「もっ、みっ、じっ、ちゃーーんっ!」
「むぎゅっ」………………「ふはっ」
 胸から顔を上げる。が、抑え込まれるように抱きしめられる。
「ふふ、椛ちゃん可愛い」
「そ、僧正坊様」
 窒息の危険を感じてふっくらとした胸から顔を引きはがす。できれば一歩はなれたいですけど、しっかりと抱きしめられているのでそれも叶わないです。
「あの、どういたしましたか?」
「椛ちゃんを抱きしめて撫で撫でしに来たの。
 ふー、ふー、ふー、ふー」
 呼吸が心配なのですけど、ちなみに、この方は僧正坊様。八大天狗の一角で私に牛若丸を預けたお方です。
 私や文を何かと気にかけて面倒を見てくれる、有難い御方なのですが。
「あ、あの、僧正坊様、離して、……ひゃっ、ちょ、どこ触ってるんですかっ!」
 おしり触らないでくださいっ!
「ふふ、椛ちゃんかわいー」
「わかりましたから、離れてっ、ひゃっ、んっ、……あっ、や、手、手を前に持ってこないでくださいっ」
「千手観世音菩薩は愛の象徴なのよっ!」
「…………文、なにあれ?」
「僧正坊様よ。椛を抱きしめておしり触ることが趣味の天狗」
「……私には女性に見えるわ」
「奇遇ね、私にもよ」
 見てないで助けてください。……ああっ、牛若丸がすっごい気まずそうに、…………なら、
「魔王尊は、」ぐ、と僧正坊様の手をつかんで「力の象徴ですっ!」
 背負い投げ。不意を突かれた僧正坊様はぐるん、と一回転して頭からたまたま近くにあった岩に叩きつけられました。
「……あれさ、椛。投げないで絶対に叩きつけたよね」
「そっちのほうが打撃力があるからでしょ?」
 悪意はありませんよ?

「いたた、……もう、椛ちゃんってば」
「てば、ではありません。
 何の用ですか? 答えによってはもう一発いきますよ」
「椛ちゃんの背負い投げって岩に頭頂部叩きつけるから痛いのよねー」すりすりと頭に触れながら「牛若丸。気をつけなさい。人だと頭が割れるわ」
「ぼ、僕はそんなことしないよっ!」
「へー、どーですかねー?」によによと文が笑って「結構椛って抱きしめるといいですよー、もふもふの髪とか」
 あーあー、顔が真っ赤になっちゃって、まったく文は、
「そうなの?」
「違います。
 はたても、変なことやったら投げますからね」
「うぐ、……あれ勘弁、すっごい音したし」
「僕はそんなことしないからっ、椛、しないからねっ」
「はいはい」ぽんぽん、と何やら必要以上に必死に訴える牛若丸を撫でて「信じてますよ。牛若丸」
「う、うん」
「はたて? 貴女が?」
 くるん、とはたてに視線を向ける僧正坊様。
「え? う、うん」
「…………ふぅん? 貴女が」
「知り合いですか?」
 文が首をかしげて、ひたり、とはたてを見る僧正坊様は視線をそらさずに「相模坊が連れてきた、って聞いてるわ」
「う、うん」
「それから、相模坊と会った?」
 続けての問いにはたては気圧されながら首を横に振る。
「相模坊様からは私が面倒を見るように頼まれました」
 す、とそんなはたての前に立つ文。視線は、強い。まっすぐに僧正坊様を見据える。
「ふぅん。………………まあ、いいわ」ため息、そして、艶やかに微笑んで「ふふ、可愛くなったわね。文ちゃん」
「あ、そっちは椛を相手にお願いします」
「文っ!」
「あの、僧正坊」
「ん? なぁに、牛若丸」
「相模坊、って、僧正坊の、友達?」
「相模坊、ねえ」
 ふむ、と頷く。
「違うわ。彼女は八大天狗じゃ一番の新参。っていうか、つい最近なのよね。
 八大天狗に加わったの。白峰山っていうところから来たらしいけど、一気にのし上がったの。あまり、ほかの天狗たちとも折り合いはよくない、っていうか、」
 ふと考え込む僧正坊様。その視線はまっすぐにはたてに向けられている。
「この際だから言っておくわ。
 椛ちゃんや文ちゃんが仲良くしているなら大丈夫、と思うのだけど、……はたてちゃん。
 ほかの天狗はできるだけ避けるようにして、ちょっと異端扱いされてる相模坊が連れてきた、っていうことで、貴女のことを警戒している天狗も、いるわ」
 警句に身を小さくするはたて、そして、牛若丸の声。
「はたてはそんなんじゃないっ!」
 立ち上がる。まっすぐに、挑むように八大天狗の一人を見据えて、
「はたては悪い子じゃないよっ!
 一緒に遊んだけど、はたていい子だったっ!」
「牛若丸」
 毅然とした言葉にはたての安堵の言葉。ため息。
「そういうことです。僧正坊様。
 何かあれば報告をします。だから、」
 だから、その言葉を継げる前に僧正坊様は頷いて、
「わかってるわ。
 ただ、気をつけなさいってだけよ」

//.幕間

「映姫様ー」
「来ましたか、小町」
 小野塚小町の声に、四季映姫は声だけを投げる。視線は逸らさない。
 視線の先には荒らされた宮前霹靂神社がある。
「強盗、ですかい?」
「そのようですね。もう、五日程度、経ちましたか」
「神社に押し入るなんて罰当たり、…………って、映姫様?」
「小町、篁のところに行きなさい。調べてほしいことがあります」
「篁の爺様のところへ? 火急、ですね」
 映姫の視線は鋭く神社を見据えている。ただ事でない。そのことを察した小町は踵を返す。
「それと、さとりはどこにいるか知っていますか?」
「さとり? さあ、あいつどっかふらふら歩いてるんじゃないですかい?
 地霊殿もらえるから暇つぶしの何か探してくるとか言ってましたけど」
「……この面倒な時に、…………」ぎり、と音「小町、私はこれからさとりを探します。篁の調査報告を聞いたら、すぐに小町もさとりか、こいしを探しなさい」
「さとりはともかくこいしは難しいですけどね。
 あい了解しました。それで、誰の調査ですか?」

//.幕間

「あら、僧正坊さん」
「こんにちわ、常盤ちゃん。
 息災そうで何よりね」
「はい、おかげさまで」
「で、なんで僧正坊様まで来るのですか?」
「あら、私がいたら迷惑?」僧正坊様はさめざめと目元に手を当てて「ひどいわー、昔はあんなに可愛かった椛ちゃんが、反抗期かしら?」
「あ、わかりますっ」常盤は僧正坊様の手を取って「最近、牛若丸ちゃん一緒にお風呂に入ってくれなくて、反抗期ですよねー」
 それは反抗期なのでしょうか? 会ってさっそく庵の入口隅に移動してぐちぐちと愚痴る二人。
「椛、どうしよ?」
「無視しましょう」
 相手しても仕方ないですし。
「大天狗様って、相模坊様みたいに怖いのばっかりって思ってた」
 そんな僧正坊様を珍奇な目で見るはたて。文は気楽に手を振って「八大天狗もいろいろなのよ」
 ちなみに、僧正坊様が特別に変わっているというわけではない現実。主に事務――という名の後始末――を執り行う鼻高天狗の皆様は八大天狗の巻き起こす珍事にたいてい血を吐くそうです。千手観世音菩薩の愛はああいう苦労をしている方にこそ向けられるべきです。
「まあ、入りましょう」
「はいっ、ただいまーっ」

//.幕間

 とんっ、とんっ、とんっ、とんっ、と、少女と、面倒を見ているらしい一人の女性。
 とんっ、とんっ、とんっ、とんっ、と、彼女たちは手をつないで輪になり、小さく跳ねながら真ん中に座る少女の周りをくるくる回る。
 真ん中の少女は座り、顔を手で覆い。周りの少女は囃すように歌を歌う。

「かーごーめーかーごーめー
 かーごのなーかのとーりーはー、いーつーいーつーでーやーるー
 よーあーけーのばーんに、つーるとかーめがすーべったあ。
 うしろのしょーめんだーあれっ」

 最後の言葉に真ん中の少女は顔を手で覆ったまま、「――――え、えと、姫様っ!」
「あら、残念」一番年上の女性はころころと笑って「はずれ、じゃあ、もう一回ね」
「あぅ、また、……」
 困ったように呟かれる声。ふむ、と女性は頷いて、
「じゃあ、次はとおりゃんせをやりましょう。
 いい、油断したら駄目、皆、本気で行くわよっ!」
「はーいっ」「うんっ」「わかったー」「はいっ」「が、がんばるよっ!」「がんばるっ!」
 そして、「とーりゃんせー、とーりゃんせー」と歌声が聞こえ始める。その光景を見て、声。
「うん、いつ来ても和やかでいいところだね」
「はあ」
 その光景を微笑ましそうに見ていた平清盛は満足そうに言って、平氏の若者は生返事。なんでこんな田舎に来なければならないのだ、と。都を思いため息を一つ。
 と、
「清盛様だーっ」「だーっ」
 ぱたぱた、と少女が三人駆け寄ってくる。真ん中らしい少女が一番前を、次に一番小さい少女が、そして、最後に二人をおいかけるように年長の少女。
 駆け寄ってくる、若者は警戒のために前に出て、清盛は彼を制し、
「清盛様だーっ」
 真ん中の少女の突進を腰を落として受け止める。
「うん、いつも元気だねえ」
 何か言いたそうな若者を無視して清盛は笑いかける。少女は笑顔で「うんっ」
 と、
「ひゃんっ?」
 ぺしょ、と。転んだ。慌てて清盛は駆け寄り「大丈夫?」
 泣きそう。けど、「だ、大丈夫っ! 泣かないよっ! 泣かないもんっ!」
 痛くて、瞳に涙をにじませながら立ち上がる。清盛は笑顔で彼女の頭を撫でる。
「うん、泣かなかったね。偉いね」
「えへへ、てーさまがねっ、強い子は泣いちゃ駄目って言ってたっ」
「てゐ君もいいことを言うね。
 けど、怪我したらちゃんと洗わないとだめだよ?」
「はいっ」
 勢いよく頷く少女を清盛はもう一度撫でる。そして、
「こんにちわ、清盛様。
 どうしましたか?」
 最後、年長の女の子が丁寧に問う。清盛は頷いて「てゐ君はいるかな?」
「てゐ様ですね。こちらです」

「やあ、てゐ君、……と、にとり君?」
「清盛? どうしたの?」「ひゅいっ?」
 畳に寝転がっている因幡てゐはころんと起き上がり、清盛に背を向けて座っていた河城にとりは変な声を上げて肩を跳ね上げる。
 あわててにとりは振り向く。そして、てゐは彼女を指さして、
「さあ、上野国で土いじりしてたらしんだけど、飽きたから戻ってきたんじゃん?」
「酷いなー、そんな無責任なことしないよ。禰々子にちゃんと頼んでおいたよ」にとりは唇をとがらせて「私は河童、たまには出雲に来たくなるんだよ」
「だからってうちに来ないでよ」
 じと目のてゐににとりは手をひらひら振って「清盛が来たってことは面倒な政治の話でしょ? 私は気にしないでいいよ」
「ごめんね」
「いいって、気にしないでよ盟友」
 にっ、と笑ってにとりは背を向けてなにかもそもそといじりだす。確かに彼女には縁遠い話だし、時間があれば彼女の話も聞きたいが、あまり時間もない。
 だから、胡坐をかいてゆらゆら揺れているてゐに改めて用件を告げる。用件、それは、
「――――厳島の、ねえ」
 てゐは面倒な客が来たなあ、と感慨を隠しもせずにため息。
「水軍の連中って、なんだって私に聞きに来るの? 当人に聞いてよ。
 私はもうぼろ屋に住むただの兎、あんたらみたいな中央で大騒ぎしてる連中とは違うんだよ」
「その当人から、てゐ君に許可を、と言われたんだよ」
 清盛は丁寧に応じる。政権を得て栄華を誇るとはいえ、相手は神代よりある存在。厳島神社を崇敬する清盛にとって決して蔑にしていい相手ではない。
 もちろん、心情以外の理由もあるが、……ともかく、てゐはため息を一つ。
「いい加減親離れできないのかあの連中は。
 清盛、そんなの自分たちで判断しろって言ってきな」
 神代よりあるてゐは、その莫大な経験から導き出される的確な助言で高い信頼と、ゆえに絶大な発言力を持つ。
「うん、そうするよ。
 ありがとう、てゐ君」
 もちろん、厳島に根差す水軍からは助力の許可を得ている。そのうえで、彼女に許可を、となっている。
 てゐの回答を得られれば厳島、ひいては山陰の水軍勢力とは継続して良好な関係が結べる。いくつかきな臭い動きがある。戦力は、いつでも動員できるようにしなければならない。
「礼にはおよばんさ。
 そうそう、暇つぶしの本とか持ってきた? 歌集とか」
「もちろん、好きだねえ」
「年寄りは娯楽に飢えてるのさ。
 それに、」てゐは楽しそうに笑って「前まで貴族どもの似たり寄ったりな歌ばっかだったけど、最近は白拍子とか傀儡師の歌もある。そういうのはまた面白いからね。趣向でも変えたの?」
 その趣向を変えた人を思い苦笑を一つ。
「まあ、編者が変われば変わるものだよ。
 それじゃあ、また今度はゆっくりと話をしよう。昔話」
「はいはい、年寄りの長話につきあうくらい暇ができたらきな」
 ひらひらと手を振るてゐ。そんな彼女に清盛は一礼して「そうだ。清盛」
「ん?」
 振り返る清盛にてゐは意地悪く笑う。
「覚えておきな。清盛。
 蛇は鉄に切り殺され、鉄は藤に朽ち落とされる。じゃあ、藤はどうするかね?」
「……いつか、その藤を焼き払おうと思うよ」
「ま、がんばんな。真備や道真がなしえなかったこと、やるだけやってみな」
「……ありがとう。がんばってみるよ。
 じゃあ、にとり君も、時間があったら遊びに行くよ」
「遠いからねー、無理しないでよ」
 振り向いて笑顔を見せるにとりに清盛は笑顔を返して庵を出る、と。
「清盛様。…………まさか、見送りもせず。
 無礼なっ!」
 どうも、てゐが見送りに出なかったことが気に食わなかったらしい。まだ年若い声。
 小僧が、とてゐはため息。
「清盛っ! 小僧の教育くら「この、不敬者がぁああっ!」」
 声、が。その声はさらに大きな怒声にかき消される。
 思わず、てゐが「ありゃ」と呟き、我関せずだったにとりが心配そうな視線を向けるくらいには派手な打撃の音。
「ここには神代よりあるお方がいらっしゃるというのにっ! その庵を拝するだけでも、貴様には過ぎた栄誉というのにっ!
 あろうことか無礼と罵るかっ!」
「ありゃー」「うわあ」
 てゐとにとりがぼやく間にも派手な打撃の音が響く。二人の知る清盛は穏やかで気配りもできるいい人であり、家人の失敗も笑って許す事も多い、代わりに頭を下げることもあった。近くで遊ぶ子供たちの評判もいい。
 そんな優しい清盛だが、例外がいくつか、特に平氏一門にはやたらと苛烈に接する。
 一門の教育のため、とは思うが外から響く怒声と打撃の音から察するに激怒しているらしい。ため息。
「不敬者。
 まったく、てゐ君には何かお詫びを、…………とりあえず不敬を働いたこの者の首を」
「んなものいるかあっ!」

「…………なんていうか、賑やかねー」
 すごい勢いで平謝りした後で大量の土産を約束した清盛。
 彼を見送ってひょい、と蓬莱山輝夜が顔を出す。
「賑やかっていうか、私あんなすごい勢いで謝るの驚いたよ」
 謝り方に圧倒されたのは初めて、慄くにとりにてゐは同感、と頷いて、
「まったく、年寄りは静かに暮らしたいものなんだけどねえ」
「あら、賑やかで楽しいじゃない。
 ちょっと前に来た、何だか胡散臭い人もだけど、てゐって友達が多いのね」
「年寄りだからね。
 そうそう、お師匠様だけどよかったの? その胡散臭い人に貸しちゃったけど」
「そういうことは貸す前に聞きなさいな。
 それに、」
 輝夜はころころと笑って、
「大丈夫よ。永琳は殺しても死なないし、性根的に」
「さとりもそのくらい図太ければもう少し楽しく生きられただろうけどね。
 まあいいや、あ、姫様。その歌集とって、最近面白いの多いから好きなのよねえ。私」
「はいはい、……あ、私にも読ませてね」
 そして、ふと輝夜は思い出す。前に来た胡散臭い人と話したこと。
「前も似たような話、してなかった?」
「清盛は厳島、前のは熊野だよ。
 ずいぶんと熊野に行ってるみたいだけど、熊野水軍と渡りつけられたのかねえ、あいつ」
 首を傾げる輝夜に気にするな、とてゐは軽く手を振る。この天然御姫様が解るとは思えない。と、
「いにしへの 約束せしを忘るなよ 川たち男 氏は菅原」
 ぽつり、零れた歌にてゐは寂しそうに微笑む。
「古臭い歌を覚えてるね」
「うっさいな。
 私たちと盟友、――人間との盟約なんだ。忘れるわけがないじゃない」
 唇をとがらせて抗議するにとり、「すまんね」とてゐは苦笑して応じる。
「道真ね。
 あいつも、頑張ったんだけどね。……約束、最後まで忘れなかったのかな」
「忘れたわけがないよ。
 だから私たちは人間の盟友なんだ。忘れない限りはね。だから、」

 にとりの言葉にてゐは微笑。
「忘れなかったから、道真は神になった、か」

//.幕間

 僧正坊様も含めて賑やかな夕食が終わりました。なので、
「さて、それじゃあお風呂ねっ」
 と、いうわけです。僧正坊様、楽しそうですね。もちろん、「僧正坊様はあとでお願いします」
 文も苦笑して浴室へ。最初は私と文、はたてでいただきましょう。
「え? ちょ、ま、椛ちゃんっ。私、すっごく楽しみにしてたのよっ!」
「後でいいではないですか」
「じゃ、じゃあっ、椛ちゃんっ、せめてっ、せめて椛ちゃんの裸を見せてっ! それだけでいいからっ!」
 何しに来たのですかこの人は。掴みかかる僧正坊様を背負い投げして歩き出す。
「そういえば、牛若丸はどうしますか?」
「ふぇ? 僕は最後でいいよ」
「あら、じゃあ、牛若丸ちゃん。久しぶりに一緒に入る?」
 ぜひっ、とそんな感じで常盤。対して牛若丸は頬を膨らませて、
「母上っ、僕はもう子供じゃないのっ!
 一緒にお風呂なんて入らないよっ」
「そ、……そんな、…………」
 崩れ落ちなくてもいいと思います。そんなに衝撃的でしたか?
 部屋の隅に行ってのの字を書き始める常盤。対して「もう」と子ども扱いに憤る牛若丸。大体いつもの光景です。
 けど、
「じゃあ、椛と一緒に入りますか?
 それなら、私はあとでもいいですよー」
 そういえば、その機会はなかったですね。
 夜闇におびえる牛若丸に一晩ついていたことはありましたけど、
「そうですね。たまにはどうですか? 牛若丸」
「へ?」
 牛若丸は動きを止めて、私を見て、
「え? ……あ、」
 嫌なのでしょうか?
「嫌なら無理にとは言いませんけど?」
「あ、…………い、い、いや、じゃ、ないけど、……え、」
 ……すごい、本当に見る見るうちに顔が真っ赤になっています。
「だ、だめーっ!」
 なぜか牛若丸は叫んで壁に向かって走り出し、そのまま壁に激突して倒れました。…………はあ、「何やっているのですか?」
 部屋の隅でのの字を書く常盤にいきなり奇怪な行動をとり始める牛若丸。なかなか人というのもままならないものです。
「大変ですね」
「そうねえ、牛若丸も大変ねえ」
 なんですか、その、同情交じりの深刻な溜息は?

//.幕間

「僧正坊」
 かけられた声は僧正坊にとって想定通り、ゆえに振り返る。
 想定通り、……とはいえ、僧正坊が向ける視線は鋭い。もともと、天狗は縄張り意識が強い。
 ここは、鞍馬山は僧正坊のいる場所。信濃、飯縄山にいる三郎がいて警戒をしないわけにはいかない。
 特に、最近は相模坊まで乗り込んできた。害意はない、敵意はない、それでも、不愉快ではある。
「なに?」
 ゆえに向けられる鋭い視線。想定通りの三郎は真っ向から見返す。三郎も緊張はしている。害するつもりはなく、敵対するつもりはない。とはいえ、ここは飯縄山ではない、鞍馬山。
 敵地、そのくらいの気構えがちょうどいい。
「諏訪子様が、明日にでもいらっしゃる。
 準備をしておけ」
「……諏訪子様が? どうして」
 眉根を寄せる。諏訪子様、洩矢諏訪子は地元信濃を出たがらない。その彼女が動く。その理由は?
「あの御方が、この地を警戒している。
 諏訪子様も興味をもたれたようだ」
「…………この地を? 警戒?」
「詳細はわからぬ。
 ともかく、そういうわけだ」
「そ、わかったわ。……けど、相変わらず大変ねえ」
 僧正坊は真面目に同情する。三郎は確かに八大天狗としてこの国の有数の妖怪だが。神である諏訪子には劣る。…………けど、それだけではない。
「仕方なかろう。
 諏訪子様がいなければ、戸隠山の紅葉たちといつ戦争になるか分かったものではない。……貴様らと違い京からの干渉は少ないのが救いか、あるいは、もっと干渉があれば大江山のように鬼退治でも起きたのだろうが」
 信濃、戸隠山にはこちらもこの国で有数の実力を持つ鬼、紅葉が率いる鬼がいる。諏訪子の仲介により全面戦争は回避されているが、逆に言えば諏訪子の気紛れひとつで三郎率いる飯縄山の天狗と、紅葉率いる戸隠山の鬼が全面戦争をはじめかねない。
 もう一柱、八坂神奈子はいるが彼女はその実直な性格ゆえに暗闘や政争には疎い。そこを理解して調整し、仲介してくれている諏訪子には三郎も頭が上がらない。
「大変ねえ。……まあ、わかったわ。
 適当に応じておく」
「頼んだぞ」
 三郎はそう告げて、風音。消える。
 溜息、遠く、椛と文の楽しそうな声。そちらを愛おしそうに見つめて、
「なにがあるのかしら、…………相模坊も行方知らずだし、何事もなければ、いいのだけど」

//.幕間

「ふはーっ、相変わらずいいお湯でしたーっ!」
 ぐっ、と冷水を満足そうに飲み終えて文は言う。
「なんか、文。頼政みたいですよ。仕草」
「ぐっ、…………わ、私はあんなお年寄りじゃありませんっ」
「仕方ないでしょう。頼政も似たようなことしてたんですから」
「ぐぐぐ」
 私に憤られても困ります。
「あ、椛ちゃん、文ちゃん、もう出たのね?」
「はい、ありがとうございました。常盤」
「いい湯でしたよー」
「ふふ、ありがと。
 それじゃあ、僧正坊様とお風呂に入っちゃおうかしら」
「その僧正坊様は?」
「覗きに行ってくるって言ってたけど、いたかしら?」
「……あの御方は」
 ため息ひとつ。まったく、
「見て何が面白いというのですか?」
「それ、牛若丸に言ってみなさい。
 たぶん面白いわ」
「文の言う面白いはたいてい面倒な事にしかならないので却下です」
 牛若丸がまた壁に突撃したら、……まあ、あまりいいことはないでしょう。
 抗議の声を無視して「常盤、はたては?」
「そういえば、はたてちゃん先に上がったのよね?
 ちょっと牛若丸に話したいことがあるって言ってたわ」
「牛若丸に?」
 なんでしょう?

//.幕間

「あいたたた」
「あ、大丈夫? 牛若丸」
 身を起こした牛若丸にかけられる声「はたて?」
「ん、その、……ちょっと、ね」
 あたりを見てもはたて以外誰もいない。どうしたんだろ? と牛若丸は首をかしげる。
「なんていうか、さ。
 その、……ありが、と」
 告げられた感謝の言葉に牛若丸は首をかしげる。
「なにが?」
 わからない、と首をかしげる牛若丸。問われて、はたては気まずそうに、
「ほら、僧正坊様に私が警戒されてる、って言われた時。
 怒ってくれた、でしょ?」
 気まずそうに、言いにくそうに、けど、
「その、……なんていうか、嬉しかった。
 だから、……あの、ありが、と」
 ちゃんと伝えたいから、気まずくて、言いにくくて、……けど、ちゃんと伝えて、答えるのは、
「なんだ。そんなことは当たり前だよ」
 牛若丸は胸を張る。気にすることなんかじゃない。だって、
「はたては僕の友達っ、そして、僕は武士なのっ
 武士は友達を大切にするの」
 だから、と牛若丸は笑顔で、
「はたては僕の大切な友達だから。
 その人がひどいこと言われたら、怒るのは当たり前なのっ」
 胸を張って告げられた言葉。子供の言葉、……だから、
「ぷっ、……ふふ」
「あーっ、なんで笑うのっ!」
「あ、あははっ、あ、うん、ごめん」
 謝りながら小さく笑う。笑いながらの謝罪に牛若丸は怒って怒鳴って、けど、そんな仕草が、
「ありがと、牛若丸」
「もうっ、いいよっ、はたてなんて知らないっ
 僕お風呂入ってくるっ!」
「あのさ、」
「なにっ?」
 まだ憤懣とした牛若丸は言葉を止める。はたての、真剣な表情に、
「私さ、記憶、ないんだ。
 五日くらい、前からの、……これ、たぶん相模坊様しか知らないこと、なの。椛や文に心配かけたくないから、一応、黙っておいてね」
「そうなの?」
 首をかしげる牛若丸。
「うん、……その、牛若丸」
「ん?」
「牛若丸も、気にしないで、ね」
 言いにくそうに言葉を紡ぐはたて。その表情は不安。変な目で見られないか、中途半端な同情をしないか、その不安は、
「大丈夫っ」
 にこっ、と牛若丸は笑う。いつも通りに、いつもと変わらない笑顔で、
「はたては僕の友達っ!
 記憶がなくても、はたてが誰でも、僕ははたての友達なのっ」
 それだけで十分、と牛若丸は笑顔を見せる。快活な、明るい友達に向ける。そんな笑顔で、だから、
「う、……うん、あはっ、ありがと、牛若丸」
 嬉しくて、泣きそうになるのをこらえて、はたては笑った。

//.幕間



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