//.幕間

 超高速の空戦、相模坊と僧正坊は衝撃波をまき散らしながら空で激突を重ねる。
 近づける者はいない。生半可な天狗が近づけばその衝撃波で吹き飛ばされる。立ち入る事さえ、不可能。
 その姿がかすむほどの速度。そして、響き続ける鉄扇と御剣が激突する音。

 飛翔と加速を重ねながら、相模坊は手の中の御剣を意識する。そして、
 負けない、と。絶対に負けるつもりはない、と思いを重ねる。
 負けない。絶対に、そして、
 父様。と、思い出す。

 白峰山に捨てられていた自分を拾ってくれた人。
 理由はわからない、聞けば気紛れ、と。そっぽを向いて言われた。父に仕えていた綾の局は意味深にほほ笑み、父はどこかに行ってしまう。だから、聞けなかった。
 聞けなかった。…………綾遠高に御剣と菊花の紋をもらった時に、その理由を聞かされた。
 捨てられた子を、自分に重ねて、拾わずにいられなかったのだろう、と。

「い、い加減に、落ちなさいっ!」
「う、るさいっ!
 そっちこそ、邪魔をするなぁああっ!」
 振り抜かれる鉄扇を飛翔の軌跡を捻じ曲げて回避。高速の飛翔の中、圧し折れるような軌道に体が悲鳴を上げるが、無視。
「は、あぁぁあっ!」
 御剣を振り抜く。まつろわぬ民に対する誅殺の権。御剣に比べれば由緒ある刀など物の数ではない。
 それを振り回し、隕鉄の鉄扇を弾き飛ばしながら相模坊はさらに飛翔を重ねる。けど、「甘いってのっ!」
 僧正坊は鉄扇を持っていないほうの手を突き出す。風、天狗の暴威。自分のような修験者上がりの天狗では決して持ちえない。真正の天狗が振るう能力。
 八大天狗の巻き起こす突風は槍のように迫る。まさに槍だ。回避した風の槍が岩を貫いたところも見ている。
 突撃をあきらめ、姿勢を崩すようにして下に落ちる。髪を風の槍が貫き、下から御剣を突き上げる。かつて相対したことのある天狗程度なら串刺し確定の一撃。けど、
「遅いっ!」
 僧正坊は鉄扇を振るう。無理な姿勢からは威力なく、けど、下から振り上げられた御剣を弾くには事足る。再度の、隣接。
「はぁあっ!」
 相模坊は拳を握る。風を操る権能は天狗に劣るが、それを補う戦技がある。打撃。僧正坊の胸を打撃し、動きを止めた彼女の首を掴む。握り潰し、圧し折ろうと思ったが無理。ゆえに、
 墜落、下に向かって全力飛翔。瞬く間に地面が迫り、叩きつける。爆砕の音。
 ただの人間なら跡形も残らないであろう衝撃の音。舞い上がる土煙。それを切り裂き風の刃が迫る。風をすべて御剣で叩き切る。飛翔、僧正坊は地面すれすれの低空飛翔で相模坊に迫る。
 御剣を振り下ろす。超高速の飛翔だがそれで拍子を外す相模坊ではない。頭部両断確定の一閃。……それが、ただの天狗なら。
 僧正坊は地を蹴る。飛翔する天狗にとってそれは加速ではなく減速を引き起こす。刹那の減速。前髪を切り払う一閃。そして、突撃。
 突撃、文字通り頭から激突する。
「い、ったぁあっ!」
 高速の激突で相模坊は吹き飛ばされる。僧正坊は鉄扇をもってさらに追撃。体を振り回して鉄扇を振り抜く。頭部両断を狙った相模坊とは違い、横なぎの一閃は斬首を狙う。打撃。
「がっ!」
 倒れて、けど、足を振り上げる。斬首寸前に腹を蹴り飛ばす。その反動で相模坊は立ち上がり、
「しつこいっ!」
 僧正坊は蹴り飛ばされ、倒れることなく地面を蹴り空へ。相模坊は即座に追撃。
 しつこい、当然。
「勝利以外を私は私に認めないっ!
 霹靂神を封じるなら、私の敵だっ!」
「何にそこまでこだわるのっ!」
 こだわるか? 当然だ。
「それが、父様のためならっ! 私はなんだってするっ!
 失敗を許すつもりはないわっ!」
「それだから狂信って言われるのよっ!」
 狂信、相模坊は飛翔を重ねて失笑。幸せな人だ、と。
「大好きだった人が目の前で狂死したっ!
 それに比べれば狂信なんて、温すぎるわっ!」
 高空、先行する僧正坊は上昇を停止、そして、下降。
 まっすぐに鉄扇を広げる。僧正坊の速度とその鋭さがあれば岩でも両断できるだろう。相模坊は上昇を止めずに足を振り上げる。打撃。鉄扇を蹴り飛ばして逸らして、「は、あぁああっ!」
 蹴り上げて、旋回継続。僧正坊の頭をさらに蹴り飛ばす。
「い、つ。」
 弾き飛ばされた僧正坊は目を見開く。その眼前にはすでに御剣を振り被る相模坊。その一刀は精密に首を狙う。振るわれるのが御剣でなければ無視するが、それが御剣である以上回避するしかない。
「うわっ」
 飛翔は停止、自由落下に任せて落ちる。髪がさらに切り飛ばされる、が。
「っ!」
 直後に跳ねあげられる膝に、鉄扇を構えて防御。伝わるのは膝蹴りというよりは杭打ちのような鋭い打撃の音。弾き飛ばされる。さらに鉄扇を蹴り飛ばされて距離が開く。……距離、御剣を振るう最適の距離に引き離される。
「は、あぁぁあっ!」
 相模坊は御剣を振るう。空で、最高速度で振り回す。天狗の速度と卓抜した技量で攻め立てる。僧正坊の知るうえで最も刀を上手に使えるのは犬走椛だが、相模坊はその速度、鋭さ、精密さにおいて彼女を凌駕。
「く、と、わっ!」
 鉄扇で弾く。隕鉄の鉄扇。そして、大地の神、護法魔王尊の力を宿す鉄扇は簡単には斬られることはないが、それでも相手が御剣では防御に徹していれば貫かれる。
「く、すごっ」
 嵐のような乱舞。空中という場所を活かして、相模坊はあらゆる方向から御剣を振るう。
 嵐のような剣舞。――――それを受け、弾き、回避しながら僧正坊は思う。子供のようだ、と。
 鞍馬山に捨てられた子供を山伏として、修験者として育てる。

 子供は泣き叫ぶ。母に、父に、会いたい、と。

 捨てられたことを自覚できないのか、子供はそういって泣く。両親に会いたいと、泣き喚く。
 どうしてか、相模坊の剣舞にそれを重ねる。なぜかはわからない。相模坊の剣舞は流麗で的確、美しい、とさえいえる。
 けど、どうしてか重ねてしまう。泣きわめく子供の姿を、……否。
 会いたいのだろう。けど、
「まあ、なんにせよ。
 この山を壊すのは容認できないわね」
 大切なものがあるのは、こちらも同じだ。
 鉄扇で防ぎ回避し、そして、「んっ」…………覚悟を、決める。
 鉄扇をもっていないほうの手、左手を向ける。ただの刀なら掌に打撃を受けて終り。だが、そうはならない。
「つっ!」
 御剣は僧正坊の手を縦に切り裂く。体が削がれる激痛が感覚を焼き尽くす。…………けど、
 僧正坊は凄絶に笑う。相模坊は驚愕に目を見開く。その腹に、鉄扇が押し付けられる。
「飛べぇぇえっ!」
 八大天狗の一角、僧正坊が磐座から作り出した鉄扇にありったけの力を込める。風、――否、爆圧が相模坊を打撃。吹き飛ばされる。
「がっ?」
 吹き飛ばされる。僧正坊は削がれた手を振り捨てて、追撃。
「これで、落ちろっ!」
 鉄扇を、振り抜いた。菊花の加護が起動する。鉄扇を弾き飛ばされる、が。
 想定範囲内。鉄扇を手放して、体を旋回させる。狙うは、頭。
 高速の旋回を果たした僧正坊の踵が相模坊の頭を打撃。人を越えた能力を持つ修験者、その中でも八大天狗として十分すぎる実力を持つ相模坊といえど、側頭部に高速の打撃を叩き込まれて意識が保つとは思えない。
 自由落下を始めた相模坊を見送り、「つっ」
 手が痛い。そっちを見たくもない。しばらくすれば回復はするだろうが、削がれて血にまみれた自分の手を見たいわけがない。
 それに、……地上に輝く霹靂を見て、溜息。
「は、……まだ、やることあるわね」
 空では相模坊が連れてきた天狗と鞍馬山の天狗の空戦が続いている。重傷だが援護くらいは、

 ふと、声。

『・わ・・、上は・天・・、・は・牢・神ま・、こ・誓・に力・・・たま・』

「術?」
 意識を失った相模坊から零れた言葉は断片的で、術としても不完全。その出力は本来の一割程度かもしれない。けど、

『・・滅・』

「うそ?」
 最後の声が聞こえて、それと同時に空が、金色に染まった。
 ――――――金色が爆発。鞍馬山で空戦を繰り広げていた天狗は、例外なく地に堕ちた。

//.幕間

//.幕間

 救済について、四季映姫は塞の防壁を維持しながら思う。
 この防壁も結構厳しい、何せ相手は霹靂神。無尽蔵、というかその存在そのものだとばらまかられる雷撃には限度がない。
 当たり前だ。相手は霹靂神、祟りの神。祟りはその存在意義。実行することになんの負担もない。
 戦っている射命丸文と犬走椛を一応は狙ってはいる。井上皇后を忘却させようとする古明地さとり、そして、彼女を抱えて逃げ回る古明地こいしも、散発的に狙ってはいる。
 けど、なによりも周囲にばらまく雷撃が多い。祟りだ。個人を対象とする呪いではない。世界そのものに対する怨嗟は大規模な破壊をまき散らす。それを抑えるのは、なかなかしんどい。
 けど、それよりも、そんなことよりも、
「どうする、べきなのですかね」

 毎日恒沙の定に入り 三途の扉を押し開き 猛火の炎をかき分けて 地蔵のみこそ訪うたまへ

 前に、さとりがふらふらと地上を散歩して帰ってきたときに、謳った歌。
 今様、というらしい。流行歌。気に入っていた、好きな歌。…………けど、
「残念です。私は、まだ迷っていますよ」
 困ったものです、と呟いた。

 何が救いなのだろう。浄玻璃の鏡はここにいる者たちの意志を映す。
 その誰もがそうだ。霹靂神も、そして、そこに眠る井上皇后も、
 誰もがみな同じ、別たれた大切な人に会いたいと、死という、絶対の断絶を越えて、会いたい、とここに集まる者は皆そう泣き叫ぶ。
 そう、泣き叫ぶ、だ。映姫の見る浄玻璃の鏡にはその意志が映し出される。

 そんな事、認められるわけがない。

 失われるからこそ価値がある。死があるからこそ、命という最も尊き意味がある。
 逆説、それがなければ命はなんと軽いものになるだろう。どうせ失われても取り返せるのだ。そこに価値などない。それは、簡単に秩序の崩壊を招く。
 死んでも生き返ればいい。辛いことがあっても死ねばいい。死に逃げ生に逃げる。そこに何一つ価値はない。価値を生み出す必要はない。死したところで生き返ればいいのだ。生きる事に、何の価値があるだろうか?
 ゆえに、死者の復活は否定される。否定されなければならない。絶対の断絶として、そこに死がなければならない。

 それは、誰もが解っている。
 武士である源為朝も、仏教徒である聖白蓮も、修験者である相模坊も、怨霊である霹靂神も、……そして、井上皇后も、白壁王も、

 皆が解っている。誰もが解っている。死の意味と、生の価値を、
 けど、それでも、それでも否定する。会いたいのだと、悪いとわかっていて否定する。傲慢にも、愚かにも、それでもなお求めずにはいられない。大切な人との再会を、

 ――――だから、どうしても思ってしまうのだ。救いとはなんであるか、と。

「醍醐帝、難しいですね。
 私には、まだ人の気持ちがわからず迷っています。……白黒つける、のが難しいと、人に関わらなければ思わなかったのに」

 かつて、閻魔になる前、まだ、地蔵だったころ、
 かつて、訪れたのだ。地獄に、三途にある扉を押し開き、鉄窟地獄へ、猛火をかき分けて、
 救いを、その一心だけで猛火の中を突き進んだ。誰か、手を差し伸べられれば、と。それが、救済になると、地蔵だったころの自分は信じて進んだ。

 貴様に何がわかるっ!

 差し伸べた手を、弾かれて、告げられたのは怒声。
 猛火に全身を焼かれながら、それ以上の熱量を持つ視線で差し伸べた手を払った彼。

 これしか、私に罪を償う方法がないのだっ!

 怒声が頭の中に響き渡る。地獄の猛火に身をさらし、全身を焼かれながら、それでも、それしか償いができないと、彼はそういった。
 救いなどいらない。せめて、償いたい、と。
 地獄の猛火に焼かれながら救済を拒絶した彼、醍醐帝。菅原道真を讒言により左遷した。その責を地獄の炎にその身をさらすことでせめて、償おうとしているかつての帝。
 救いなどいらない、と彼は地獄の炎の中で叫んだ。道真は死んだ。謝ることもできない。ならばせめて、己を地獄の炎に捧げてその恨みを晴らそうと、……ただ、そうすることしか出来なかった悲しい帝。
 救済とは何か、手を差し伸べる事か? それを打ち払う者がいるというのに、
 同情してともに泣くことか? そんなことに、何の意味があるか?

 ただの地蔵に、その答えは出なかった。
 閻魔となり、それなりの時間を過ごしたけど、まだ、それはわからない。

「本当に、人というのはわからないものです」
 浄玻璃の鏡は泣き叫ぶ彼らを映す。悪いとわかっているだろうに、間違えているとわかっているだろうに、それでも、歩を止める事をしない。それが、取り返しのつかない愚行であったとしても、
 閻魔になれば少しは何かが解るだろうか? 地蔵だった映姫の期待は、いまだにかなわない。

 過去に、醍醐帝に差し伸べて、けど、弾かれた手が痛む。
 何も考えず、彼らの好きにさせればいいのだろうか? そうすれば、彼らは救われるだろう。
 その身を、心を縛り付ける悔恨、後悔。それを払うことができるだろう。

 けど、――――生と死がない破綻した世界は、はたして救いになるのだろうか?

「閻魔になっても、分からないことだらけですね。
 未熟といえば、それまでですが、けど、」
 これが終わったら、また地獄に行ってみよう、と不意に思った。
 まだ、鉄窟地獄に醍醐帝はいるだろうか? まだ、悔恨を抱えてその身を猛火に捧げているのだろうか?
 救いの白か、償いの黒か、いまだに白黒つけられない自分だけど、彼に会えば何かわかるだろうか?
 けど、今は、

「私は、地蔵ではなく閻魔。
 誰にとっても白でもなく黒でもない救済ではなく、厳然たる秩序をもって、あなたたちの絶叫を、否定します」

//.幕間

//.幕間

「あのさ、白壁王」
「んあ?」
 酒を飲む白壁王は隣に座る姫海棠はたてに視線を向ける。
 はたてはふらふらと縁側に座り足を揺らして、
「こんなところで何やってるの?
 っていうか、ここ、私の夢、だよね?」
「そうだなあ」
「…………なんかさ、私の中におっさんが住み着いてるみたいで、ちょっとやだ」
「……この小娘」
 真顔のはたてに白壁王は睨みつけて、溜息。
「待ってんだよ。
 じゃなきゃあわしだってこんなしけたところに居座るか」
「このおっさん、人の夢をしけたところっていうか」
 白壁王は黙ってあたりを示す。古びた庵。
「待ってるって、誰を?」
「妻」
 ただそれだけの言葉、それだけを言って白壁王は黙る。続きはない。だから、はたては少し苛立ったように、
「なんで、なに? また愛を語らいたいの?」
「それはいいねえ」
 まんざらでもなさそうな白壁王にはたてはため息。「歳考えなよ」
「仕方ないだろ、いい女だったんだから」
「のろけないでよ」
「仕方ないだろ、いい女だったんだから」
 だめだこりゃ、とはたては見切りをつける。白壁王の言葉に一片の嘘もない、心の底から、そう思っている。のだろう。
 羨ましいな、と不意に思った。
 そこまでいい女といえる妻がいて、不甲斐無いところを叱責してくれる子供がいた。
 はたてには記憶はない。家族、といっても知っているのは常盤と牛若丸の母子だけ。そんな、何も知らないはたてにも、いい家族だったんじゃないかな、と思えた。
 だから、
「いいな」
「わしの妻か? やらないぞ」
「んなわけあるか色惚け爺。
 ただ、……私、さ、家族、いないから」
「いろいろと面倒なことも多いけどな」
「それでも、支えてくれてたんでしょ?」
「別に、家族に拘るこたあないだろ。
 友達でも、な」
 友達、とその言葉を聞いて「なんだ、いるのか」
「…………なんでわかったのよ?」
 覗き込む白壁王から顔を背け、見透かされた事実に少しむっとしながら応じる。
 対して、白壁王はけらけらと笑って「そんなにやけた面見せられれば誰だってわかる」
「うそ? 私、そんな顔してたっ?」
 あわてて顔を抑えるが、白壁王の笑みは消えない。だからはたては照れを隠すように吐き捨てる。
「ふんっ、そんなに思われるなら奥さんもさぞかし幸せものね」
 自分と同じ、大切な人を思い零れる笑み。それを予想しての反論。だから、――――

「捨てたよ」

 ――――その言葉の意味が、理解できなかった。
「は?」
 問い返す。白壁王は酒を一口。
「捨てたよ。妻と子、と一緒にな」
「なに、……よ、それ、」
 あんなに幸せそうに妻の事を話したのに、
 あんなに嬉しそうにいい女と言ったのに、
「捨て、た。って、どういう、事よ」
「そのままの意味だ」
「ふざけないでよっ!」
 白壁王の手に御猪口がある。そのことを認識しながら、それでも、はたては彼につかみかかる。諦観に固まった顔を、真正面から睨みつけて、
「ふざけないでっ! なんなのよっ! なんでなのよっ!
 大切なんでしょっ! 大好きなんでしょっ! それなのに、捨てたってどういう事よっ!」
 白壁王は目を見開く。少女の唐突な行動に、…………否。
「……泣くなよ」
「う、うっさいっ」
 はたては乱暴に涙を払い落とす。だって、
「わ、私、家族、いないけど、……くっ、友達、いて、
 大切で、大好きで、なにも、知らない私を、歓迎して、くれて、……一緒に、ひくっ、いて、凄く、幸せ、だったのに、
 あんた、だって、そう、なんでしょ? なのに、どうして、捨てるなんて、……ひどい事、するのよお」
 ぽろぽろと涙を零す。ぽろぽろと言葉を零す。
「そうだよなあ」
 溜息。
「それしか、できなかったのかな。わしは」
 その言葉には、悔恨。そして、重い、溜息。
「ほかに、なにかできなかったのかな、わしは」
「白壁王?」
 顔を覆う、その背が、小さく震える。
「どうして、遠ざける事しか、できなかったんだろうな。わしは」
「捨てたく、なかったの」
 恐る恐るの問いに、応じたのは重い、溜息。
「大切で、大好きだった。愛していたよ。わしは、……けど、な。
 それでも、……それ、だから、わしには、そうすることしかできなかった。……わしの、妻でいたら、殺されたかも、しれないのだから」
「なに、それ?」
 妻でいたら、殺される? その言葉がはたての中でつながらない。つながるわけがない。
 記憶をもって数日。知っている家族といえば幸せそうな、賑やかな牛若丸と常盤の母子だけ。そんなはたてに、白壁王の言葉がわかるわけがない。
 けど、嘘ではない。…………否、わかる。夢で見た、過去の記憶。彼の、遺志。
「もっと、がんばれば、わしは、妻のそばにいることも、できたかもしれない、のになあ」
 声は泣きそうに震える。夢で見た、彼の記憶。
 否、と思う。と解っている。なによりも、誰よりも、彼自身が解っている。
 たまたま担ぎ出された地位。単なる穴埋め、より都合がいい存在が見つかれば、簡単に追放されるだけの中継ぎ。
 そんな白壁王にそこまでの力はない。ましてや妻は政争から遠く離れた場所にいた。利用するのは簡単だろうし、必要なら、否、目障り、という理由だけでたやすく殺されるだろう。今まで、そうして殺された者はいくらでもいる。
 それでも、傀儡の身でも、使えるだけの伝手を使い。数少ない頼れる者に頭を下げ、綱渡りのような方法で、なんとか遠ざけることができた。それが、精一杯だった。下手に勘ぐられれば最愛の妻は殺されていただろう。
 けど、いつだって思ってしまう。どうしたって、考えてしまう。
 もっと、いい方法があったのじゃないか、と。
 もっと、頑張ればそばにいることもできたのじゃないか、と。
 もっと、…………
「じゃあ、あのさ、白壁王」
 泣いている。その事実にはたては恐る恐る、彼に問う。なぜここにいるのか?
「会いたい、の?
 会って、謝りたいの?」
「そう、だな」
 顔を上げる。心配そうに見つめるはたて。
 謝りたい。……否。「どうかな」
「違うの?」
 白壁王ははたてを見る。優しい子だな、と改めて思った。だから、伝えてみよう、と。
「捨てたことには変わらん。
 言い訳をしても、仕方ない、だから、」
 白壁王は結局、と言葉をつなげる。
「会いたいだけ、なんだろうなあ。
 罵られるかもしれないし、殴られるかもしれない。…………ああ、なに言われてもいいんだ。恨み言でも、なんでもいい、会いたくない、って、言われるかもしれん。顔も見たくないって、な。そういわれても仕方ないんだ。…………ただ、」
 ぽつり、言葉が零れる。はたての瞳は困ったように優しく揺れる。
 ぽつり、言葉が零れる。嘘偽りないただの本音。小さな、ありきたりな、願い。

「会いたいんだよなあ」

//.幕間

//.幕間

 忘却の糸を飛ばしながら、古明地さとりは困ったように微笑む。
 いるのだ。そう、

「こんにちわ、井上皇后」

 もう、彼女はそこまで来ている。

「こんにちわ、可愛らしい子。
 名前を、聞いてもいいかしら?」
「古明地さとりと申します。
 ご尊顔を拝せて光栄です。井上皇后」
 丁寧に一礼するさとりに、井上皇后は困ったように微笑み。
「そんな頭下げられるような人じゃないわ。
 全部、たまたま、出自もね」
「……………………ごめんなさい。ただ、この国の一妖怪として、皇統はどうしても、ね」
「ふふ、分からなくもないわ。だから謝らなくてもいいの。
 ところで、さとりちゃん。」
 井上皇后はあたりに視線を向ける。その視線が捉えるのは忘却の糸。
「これ、やめてくれないかしら?」
「それはちょっとできません」
「でしょうねえ」
 井上皇后は困ったように微笑み頷く。
「悪い事、だものね」
「幽明の境を狂わすこと。
 その意味を、分かっているのですね?」
「それは、ね。一応」
「それでも、なお?」
「ええ、それでも、なお、ね」
「なぜ、ですか」
 さとりは慎重に言葉を選びながら問いかける。そして、思うことは一つ。
 けた外れですね、と。
 自分や小野塚小町でさえ相手にならない。四季映姫よりもさらに上位。並みの妖怪では比較にも値しない。
 ここは記憶と思想が構築する領域。実際に存在するわけではない。…………それでも、さとりにはわかる。井上皇后のその力が、彼女が望めば、自分は一秒以内に灰燼と化す。
 皇統に連なる者、そして、伊勢斎王、語られる怨霊。崇敬、畏敬、畏怖。信仰という精神の拠り所を余すところなくその身に受ける存在。
 …………けど、
「急ぎ、かしら?」
「できればそうしたいけど、どうして?」
「貴女の、お話が聞きたいの」
 さとりはちょこんと腰を下ろす。
「いい、かしら?」

「可愛らしい子。
 お話なんて言っても、そうたいしたことは話せないわよ」
「そうかしら?」
 座るのは畳。上には赤の傘。手元には「お酒?」
「ええ、あの人が好きだったのよ」
 杯に酒。あの人、と澄ました表情の井上皇后。……けど、さとりにはわかる。すでに意識の領域、それ以上の、無意識の領域に干渉する術のないさとりには心が読めない。それでもわかる。
 あの人、と語ったときの嬉しそうな表情は、
「恋人?」
 問いに、いえ、と。
「恋人だったことはないわ。恋も、してないの。
 夫よ」
 意地悪かな、と思いながらさとりは「政略婚?」
「ええ、そうよ。
 ふふ、初めて会ったときは我が身の不幸を心底嘆いたわ」
 どうして、と。どうしてこんな人の妻にならなければならなのか、と。…………けど、
「愛した?」
「ええ、恋してない。愛してたわ。
 不思議なものね。まあ、恋愛なんて言葉しか知らなかったけど」
 伊勢斎王の任は、そんなものが許されるような生活を送ることはできない。
 だから、恋愛についてわからない。ただ、漠然と恋して愛して、と。そんな言葉だけを知っていた。
「一目惚れですか?」
 問いに、井上皇后はきょとん、と目を見開いて、
「…………ふ、……ふふ、……あ、ああ、ごめんなさい」
 くすくすと、笑った。困ったように彼女を見るさとりに小さく頭を下げて、
「ごめんね。ううん、第一印象は、」

 最初は嫌悪だった。恐怖だった。不安だった。

「――最悪だったわ」
「そう?」
「ええ、……なんていうか、酒臭くて。
 ずっとお酒ばっかり飲んでたみたいなのよ」
 そういって困ったように微笑む彼女の手の中には酒。夫の好きだった、酒がある。
「けど、好きになったのね」
「ええ」
 頷く、手の中の酒に視線を落として、
「どうしていいかわからなくてね。ずっと、不機嫌顔で黙ってたの。
 近寄られるのも怖くて、……けど、何度も声をかけてくれたわ。変な人よね。私みたいな無愛想な年増に、おどけて、たくさん声をかけて、ずっと、無視、してたのにね」
「だんだんと心を許した?」
「だってしつこかったんだもの」
 きっかけは、…………思い出せない。ただ、最初は叱責だったかもしれない、あるいは、堪えきれず笑ったのかもしれない。
 ただ、覚えているのは、
「やっと笑ってくれた、って。
 確か、何かやって転んで、それを見て笑っちゃったとき、だったわ。酒飲んで、千鳥足だったのに無理するから」
 派手に転んだ彼を助け起こして、そういわれた。
「笑った顔がずっと見たかったって、……もう、彼もいい年なのに」
「好きになった女性の笑顔は見たいものじゃないですか?」
「あら、お上手」
 くすくす、と井上皇后は笑う。「そうね」と。
「一目惚れ、って彼は言ってたわ。
 おかしな人、もう、私もいい年なのに」
「いえ、綺麗と思いますよ。私も」
「ふふ、ありがと、
 さとりちゃんにそういってもらえると嬉しいわ」
「そうですか?」
「ええ、さとりちゃんみたいな可愛い女の子に言われると、ね」
「そんなものですか」
 自分の外見について、さとりは特に興味を持っていない。ただ、
「なら、こいしに言われるときっとすごいですね」
「こいし?」
「私の妹です。
 とてもとても可愛いですよ」
「あら、ふふ、あってみたいわ」
 それは、無理。今頃霹靂神の雷撃から涙目で逃げ回っているはず、………………可愛い。
 ともかく、つまり、
「顕界に戻りたいのですね。
 夫に会うために」
「そうね。……会って、聞きたいの」
 不意に、井上皇后の声が変わる。

「どうして、捨てたの、って」

「…………捨てた、ですか」
 一瞬、さとりにはその言葉の意味が理解できなかった。
 夫のことをあんなに幸せそうに話していた彼女、そして、彼女の語る夫も、深く、愛していたと思う。
 だから、
「それで、怨霊として語られたわけですか」
「別に怨んではないのだけど」
 さとりの言葉に井上皇后は困ったように言う。怨んでいない、ただ。聞きたいのだ。
 どうして、と。
「捨てられた、ですか」
「ええ、」井上皇后は手の中の酒に視線を落として「まあ、……私だって、理想の妻だったなんて思ってないわ。出会ったころは散々だったし、……そのあとも、いろいろ、失敗してたし」
 もともと、家事雑事とは縁遠い生活をしていた。できるはずがない。けど、
 けど、
「慣れない料理、失敗しても、食べてくれたし、……掃除も、手際の悪い私を手伝って、一緒にやってくれた。
 幸せ、だったわ」
 だから、聞きたい。
 どうして、捨てたの、と。
 何か悪いところがあったのかもしれない。気に入らないことがあったのかもしれない。
 それならそれでいい。それでも胸の内に確かにある、幸せな思い出をもってそっと立ち去ればいい。
 ありがとう、と。たとえ愛してくれたのでなくても、あの幸せな日々が偽りだったとしても、それでも、私にとって幸せな思い出をくれてありがとう、と。そういいたい。
 けど、……それも、分からない。
 どうして、問いかける間もなく、流罪。
 夫を呪った、というらしい。もちろんそんな事はしない。けど、皇后の流罪には夫の許可が必須。つまり、愛する夫が自分を捨てたとなる。
 どうして? なぜ、捨てたの?
 だから、…………せめて、……
「その理由を聞きたいの。
 ただの我が侭よね。それで、幽明の境を狂わるなんて、それがどういう事かも、解るわ。けど、」
 解る、…………けど、それでも、駄目なのだ。駄目、駄目だとわかっていても、それでも、
「会いたいのよ」
 その意志、その思いに触れてさとりは言葉をなくす。悪いとわかっていても、駄目だと、認められないと、知っていても求める。
 人の、人であるがゆえに抱える矛盾。
 さとりが愛してやまない人の心。/こいしが恐れてやまない人の心。

 だから、と井上皇后は困ったように、手を向ける。
 力なく、その手に、光が宿る。

「ごめんなさいね」

 光が、爆発した。

//.幕間



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