……?」
所変わって地上。
「……何よ、無事じゃない」
落ちてくる猫を捕まえようと地面近くを飛んでいた橙は、良也が猫を抱え直すのを見てそう呟いた。
それから二手に分かれて逃げた、走っていった方の人間へ顔を向けた。あちらなら簡単に捕まえられる。本の現物が無くてもあいつを捕まえて罪状を白状させれば、例え良也を逃がしてもそれほど問題はないだろう。橙にだってそれ位考え付く。
橙は走って行く人間を見た。次に、空を飛ぶ良也を見た。……最後に、その手の中の猫を見た。
「あっちの人間確か、奥さんと娘が居るって言ってたな……」
もう一度、走って行く人間を見る。
「……うん、それに免じて今回だけは見逃してあげる。だけど……」
キッ、上空を睨む。
大きく息を吸い込む。まるでそれこそが攻撃であるかのように、叫んだ。
「あんたは、逃がさないんだから――――!!!!」
「うわっ! ……噂をすれば、か。言わなきゃ良かった」
良也はタイミングの良い追手の登場に苦々しく溜息を吐き出す。しかし返事を期待していないだろうその独り言へ、意外にも反応はあった。
「確かに言うよな。でもさ、だったら来て欲しい奴の噂をしてたら召喚術の代わりになると思わないか?」
「そんな御都合主義な――って魔理沙!」
私がマタタビショックを受けている間に、気付けば近くに魔法使いが飛んでいた。黒白の衣装を棚引かせ、人の悪い笑みを浮かべて箒で空を飛んでいる。
「探し物があってここで飛んでたんだが……。なんだ、ありゃあ紫の孫式じゃないか。一体なにをやらかしたんだ?」
孫式……。そういえば橙は子分の子分だからか。考えてみれば下っ端である。
そしてもし私が橙の式となれば子分の子分の子分となり、今の言い方をすれば曾孫式となってしまう。
なんだか遣る瀬無い。
溜息の変わりに、ニャーゴと鳴いて息を吐き出した。
「不幸な擦れ違いだ。僕は橙に追いかけられるような事はしてないぞ」
「……ふーん。で? 私の噂は来て欲しい奴の噂か? それとも来て欲しくない奴の噂か?」
少女には似つかわしくない、ニヒルな笑み。
「そりゃあ、来て欲しい方さ。頼む、助けてくれ魔理沙! 今日だけは捕まる訳にはいかないんだ!」
「――へぇ。でもわたしだって逃がす訳にはいかないのよ」
下から、橙が登ってくる。
静かな緊張感。口火を切ったのは、最も喧嘩早い黒白の魔女だった。
「そうかい。でも生憎私もこいつに用があってね。貰って行くんだ……ぜっ!」
言葉尻と同時に色とりどりの弾幕が舞う。
……むぅ。
空中だと何かする訳にもいかず、そろそろ退屈して来た。
「ほらほらどうした、撃ち帰さないのか? 逃げてるだけじゃ良也を捕まえる事はできないぜ?」
「このっ! わたしにだって事情があるのよ!」
「……成る程」
チラリと魔女は私を見た。意味ありげに目を細めている。
目線を逸らして弾幕が緩んだ隙に飛び込もうとした橙へ、目線も向けずに牽制を撃つ姿は流石としか言い様がない。
「いいぜ、尋常に勝負しようじゃないか。良也、ちょっと地上で待っていてくれ。なーに、早々にこいつの相手を終らせてすぐに行く」
「……馬鹿にしてっ!」
雑魚扱いされた橙は激昂するが、まだ弾幕は放たない。
「……解った。悪いな、魔理沙」
「なに、御代は後でしっかり貰うんだぜ。だからちゃんと下で待っていてくれよ?」
…………。
地上から空を見上げる。
勝負はそれ程長く掛からなかった。
所々裾をほつれさせて魔女が空から降りてくる。
「いや、まいったまいった。あの猫、やたら気合が入ってて手間取ったんだぜ」
むしろ手間取ったのが嬉しいというのがバレバレの笑顔で彼女は言う。弾幕ごっこを好んでやる者には多い事だ。
しかしそれよりも落された連れの安否が流石に心配になり、ニャーニャーと魔女へ寄って問いかける。
「お? どうしたんだこいつ」
「橙の事心配してるんじゃないか?」
「へぇ、賢い猫だな。黒猫だったら連れて帰りたい所だぜ。安心しな、お前のご主人様は無事だよ。暫くしたら追っていくるだろ」
こちらの頭を撫でて魔女は言う。
だから私は橙の子分ではないというに。
「うわ。じゃあ僕は今の内に逃げさせて貰う――」
「まあ待てよ。幾らなんでも今の先刻だ。流石に今すぐどうこうじゃないんだぜ。……それよりも」
ニヤリ。
大胆不敵な笑顔が浮かぶ。何故か、良也は彼女が身を引いた。
「なあ良也。どうして私が人里の上空に居たと思う?」
「……えっと、確か探し物がどうとか言ってたな?」
「ああ。人里に来た時に見失ったんで、空から探してたんだが、見つかって良かったぜ」
一歩、良也は距離を取る。その額に汗を掻いているのが見て取れた。
手にもったままの紙袋がカサリと音を立てる。
「い、嫌な予感しかしないんだが……その探し物って、何だ?」
「朝から知り合いが何か隠し事をしててさ。後を尾行けてたんだが、今聞いた所によるとどうも、外の御禁制の本を持って来たらしいじゃないか。それを私に秘密にしてるなんて水臭いと思わないか?」
「やっぱりか――っ!」
言葉と同時に逃げ出す良也。だがそれを予期していたであろう魔女は箒へ跨り突進した。
「魔符! スターダストレヴァリエ!!」
「へへっ、それじゃあこれは借りて置くぜ!」
「…………す、スペルカードは卑怯だろ……。って、それは駄目だ。魔理沙が思ってるような物じゃないから!」
地面に突っ伏したまま良也は言う。まだピクピクしながらそんな台詞が出てくるとは意外と根性があるようだ。
だが魔女の方はそんな彼から奪った紙袋に御満悦だった。
「安心しな、峰打ちだぜ」
哀れになった私は彼を慰めてやる事にした。
私の所まで来た――地面に突っ伏している頬に頭を擦り付ける。
ナァー。
元気出せよ、その内良い事あるさ。
「じゃあ、早速拝見させてもらうぜ」
「だから止めろってっ! 魔理沙がそれを見ても何の得にもならないからっ、お願いだから止めてくれ!」
ん、中々触り心地が良い。
スリスリ、スリスリ。
思うさまに頭を擦り付けていると、唐突に相手の力が抜ける。
何かと思って動きを中断すればどうやら紙袋の中身を魔女に暴かれた事のショックで脱力状態になったようだ。
……? 何やら魔女の顔が赤い。紙袋の中身であろう本を開いた状態で固まっている。
「――き」
き?
「きゃあぁぁっ!」
唐突に悲鳴を上げると、手に持った紙袋と本を投げ捨て飛び去っていった。
訳が解らない。
そしてその声を聞いて、良也が更に沈み込んだのも解らない。
良く解らないのでそのまま擦り付けを再開する事にした。
ナァー。
ようやく敗戦のダメージから回復し、ヨロヨロと飛んでいた橙は前から来る黒白の姿に警戒態勢を取った。
だが、すぐにそれを困惑により緩める事になる。
相手が自分以上にヨロヨロと飛んでいたのだ。
「ちょっと魔理沙、どうしたのよ」
「……あ、ああ、孫式か。いや、別にどうもしないんだぜ」
言葉とは裏腹に、声は精彩を欠く。頬は赤く、どこか上の空だ。
見る限り負傷もなく、汗の痕跡もない。だから自分の後に誰かと弾幕ごっこをした訳でもないだろう。
四半刻もしない内にあの元気の塊がここまでしおらしくなるとはどういう事か? おまけにこちらの邪魔をする気配もない。
流石に不審に思った橙は、直接聞いてみる事にした。
「どうもしないわけないでしょ? 先刻まで『その本は私が頂くぜっ!』って元気一杯だったのにどうしたのよ」
「そっ、そんな事ないぜ? いや、むしろ『その本』なんて私は知らないぜっ!」
何故か顔を更に赤くした魔理沙の台詞に、橙はさらに困惑した。
「はぁ? 何言ってるの、確かに『そんな大層な本なら私も是非研究したいぜ、有効に活用してやるから安心して寄越しな』って言ってたでしょ?」
堂々と自分に向かって行われた宣戦布告を引き合いにだした橙は、およそ信じられない物を見た。
「う、うううう……!」
あの魔理沙が顔を手で隠して身悶えし始めたのだ。
呆気に取られた橙の前で魔理沙は暫く体をくねらせた後、はっ、と気付いて箒を握り締めた。
「と、とにかく私は『その本』の事なんか知らないし、なによりそんな必死に欲しがったりしてないっ! そんな台詞も言ってないっ! いいか、言ってないんだからなっ!」
顔を隠すように頭を箒に付けた極度の前傾姿勢を取ったかと思うと、とんでもないスピードで飛び出した。
はしたなくも口を開けたままそれを見送った橙は、
「……言ってないんだからな――っ!」
との遠くからの声を聞いてもしばらく口を閉じる事が出来なかった。
「…………なんなのよ、あれ」
沈黙した良也が復活したのは、暫くしてからであった。
ちなみにその間私は彼の体を登り台にしてあそんだり、リュックの金具に再度挑戦したりと獅子奮迅の活躍をみせていた。
復活した彼はひどく侘しい背中で魔女が投げ捨てた本を拾うと元通り紙袋に収め――ようとしたようだ。
「な――無いっ!?」
愕然とした顔で慌しく辺りを探し回る。その手には傍目から見て中身が入ってないと解る紙袋。
「何処だ何処だっ!? 確かにこの辺りに投げ捨てられた筈……!
未だかつて見たことの無い真剣な表情で草を掻き分ける良也。
ふむ。どうも中身の本を探しているようだが、確かあれは良也が突っ伏している間に――
「あーっはっはっは! どうやらあれはアンタにとって大事な物のようねっ!」
どこかの子供がこっそりと拾って行ったのだった。
「っ! その声、チルノか!」
「そのとーりっ!」
声と同時、中空に小柄な人影が躍り出る。
ブルリ。
唐突に寒気を感じ、体を震わせる。どうもあの子供は尋常の存在ではないようだ。
警戒しようとして……なにか、今更な気がしてきた。
こちらに敵意が向いてない事を確認して、背伸びを一つ。
寒風を凌ぐよう丸くなる。
「なんだか面白そうだったから拾ったけど、大正解ね!」
「お前が持っていったのか!? 馬鹿っ、お前はまだあんな物見ちゃいけませんっ! さっさと返せ!」
「……む〜、立場が解ってないようね? なんだか知らないけど、あれは大事な物なんでしょ? ふっふーん、そんな態度でいいの?」
「っく! 一体なにが目的だ!」
二人は喧嘩に近い会話をしているようだが、そのテンションが上がるにつれて寒気も強くなる。
止めてくれないだろうか。
「ふふん、前にアンタにはひきょーな手で引き分けに持ち込まれたけど、あたいが本気になればアンタなんてちょちょいのちょいって事を教えに来たのよ。さあっ! あの時のくつじょくを晴らす時が来たのわっ!」
「待ていっ! あの時の話は小町がサボった時に決着が付いた筈……」
「問答むよーっ!」
「くそ、今日は人の話を聞かない奴ばっかりだ。いいだろう、僕だってあの時から進歩したって事を教えてやる!」
二人は上空へと飛び上がった。同時に暖かさもゆっくりと戻っていく。
やれやれだ。
「今度こそあたいがサイキョーだって事を教えてやるわっ!」
「僕が勝ったら本を返して貰うぞ、チルノ――っ!」
本日二度目の地上から見上げた弾幕ごっこは、一度目より幾分かしょぼかった。
ガサリ。
二度目の空の上映会に退屈し眠っていた私は、耳をピクリと動かした。
眠気を残した目を向ければ、先程の少女と似たような体格のこれまた少女が立っている。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
ニニャァ。
かまわん、どうせそろそろ起きようと思っていた所だ。
「出来るだけ静かにするから、許してね。……まったく、チルノちゃんったら変な物盗って来て。良く解ってなかったのが幸いだけど……」
ブチブチと赤い顔で呟く少女には、あまりこちらの意図は通じないようだ。
まったく……。良也ならば大抵の事は聞き分けてくれるのに。
そんな事を思っている内に、少女は良也が置いて行った紙袋に手に持った本を詰めた。今気付いたが、少女は先程良也が探し回っていた本を持っていたのだ。
彼女はそのまま二人が弾幕ごっこをやっている上空に飛び立った。
「こらー!! 二人とも止めなさ――い!」
地上までも聞こえる大喝に一瞬二人の動きは止まり、その後はどうやら何か弁明してるようだ。が、昇っていった少女が二言、三言叱った所で揃って項垂れながら降りて来る。
「だから大ちゃん、あれは落ちてるのをあたいが拾ったんで……」
「言い訳しないっ!」
ビシリ!
気持ちのいい音と共に、寒い方の少女が蹲る。強い方の少女が手刀を繰り出したようだ。
「落ちていても、持ち主が解っている物を勝手に持って行ったら泥棒と一緒だよ。反省する事っ!」
「……は〜い」
うむ、人畜無害な娘かとも思ったが意外と過激らしい。それに、少なくともこの中では一番の実力者なのは間違いない。
「それと、お菓子売りさん」
「はいっ! なにかな!?」
直立不動で返事をする良也を見てもそれが解る。
チラチラと彼女が持っている紙袋に目をやっているが、何が気になっているのだろうか?
「その……、男の人ですし、そういうのに興味があるのは解るんですが、こういう本を出しっ放しにされていると、チルノちゃんや他の妖精の教育にも悪いので……」
「は、ははは……。以後、気をつけます……」
赤い顔の少女から言葉と共に紙袋を渡され、何故か良也は白くなっていた。
少女二人は飛び去ったが、良也はまだここを飛び立つ気力が沸いてないようだった。
探していた本も手元に戻ったのに、一体何が不満なのか。
「――っ!? 見つけたっ!」
「げっ、見つかった――っ!」
聞き慣れた声に頭上を見上げれば、橙が飛んでいる。
魔女に落されてからそのまま私達を探していたのだろう、はっきり言ってボロボロだ。
「いい加減ソイツを返してよ貰うわよ、犯罪者になんか任せておけるもんですか! さあ、観念してお縄に付きなさい!!」」
む。私の事が一番に来るとは。
……流石に猫な私でも、ちょっと心配かけたかなと思わなくもない。
「まだ言ってるのかっ!? 僕は技術書なんか持ち込んでないって――ー」
「――――あら、じゃあ何を持ち込んだのかしら?」
「紫様っ!?」
「スキマっ!?」
声に振り向けば大家さんが宙に座っている。
猫として遺憾ながら、まったく気付かなかった。どうもこの大家さんは神出鬼没で困る。
「ねぇ、良也? 聞かせてくれないかしら、一体何を持ち込んだのかしら?」
「い、いや、それは……」
「言えないのね?」
しかも今回はどうも御立腹の様子だ。
これは……間違いない、子供にちょっかい出された母猫のオーラだ。
ウチの子に変なマネしようってんじゃねぇだろうな? あぁ?
というような。
「紫様っ! コイツ、持ち込んだのは巫女や力ある妖怪達に見せられないような本だって言ってました!」
「ちょっと待て橙っ! それは誤解――」
「あら、それは貴重な情報だわ。そうね、それなら外の世界の技術書に間違いないでしょう」
「ス、スキマ、お前まで……。だからあれは――」
「良也?」
その瞬間、母猫オーラが増大したのを感じた。
「まさかウチの橙に変な本見せようなんて、思ってないでしょうね?」
「……ハイ、ソノトウリデス」
「やっぱり? じゃあ早速だけど判決を言い渡すわ」
クパリ、と空間に口が開く。
中には無数の目と手が蠢いている。大家さん自慢のスキマだ。
「スキマ送りか!?」
「ふふ、惜しいわね。スキマ送りと言っても今回は相応しい執行人の所まで送り届けるだけだから」
満面の笑みを浮かべた大家さんのスキマがじりじりと迫ってきても、良也は蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「執行人って……」
「貴方も知らない仲じゃないでしょう? ……閻魔様のと・こ・ろ♪」
「…………い、や、だ――っ!」
弾かれたように逃げ出したが、無駄な事を。
次の瞬間、良也は足元に開いたスキマに落ちて行った。
「さて、お手柄だったわね、橙」
「……いえ、結局紫様のお世話になっちゃいましたし……」
自分一匹で解決できなかったのが悔しいのか、スカートを掴み、俯きながら橙は言う。
それに対して大家さんは何故か私の首根っこを掴んだ。
「ねぇ、橙。はっきり言って、良也はまだ貴方より弱いわ。その彼を捕まえられなかったのは……ひょっとして、この子が一緒に居たから?」
む?
「あ……」
「そういえば良也が初めて迷い家に来た時、弾幕ごっこを始めて、しかもこの猫を巻き込みそうになったって藍に叱られていたものね」
「……はい。普通の猫が弾幕ごっこに巻き込まれてたら、下手したら怪我じゃすまなかっただろうって」
「それが怖くて、思い切って良也を追えなかったわけね」
……ニャア。
少しの間、大家さんと橙は黙り込んだ。
橙はまだ俯いている。
しかし、大家さんは優しい微笑みを浮かべていた。
「橙、こう言ってはなんだけど……」
「……はい」
「よくやったわ」
「え?」
大家さんはふわりと橙の頭を撫でる。
「従者を見捨てるより敗北を選んだ事を、よ」
「で、でも私負けちゃって……」
「だから、『こう言ってはなんだけど』って言ったでしょ? 勿論負けない方がいいわ。だけど貴方勝利できる状況で、敗北を選んだ、選べた。従者が危険だったからという理由でね」
「紫さま……」
「私は、それが嬉しいの」
感極まったのだろう、橙は泣き出して同時に大家さんに抱きついた。
「うぇっ、ゆ、ゆがりざまっ」
「はいはい、泣かないの」
………………ニャア。
大家さんは橙の体が大事ない事を確認した後で、先に帰ると言ってスキマに入って行った。
なんでも藍さんがお使いに行ったまま帰って来ない橙をひどく心配しているとか。大家さんがこちらに来たのも、藍さんに必死に頼まれて様子を見に来たらしい。
偶には藍の心配性も役に立つのね、とは大家さんの言だ。
ちなみに最初は橙も一緒にスキマで帰る筈だったのだが、お使いの途中だった事を思いだした本人が固辞したのだ。
そんなのいいのに、と大家さんも言っていたのだが、任された仕事を投げ出したくなかったらしい。
溜息を吐いた大家さんは追加のお金を渡し、これで橙の好きな魚を買ってくるようにと仕事をもう一つ頼んだ。
中々粋である。
「ねぇ、お前はどれが良いと思う?」
肩の上の私に、橙が聞いてくる。
……今まで肩の上に乗った事など無かった為、始め橙は驚いていたが……。
別に、ちょっとした心境の変化があったとかそういうわけではない。
ただの何となくである。
今、私達は魚屋の前で買って帰る魚を選んでいる。
大家さんはかなり多目にお金を渡していたらしく、いつもより豊富な選択肢に橙は幸せに困っていた。
今日の豪勢な夕食を想像し、唇を舐める。
ニャァニャァ。
美味しい魚ならなんでもいい!
「……まったく、今日はあんな事があったのにお前は呑気なもんね」
その台詞に唇を歪める。
この同胞はそんな事も忘れてしまったらしい。
猫とは元々、そんな物だ。
戻る?