まぶしい。

 そう感じて誠隆は意識が覚醒する。ゆっくり目を開くと、そこには見知らぬ木造の天井が広がっていた。

 寝起きの頭が働きはじめるまで曖昧な思考のまま誠隆は天井を、ぼんやりと眺める。

 畳の良い匂いがすることに気がついて周囲を見渡せば、そこは6畳くらいの和室の真ん中だった。

 開いている窓からは心地よい日の光が差し込んでいる。まぶしいと感じたのかこれか。

 なんとも平穏な朝。

 いつもなら、のんびり起きてゆっくり着替えでもしつつ朝食のメニューでも考えるところなのだが、寝起きの頭が働き始めると同時に抱いた疑問が誠隆にはあった。


「何処ここ」


 自分の家に、こんな部屋は存在しない。

 つまりここは他人の家ということなのだろうが、何故こんなところにいるのか誠隆には皆目見当がつかない。

 とりあえず、この家の住人を探して理由を聞くのが一番手っ取り早いだろう。

 そう思い立って、誠隆が人を探すため立ち上がろうと体を起こしたときであった。

 突如、体中に走った鋭い痛みに誠隆は顔を歪ませた。


「痛っ……ほ、包帯?」


 よくよく体中を見渡せば、彼の体は包帯ぐるぐる巻きであった。

 オーバーなんじゃないかと思うほど全身に丁寧に巻いてありミイラ寸前のその有様は、見ていて痛々しい。

 一体、何があっただろうか。

 こんな怪我を負うような状況、普通ではない。

 痛みで起き上がれないので、布団に横になったまま誠隆は記憶の断片をかき集めた。

 職業安定所で出会った胡散臭い女に、面接を半場無理やり受けさせられた挙句、監禁されて空から落とされた。そのあと、とても良い子に出会ったものの、直後人食い妖怪に遭遇。

 何とか逃げることに成功して安堵したのもつかの間、今までの全ての非常識を打ち砕くような、鬼のように強い巫女に追われ最終的に追い詰められて、空で撃墜。終わり。

 思い出した。正直、中二病患者でもドン引きするレベルの妄言である。しかし、実際あったことなわけで。

 間違いなんてひとつもないのに、自分自身全く信じられないとはこれいかに。何だか、余計にややこしくなった事態に頭を悩ませるしかなかった。

 そもそも、ここは何処なんだろうか。一応、天国でも地獄でもないようで、かろうじて生きているようだが。

 生きていたことは、本当にありがたかったが誠隆自身は不安で仕方なかった。

 せめて、誰か知り合いでも居てくれれば。彼が丁度、そんなことを思ったときだった。

 部屋のふすまが開く音がした。誠隆は、びくっと体を震わせる。

 誰か来たようだ。つい先日、生と死の狭間で殺気を感じ取る方法は習得したため、何となく分かるようになったのだが、どうやら殺意は向けられてはいない。

 確かめるために恐る恐る誠隆は、ふすまの方に目を向けた。


「あら、起きたのね」


 そこに立っていた意外な人物を目にして、誠隆は目を大きく見開いた。

 紅白の巫女服に、見覚えのあるその顔。

 どれほど眠っていたかは知らないが、誠隆にとってみれば記憶の一番新しいところに、彼女の恐怖は存在していた。

 忘れるはずもない。いや、忘れたくても忘れられない。

 そこにいたのは、紛れもなく自分を撃墜した、あの巫女だったのである。

 と言っても、あのときのような敵意は向けられてはいないようだが。

 手には何故か桶と手拭だろうか、布を持っている。

 これは、一体どういう状況なのだろうか。

 どうも、手当てをしてくれているのはこの巫女のようだが、殺そうとしてきた人間が一体何故なのだ。何がどうしてこうなった。裏がありそうで怖いのだが。

 巫女は、そんな誠隆の気持ちを知ってか知らずか、無言で誠隆の前まで来ると畳に膝をついて桶を脇に置いた。

 あの時は気にしている暇もなかったが、巫女はどうやら年下のようだ。見た目的に、中学生くらいだと思われる。

 端整な顔立ちで、黒く艶やかな髪を後ろで大きなリボンで結っている。着ている巫女服は、何というか変わったデザインだった。袖が分かれている脇丸出しの巫女服なんて、初めて見た。宗教上の問題だろうか。

 そして誠隆が一番印象的だったのが、一目見ただけで分かるくらい同年代の少女の雰囲気にしては似つかわしくないほど冷めているというか。やる気が、あまり感じられない。

 なんというか、不思議な少女である。


「何? じろじろ見て」

「……いや、何でもない」


 流石に、無言で見つめるのは失礼だったか。

 ジロリと睨まれて、誠隆は視線を逸らす。

 年下であろう少女相手に18歳にもなる男が、こんな反応をするのも情けないことこの上ないが怖いのだから仕方が無い。

 誠隆は咳払いすると、自己紹介も兼ねて改めて巫女に話しかけた。


「オレ、白南風誠隆っていうんだけど、君は?」

「博霊霊夢よ」


 博霊霊夢と名乗った巫女は、特に表情を作ることも無くそっけなくそう答えた。


「えーと……」

「……」


 そして、停止する会話。

 終わりかよ!と思わずツッコミそうになるのを誠隆はグッと堪える。

 それにしても、もう少しリアクションがあってもいいんではないだろうか。

 霊夢本人はというと誠隆には興味なさげに頭のリボンを弄っているだけ。

 彼女は、一体何をしに来たのか。真意が全く見えない。ただ、様子を見に来ただけなのか。

 疑問に思っていると、霊夢は不意に『あ』と何かを思い出したように誠隆の顔を見た。


「で、弁明は?」


 そして何の脈絡もなく、誠隆にそう問うた。

 その質問が、何を意味しているのか誠隆は直ぐに察した。言わなくても分かるだろうと、彼女は主語を省いたのだ。

 どう考えても賽銭箱の件についてであろう。

 そして、誠隆が満足に動くこともままならないこの状況において、そう聞いてくるということがどういうことなのか。

 簡単なことだ。つまり、今の誠隆がまな板の上の鯉であるということ。

 霊夢はというと、ただじっと誠隆の顔を見つめていた。

 その視線からは『返答によっては容赦しない。お前みたいな貧弱一般人なんてどうとでも出来るんだぞ』と無言の圧力をかけてきているように思えた。

 実際そうなんだろうが。そもそも、誠隆自身あんな馬鹿げた力を見せ付けられた手前、逃げようなんて一切考えていなかった。

 とりあえず、誠隆に今出来ることと言えば一つしかない。

 痛みをガマンしながら、何とか体を起こすと誠隆は霊夢の方に向き直って、深呼吸した後一言。


「ごめんなさい」

「……は?」


 悪いことをしたなら謝る。鉄則である。

 霊夢は、予想していなかったのか突然の謝罪の言葉に口をポカーンと開けて誠隆を見たまま固まっていた。

 そも、誠隆にはこれくらいしかやれることもない。

 無一文。しかも、怪我のせいで働いて返す事も出来ない人間に出来ることと言えば――謝るか臓器を売るかの2択くらいものだ。

 流石に、その2択はいくらなんでも極端過ぎるかもしれないが、誠隆はそのくらいの気分だった。

 変に装飾なんてせず簡単ながらも、自分なりに"心だけは"込めて謝ったつもりだ。これ、重要である。

 それから、しばらく固まっていた霊夢だったが誠隆をじっと見つめた後、不意に『はぁ』とため息を一つ吐いた。


「いいわ。今回だけは許してあげる」

「ほ、ほんとに?」

「冷静になって考えてみれば、私も一般人相手にやりすぎたところもあったわ。まあ、感謝することね。もし、あの場に放置してたなら今頃、血の匂いで集まってきた妖怪たちの腹の中だったかも」

「それは、いやだなぁ……」


 誠隆も、まさか自分が一生の中で食われる立場になるなんて思いもしていなかったが、これが幻想郷ということか。

 人間が食物連鎖の頂点ではない世界において、人間とはなんと貧弱な存在だろうか。

 霊夢のように例外的に強い人間もいるとはいえ、これが現実か。

 やはり、何としても元の世界に帰るべきだと誠隆は判断する。

 誠隆自身、自分のような一般人がこの幻想郷に居るべき存在ではないと分かっていた。

 そして、そんな問題をどうにか出来そうな存在がこの博霊霊夢らしいのだが。

 今は、それについて話題にするような雰囲気でもない。

 出来ることなら、あの八雲紫について聞いておきたかったのだが、後回しにするしかないと判断せざる得なかった。


「まだ、安静にしてなさい。一応、体を拭くための道具も持ってきたから可能なら後で自分で拭いておいて」

「ああ、そうさせてもらうよ」


 霊夢のいうとおり今は、体を治すことを優先させることにした方がいいのかもしれない。

 こんな状態では、家に帰っても1人しかいないのでむしろ困る。

 悲しいことに、彼には看病してくれる知り合いなんていない。

 それに、こんなときに不謹慎かもしれないが、こうやって美少女に看病されるというのも悪くない。

 むしろ、良い。この状況、楽しむべきではなかろうか。

 とかなんとか、ポジティブに考えたりでもしてないとやってられなかった。

 こんな非常識を何度も体験すれば、現実逃避の一つでもしたくなるものだ。メンタルの強さには、そんなに自信はない。

 それに、ここに居るかぎり安全なのだ。霊夢の感じを見る限り、怪我が治るまではここにいさせてくれるようである。

 ならば、このまま厄介になろう。それが、いい気がする。

 そこまで考えて何だか安心したら、急に誠隆を睡魔が襲いはじめた。

 体は正直だ。やはり、相当体力を消耗しているらしい。この怪我ならば、それも仕方ないというものだろう。


「ごめん……少し眠るから」

「ご勝手にどうぞ」


 別に許可なんて取らなくていいわよ、という霊夢の言葉を聞くのと同時に急激に意識が遠のき始める。

 意識が落ちていく中、そういえばと誠隆は思い出す。

 逃げていた最中、一緒にいたはずの大妖精とルーミアはどうしたのだろうか、と。

 人間なんかより遥かに頑丈だろうから、誠隆が生きているなら死んではいないだろうが心配ではある。

 それに、自分を助けようとしてくれた2人にせめてお礼を言いたかったのだが、既に迫り来る睡魔には勝てそうになかった。

 別の部屋にいるのかもしれない。それならまた、起きたときに言おう。

 そんな風に考えながら、誠隆はそのまま意識から手を離した。





 …





「寝たわね」


 霊夢は静かに寝息を立てる誠隆を見ながら、そう呟いた。

 手にはいつの間にか札を握っている。それは誠隆を攻撃したときに握っていたものと同じものだった。

 だが、別に寝込みを襲ったりするつもりはないようだ。霊夢は何を思ったか何度か誠隆の頭から足の先まで札をかざすと、考え込むように顎に手をやる。


「やっぱり、何の反応もなしか……うーん」


 ふむ、と1人で納得した霊夢は誠隆から目を離すと、引き戸の方に向かって声をかけた。


「ちょっと、入ってきなさい」

「は、はい……」


 霊夢の呼びかけに応じる声が一つ。

 それから引き戸がすっと開いたかと思えば、そこに立っていたのはなんと大妖精であった。

 オドオドしながら若干挙動不審のまま大妖精は、霊夢に言われたとおり部屋に入ってくると、誠隆をはさむようにして腰を下ろした。

 霊夢はそれを確認すると、早速確かめようと思っていた話題を切り出した。


「それで、アンタがさっき言ってた通りだと、この人を森で見つけて助けたって?」

「は、はい、そうですけど……」


 そう答える大妖精に、そうかそうかと霊夢は何度も頷くとそのまま黙り込んだ。

 大妖精はというと、そんな黙る霊夢が怖いのか出来るだけ視線が合わさないようにしながら顔色を伺っているようだ。

 そんな大妖精の態度が、霊夢は気になった。

 そんなつもりはなかったのだが、怖がらせてしまったのか。

 霊夢が大妖精を見て首を傾げてみると、大妖精は慌てて視線を下げる。


「どうかしたの?」

「ひうっ……な、ななななんでもないです! なんでも!」

「そ、そう? ならいいけど」


 やはり怖がられているのに、間違いはないようだ。

 これではまるで弱いものいじめをしているみたいで、霊夢自身あまり気分がいいものではない。

 それにしても、一体どうしてここまで大妖精は怖がっているのか霊夢には疑問だった。

 記憶を探ってみるが、到底どうやっても霊夢には心当たりがない。

 所詮はそんなものである。大妖精の頭の中では、今まで霊夢から受けた様々な恐怖を思い浮かべているのだろう。

 やった本人は、得てして覚えていないものなのだ。哀れなものである。

 とはいえ、怖がる大妖精には悪いが、霊夢にしてみても重要なことなのでどうしても難しい顔になってしまうは仕方なかった。

 これも仕事のうちなので彼女が真剣になってしまうのも、致し方ないのだ。


「ふ〜ん、妖精のくせにねぇ」

「?……私が妖精ってことが関係あるんですか?」

「んー、まあね」


 大妖精が既にそこをおかしいと思っていないことが、そもそもの異常なのだから。

 霊夢は、首を傾げる大妖精に問う。


「アンタは確かに妖精の中でも珍しいくらい物分りもいいし温和な方だけど、今まで自分から進んで人を助けようと思ったこと、一度でもある?」

「え? そ、そう言われるとない……ですね」

「それも、見ず知らずの外来人をなんて……性格も含めてありえないわよね?」

「言われてみると……確かに」

「でも、助けようと思ったと」

「落ちてきた誠隆さんを見たとき、何だか、その……上手く説明出来ないんですけど、助けたいって心の底から思ったと言いますか」

「そう……」


 大妖精の話を聞きながら、霊夢が真っ先に抱いた感想は『ありえない』であった。

 幻想郷は確かに人を含めた様々な種族が存在しており、一応共存している。

 しかし、だからと言って多種族同士の仲が必ずしも良いというわけではないのだ。

 妖精が人間を好きなわけではないし、その逆もまた叱り。ましてや突然現れた人間を妖精が進んで助けたりなんて絶対にしない。

 警戒して逃げ出すか、大好きなイタズラでもして放置するのがオチだ。

 大妖精なら前者だろうか。にも関わらず急に助けたいと思うなど、その時点で不自然だしありえない。霊夢は断言できた。ありえないのだ。

 それに、誠隆も誠隆で霊夢はその態度が不自然だと感じていた。

 これまで、霊夢は数多くの外来人を見てきたし元の世界に戻してきた。

 そして、そのどれもが例外なく恐れていたのだ。霊夢も含めた、この幻想郷という世界を。

 当然だろう。外来人の居た世界には存在しない異形の存在たちが目の前で大勢蔓延っていれば、耐性の無い人間なら誰だって恐怖するはず。

 中にはそういった類が好きだという外来人もいたが、死という恐怖を一度でも体験してしまえば意見は180度転換していた。

 なのに。それなのに。誠隆には、それが全くなかったと大妖精から霊夢は聞いていた。

 大妖精にあっても驚きこそすれそれを受け入れ、人食い妖怪であるルーミアに出会っても、取り乱さなかったというのだから本当に不自然極まりない。


「あの、人食い妖怪、いつの間にか逃げてるけど……なんだっけ? お腹を空かしてたから、外の世界の食べ物をあげたら簡単に騙されたって?」

「は、はい。誠隆さんは極度の飢餓状態で、食べ物を貰ったからって言ってましたけど……?」

「……ないわね」

「へ?」

「あの、人食い妖怪がおいしそうな一番の大好物が目の前でうろついていたのに、飢餓状態にも関わらず他の食べ物に目がくらむと思う?」

「そ、それは……」

「確かに力の弱い妖怪はおつむが多少残念な奴が多いけど、何を言ったころで妖怪であることに違いは無い。人間を簡単に信じるなんてありえないわ」


 妖怪という存在を知り尽くしている、霊夢だからこそ断言出来た。

 そんなことは妖精以上に"絶対にありえない"のだと。

 妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。

 今では霊夢くらいしか自ら退治しようとする人間はおらず、妖怪も襲うのは専ら誠隆のような迷い込んできた外来人で幻想郷の人間にはほとんど手を出さないのだが、
 それでも最低限このサイクルが行われていることで、人間と妖怪が絶妙なバランスで関係を保っているからこそ、幻想郷は成り立っていると言っても良い。

 そんな関係の種族同士において、特異な事例を除いて妖怪が人間を食料以外の存在として見るなど。

 彼女は、誠隆に何かあると確信していた。

 しかし、霊夢自身は誠隆と話していても別段何かを感じたりはしなかったのだが。

 何か、条件でもあるのか。流石の霊夢にも一体どういったものなのかまでは分からなかった。


「……面倒ね」


 本当に、面倒なことだ。

 面倒なことは大嫌いだというのに、余計な仕事を持ち込んでくれるなど迷惑極まりない。

 霊夢は気持ちよさそうに寝ている誠隆の顔を見て、無性に殴りたくなったが流石に怪我人相手にはそれも出来ず。

 もどかしい。投げ出したい。

 だが、これも巫女の仕事なので、真面目にやるしかないのだ。落ち着いたら、少し本人から探るべきだろう。

 正直、霊夢自身いつもであれば外来人相手にここまで警戒するようなことはあまりない。

 大抵のことは、どうとでもなると見過ごすところなのだが、霊夢は誠隆を始めて見たときから妙な胸騒ぎを感じていたのだ。

 何か大変なことが起きるような、そんな不快な感覚。

 自慢ではないのだが、彼女は勘が外れたことがあまり無い。

 無いわけではないが、根拠の無い占いなどよりも割とよく当たる。なので、備えておくに越したことはないのである。

 それに、これ以上厄介な"異変"なんてものになる前に食い止めれば、後が楽なのだから。

 しかし、とりあえず今のところ誠隆が起きるまで出来ることは、特に何も思いつかない。

 これからどうしようか、と考えて霊夢はふと思いついた。


「お茶でも飲むか」

「……え? えと、あの、神社のお仕事とかは……?」

「細かいことはいいのよ。どうせ、やることなんて別段ないんだから」


 霊夢は、そういうと誠隆にかけられた布団の乱れを整えてから立ち上がる。

 それを見送る大妖精の顔は、信じられないという顔だ。

 しかし、霊夢はそんな視線も全く意に介すことも無く、土間の方へ歩いていく。

 彼女は、いつだってマイペースなのだ。

 今日は丁度良い日差しが、降り注いでいて縁側も気持ちよさそうだった。

 ゆっくり、お茶を飲むには最高の天気である。

 茶菓子は、何かあっただろうか。

 そんなことをのんびり考えながら、霊夢はゆっくりと歩みを進めた。





 …




 心地よい、まどろみの中。

 不意に邪な視線を感じて、誠隆は意識が覚醒しはじめた。

 眠っているにも関わらず感じる、体の底から寒気がするほどの視線。

 起きたら面倒なことになる。

 そう思って誠隆が無理にでももう一度寝ようとしていたら、ふと頬に何かが触れた感触がしたかと思えば急にびよーんと引き伸ばされた。

 上下左右に好き放題弄られる頬。起こすなら、もう少しやりようがあるだろう。

 いい加減頭にきていたので、誠隆は睡魔に逆らって一言文句でも言ってやろうと意識を覚醒させた。


「……何、やってるんですか?」

「やっぱり、お約束って大事だと思うの」

「はぁ」


 誠隆は目を開けた先に居た相手を見て、脱力してしまった。

 まさかこのタイミングで現れるとは思っていなかったので、拍子抜けしてしまったからだ。

 不敵な笑みを浮かべるその相手は、本当にどうしようもないと誠隆は思わずにはいられなかった。


「おはようございますわ、誠隆さん。と言っても、もうお昼だけど」

「そりゃ、怪我人ですからね。眠っているのが仕事みたいなものですから」

「それもそうですわね」


 相変わらず胡散臭い彼女――八雲紫は、1人でうんうん頷いていた。

 正直、探していた相手に突然出てこられてもリアクションに困るのだが。

 そもそも、何が目的で再度自分から現れたのか。今まで散々放置しておいたくせに。全く信用できない。

 誠隆が疑いの眼差しを向けていると、そんな視線を物ともしていないのか単に気がついていないだけなのか、笑顔のまま紫は何の脈絡もなくこう言った。


「それはそうと、最終試験合格おめでとうございますわ」

「は?」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった誠隆は、布団に横になったまま固まる。

 ――最終試験合格おめでとうございますわ?

 何のことだろうと誠隆は首を傾げる。もしかして、就職試験のことだろうか。

 まだ、続いていたことも驚きだが一体何が試験だったというのだろうか。

 誠隆には、そんな試験らしいことをした覚えはない。

 覚えはないが。そのはずだが。まさか、そんなはずはないと。この人でも、そこまでするはずはないと誠隆は思いたかった。

 ふと、誠隆の頭を過ぎったそれらしいこと。だが、この八雲紫なら平気でやりそうなことではあるから困る。


「もしかして、ですよ」

「ええ」

「今で放置してたのって……」

「面接試験は合格していましたが、やはりこの幻想郷で暮らしていくには生き残る力も必要ですもの。試させてもらいました」

「思ったとおりかよ! 軽く死に掛けたんですが!」

「一般人なら死んでますわ。でも、アナタは死ななかった。つまり、運も含めて多少まともじゃないということね」

「えーと……」


 紫の言っていることは、本当に意味が分からない。

 出会ってから今に至るまで、紫のいう言葉の大半が誠隆には理解不能だった。

 今も現在進行形で、何かを語っているが、もう一々相槌を打つのも、面倒になっていた。

 適当なことをいって言いくるめようとしているようにしか思えない。それとも、実は全て計算尽くなのか。

 本当に、胡散臭いという言葉は、紫のためにあるような言葉である。


「やはり、幻想郷で住むのに向いているということですわ」

「待てやコラ」


 しかし、聞き捨てならない言葉に、誠隆はすかさず反応した。


「チッ……何かしら?」

「舌打ちすんな! どさくさにまぎれていうと思ってたんですよ! それとこれとは話が別です!」

「えー、もうお店の準備始めてるのにー」

「いいから帰る! 帰せ!」

「嫌だと言ったら?」

「ここの巫女さんに帰してもらいます」

「博霊の巫女か……まあ、いいですけど。連れ戻すから」

「やっぱりかよ、チクショー!」


 紫には何を言っても、無駄なのか。

 確かに誠隆自信、身寄りもないので元の世界にあまり未練はないのも事実。

 特別、今の生活がいいとかそういう思いもない。

 だが、ここだけはない。幻想郷だけはない。こんな摩訶不思議な世界で、誠隆は生きていける自信はなかった。

 どこかの会社に就職して社畜と化して働いて、そのうち結婚もして子供も生まれて、家でも建てて幸せな家庭を築いて老後は孫達に囲まれて静かに余生を終える。

 流石に誠隆もこの歳でそこまで深くは考えてはいないが、平穏に暮らしていければそれでいいと思っているのだ。

 それに何より、誠隆はこのままこの八雲紫の思惑通りになるのだけは癪に障るので嫌だった。


「まあ、いいじゃない。ここにしばらく居てそれから決めれば」

「いや、帰すつもり皆無なんでしょ?」

「こちらにも色々ありまして……簡単に帰してあげるわけにはいかないのですよ」

「何ですか、それ」

「友人との約束なのよ」


 そういう、紫は懐かしそうに目を細めた。

 なんというか、わざとらしくて嘘っぽい。

 たとえ本当だとして、その何処かの誰かは何の目的があってそんな約束をしたのか。

 連れてきた人間をどうするつもりなのか。

 どちらにしろ、全くもって迷惑極まりない。


「そんな顔しないでくださいな。アナタが死ぬようなことは絶対にありませんわ」

「もう、死に掛けてるんですが」

「んーそうね……」


 不服そうな表情のままの誠隆に、紫は口に人差し指を当て少し考え込む仕草を取る。


「では、こうしましょう」

「……?」

「もし、怪我が完治するまでに、この幻想郷を気に入らなければ家に帰します。もう、二度と干渉もしません。これでどうかしら?」


 そんなことを突然口にした紫に誠隆は、呆然となる。

 まさか、そんな言葉が紫の口から出るとは全く予想していなかったからだ。


「それ、本当ですか?」

「ええ、一度言ったことには責任を持ちますわ」


 念のため確認を取るが、紫は偽りはないと頷く。

 一体、何の心境の変化なのだろうか。

 突然すぎて怪しい。怪しすぎる。もちろん簡単には信じられない。

 疑いのまなざしを向ける誠隆に、紫はさらに言葉を続けた。


「私にとって幻想郷はかけがえのないもの。嫌っている人に無理に居て欲しいとは思いませんわ」

「……」


 彼女は、慈しむような顔で遠くを見つめていた。

 その視線は、幻想郷全体に向けられているような気さえする。

 そう、例えるなら、まるで我が子に向ける視線のような。

 行き過ぎた郷土愛とも違う感情が、そこにはあるように誠隆には思えた。

 流石に、こんな顔をされると誠隆も疑うのは気が引けた。

 もしかしたらコレすらも本当は演技なのかもしれないが、そも疑い慣れていない誠隆には嘘だと切り捨てるには難易度が高すぎた。


「……分かりました。なら、その案で行きましょう」

「なら、決まりですわね」


 今でも、完全に信じているわけではない。

 これまでの所業を見ていれば、そんなのは当然のことだ。

 しかし、信じなければ平穏な日常に戻れないのも事実。

 霊夢に頼んで戻してもらっても、紫の力でとんぼ返りなのだ。

 いっそのこと霊夢に退治してもらえばなんてことも考えるが、紫は霊夢であっても一筋縄ではいかないだろう。

 もしかしたら、負けるかもしれない。そうなるともう本当に帰れない気がする。

 どちらにしろ誠隆には、選択肢は一つしかないのだ。

 紫は誠隆の言葉に満足そうに頷くと、懐から布巾着を取り出し差し出した。

 反射的に誠隆は、それを受け取るとズッシリ重くジャラジャラと音がする。

 紐を緩めて中を覗き見ると、そこには紙幣らしきものや硬貨のようなものが沢山入っているではないか。

 見たことがないデザインだが紙幣に日本銀行と書いてあるのを見る限り、どうも昔の貨幣のようだ。


「それで、しばらく生活してくださいな。また足りなくなるようなら、こちらから持ってきますから」

「これは、いくらなんでも流石に悪い気が」

「私にはアナタを保護する責任がありますから。生活資金として持っていてくださいな」


 確かに文無しの誠隆にとっては、とても助かるのも事実。

 見返りを求められると困るが、微笑む紫はそんなことを全く感じさせない。

 どうにも腑に落ちないが、とりあえず受け取っておくことにした。


「さて、いうべきことも特にないしそろそろお暇しようと思いますが、何か他に聞いておくべきことある?」

「そうですね」


 そう改めて問われると、誠隆はすぐには思いつかなかった。

 だが、この機会を逃せばしばらく紫には会えないだろう。

 この際、些細な疑問でも聞いておくべきかもしれない。


「……紫さんって、人間じゃないですよね?」

「妖怪ですわ」

「ですかーですよねー」


 当然のように、そう答える紫。

 前々から誠隆がハッキリしておきたかったことであったのだが、やはり人間ではなかったらしい。

 あんな能力を持っているのだから、当然と言えば当然なのだろうが。

 むしろ普通に人間なんて言われたら、人間不信に陥るところだ。

 化け物じみた強さの人間が、何人も居てたまるかと。

 既に1人いたので、あと数人くらい幻想郷にはいそうな気もするが。


「あら、驚かないの?」

「まあ、もう妖精と人食い妖怪に出会ってますからね」

「人食い妖怪の彼女は、アレが基本理念みたいなものですが……妖怪は基本的に、どの妖怪でも人間食べますわよ」

「紫さんも?」

「あまり食べませんが、それなりには」

「うわぁ……」

「仕方ないでしょう? 妖怪なのだから」


 誠隆にも何故だかよく分からないが、妖怪だから仕方ないと言われるとそんな気がしてくるから不思議だ。

 だからと言って同じ人間が人間と大差ない姿をした存在に、おいしそうに食べられている姿を想像するとまさにスプラッタだった。

 妖怪には、人間はおいしいのだろうか。

 ルーミアには大好物のようなので、割とおいしい部類なのかもしれない。それはそれで複雑だが。


「アナタも人間なのだから妖怪には気をつけなさい。まあ、もっとも、アナタの場合はそれも無理な話かもしれませんが」

「え?」


 ため息を吐きながら、思わせぶりなことを口に出す紫。

 何を理由に紫は無理なんていうのか。そんな風に言われると気になってしまう。

 紫は何か重要なことを知っており、尚且つそれを隠している。

 恐らくそんなところだろう。しかも、楽しんでやっているフシがあるので余計に質が悪い。

 もちろん、誠隆にはそう考える根拠もあった。

 ため息を吐く紫が一瞬、意地悪そうに笑ったのを誠隆は見逃さなかったからだ。


「大変ね。色々集めてしまうというのも」

「集めるって……?」

「さて、なんでしょう」


 紫は、おもむろに立ち上がると部屋の引き戸の方に歩いていく。

 帰るつもりらしい。もう、話すことはないということか。

 誠隆自身、納得はいかなかったが、本人が教えるつもりがないならどうしようもない。


「そうそう。私がここに居たこと博霊の巫女には秘密ですわよ?」

「何でです?」

「聞く話によれば、悪さをする妖怪を見たら殲滅するらしいじゃない。こんな所にいることがバレたら、たぶん一戦交えないといけなくなるもの」


 その場面が、脳裏に浮かぶ。誠隆は思わず体が震えた。

 そんな恐ろしいこと、冗談でも出来ないと誠隆は思った。

 別に霊夢も問答無用というわけではないだろうが、もし本当にそうなれば巻き込まれる気しかしなかった。


「教えると、被害被りそうなんで言いません」

「よろしい」


 紫は、誠隆の言葉に満足そうに頷くと部屋を後にした。

 それを見送って、誠隆はため息を吐く。

 疲れた。精神的にも肉体的にも。

 さっさと寝て忘れてしまおうと布団にもぐる誠隆だったが、紫が部屋を後にしてから10秒と立たないうちに、また引き戸が開く音がした。

 紫が戻ってきたのかと思って布団から顔を出すと、何とそこに居たのは見覚えのある紅白。

 博霊霊夢であった。

 霊夢は、煎餅を手に持ったまま部屋の中を覗いてキョロキョロ見渡すと首を傾げた。


「何だか、変な気配を一瞬感じたんだけど……1人だった?」

「もちろん」

「そう……おかしいわね」


 霊夢は、煎餅を口に咥えると首を捻りながら部屋を後にする。

 誠隆は、いつの間にか息を止めていたことに気がつくと思い切り吐き出した。

 家主と不法侵入者が鉢合わせるなんて最悪のパターンである。

 どうやらそれだけは避けられたようだが、廊下ですれ違わなかったのか。

 数秒しか経過していないのに、幾らなんでも居なくなるのが早すぎる気がする。

 八雲紫。

 彼女は、やはり底が知れない。誠隆は改めて、そう認識したのであった。



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